第5話 ノーマル鮮魚部アルバイト

 八月十八日、十五時。



 更衣室で制服に着替えながら、昨日とはまた別の緊張感に悩まされていた。今日は昼からの出勤、つまり中番の仕事を教わることになっている。恐らく幽霊とは接触しないだろうし、品出しなど一般的な仕事を教わることになるのだろう。少し気が楽だった。仕事を辞めるかどうかの決断は、昨日の夜寝ずに考えたが答えは出なかった。今日も二十時から遅番の仕事に向かうことになっているのに。バンダナを巻こうと手に取り、ふと昨日のことを思い出す。これを手首に巻けば、俺も不思議な力が使えるようになるのだろうか。いや、今はそんなことどうでもいい。早く行かないと。


 更衣室を出て一階へ。支給された長靴に履き替え、コロコロローラーで制服のほこりを取る。事前にやるように言われたことを思い出しながらこなしていると、エプロンの紐がうまく結べていないことに気が付いた。青色のエプロンの紐の片方が解けそうになっている。慌ててそばの壁に付けられている鏡を見ながら結び直そうとするも、鏡が小さく手元までは見られない。感覚だけで結び直そうとするとどんどんこんがらがっていき、焦りも増してきてパニックになっていく。どうしようと思っていると、廊下を横切った人がはたと俺を見て足を止めた。


「……じっとしていてください」


「え」


 いつも俺はイレギュラーが発生すると、言われた言葉を忠実に実行することしかできなくなる。じっとしていると、背中でもぞもぞ動く感触。「これで大丈夫だと思います」小さなその声ハッとして背中を見ると、エプロンの紐が綺麗に結ばれていた。


「あ、ありがとうございます!」


 急いでお礼を言うと、すでに歩き出していたその恩人はちらと半身だけを俺に向けお辞儀をした。小柄な女性である。年下だろうか? 若い人もいるんだなと勝手に安心感を覚えた。なんとなくそのまま見送っていると、なんとなく嫌な気配を感じた。これはまさか、幽霊? この店、幽霊に縁がある人しかいないのか?


「おはようございます。……ああ、あなたはもしかして、今日からの?」


 一人で不安になっていると、背後から落ち着いた声が聞こえた。振り返るとベテランの雰囲気を漂わせた男性がいた。きっちりと巻かれたバンダナからわずかに白髪の混じる髪が見えている。誰だろうと思った直後、ピンと思い当たった。失礼のないようにという思いが先行して不安が吹き飛ぶ。ここ最近で一番声を張った。


「おはようございます! アルバイトの雨水です。よろしくお願いします!」


「おお、元気がいいね。鮮魚の次藤です。よろしく」


 青色のエプロンを着たその男性こそが、俺が所属する鮮魚部のチーフ、つまりリーダーである。日に焼けた腕を差し出し穏やかに微笑むその人の貫禄に圧倒された。かっこいい。しかとその固い手を握り、仕事の説明を聞く。


「緊張するとは思うけど、固くならずにゆるっとやろうね。これからやってもらう仕事を簡単に教えるから。といっても教えんのは俺じゃないんだけど。こっちついてきて」


 着いたのは鮮魚の作業場。銀色のスイング式ドアが目の前に立ちふさがっている。馴染みのないそのドアを豪快に開くチーフに続き恐る恐る入ると、そこには二人の人がいた。みな青いバンダナとエプロンをつけており、それぞれの作業をしている。魚の生臭い臭いが少しだけ鼻につき、マスクの下で思わず顔を顰める。


 部屋の中央に銀色の台が二つ。作業台だろうか。台の上には測りやトレーのようなものが無造作に置かれている。右の壁際にも銀色の台が付けられており、そこで女性が刺身をトレーに詰めているようだった。奥にはかなり大きな流し台があり、蛇口に取り付けられたホースがぴょこりと飛び出している。初めて見る、店の裏側、働く人々の姿。人が黙々と仕事をしている空間は、俺に緊張感を与えた。ふと、刺身をトレーに並べていた女性が顔を上げる。


「あ、チーフちょっと聞きたいことが……って、もしかしてその子、」


 ポニーテールが驚きに揺れる。その場にいたもう一人——三十代くらいであろう男性も顔を上げてこちらを見る。思わず顔が引きつった。


「新しく入る雨水くん。初めてのバイトらしいから、あんまりいじめないであげてねー」


「あ、えっと、雨水です。よろしくお願いいたします……」


 視線で次藤に促され、ビクビクとしながら挨拶をする。そんな挙動不審な態度にも鮮魚の人々は特に気にする様子が無かった。少なくとも、表面上は。何を言ったものかと口をパクパクさせていると、先ほどの女性がバッと手をあげる。


「はいはーい! 自己紹介タイムが必要かと思います!」


「自己紹介……まあ名前くらいはね」


 三十代くらいのふくよかな男性が苦笑しながら言う。そのまんまるのお腹といい柔和な顔つきといい、マスコットキャラクターのような印象を受ける。口には絶対に出せないが。


「自己紹介の前に軽く説明させてね。この店の鮮魚部には七人の従業員がいて、うち三人が社員。あとはパートさんとか、アルバイトさんがいる。この二人はパートさんで……あ、いや漆畑さんは違うか」


 次藤さんが視線を向けた先、ポニーテールの女性が目を輝かせて高らかに上げた手を振る。「話の流れ的に私から行きますね!」


「ええと、漆畑まり(うるはた まり)といいます。3年くらいここでバイトしてます! この中だと一番歳が近そうだし、相談とかなんでもしてくださいね」


 そう言って明るく笑う彼女、漆畑さんを見て思わず目を細めた。眩しい。今まで仲良くしたことのないタイプの人だ。よろしくお願いします、とか細い声で返事をすると嬉しそうに頷く。何も言えずに緊張に震えている俺をよそに、ふくよかな男性が会話に入って来た。


「あれ漆畑さんっていくつだったっけ。二十だっけ?」


「二十一ですね。大学三年です。雨水さんは?」


「あ、えっと、二十の大学二年です」


「じゃあやっぱり一番近いね! よろしくね~」


 正直この場にいることが意外に感じるような人だった。スーパーマーケットというよりも、それこそスタバでバイトでもしていそうな風貌をしているが、彼女が先ほどまで並べていたトレーの上の刺身は見事な等間隔に並んでいる。バイト暦の長さを感じさせる腕前に見えた。歳が近いといえど大先輩だ、きちんと接しようと決意をする。


「次いい? ええと、パートの小倉といいます。多分シフト的に俺と漆畑さんとはよく会うことになると思うので、よろしくね」


 ふくよかな男性が穏やかに挨拶をしてくれた。俺も挨拶を返す。見た目通り優しそうな人で安心した。一通り自己紹介を終えると、次藤チーフが簡単にこの部門について教えてくれた。今日は出勤していない人、もう退勤してしまった人の名前も簡単に教えてもらったが、それだけで覚えられる気はしなかった。


「仲良くやっていきましょ。ってことで、俺はちょっと書類片付けてから上がる。後よろしくね」


 次藤チーフの言葉を受けて、流れるようにそれぞれが再び作業に戻った。チーフもなにか作業があるらしく、バインダーを手に取ると俺を振り返り「頑張ってね」と残して去って行く。流れるように業務開始。戸惑いを隠せず、俺はどうしたものか、とうろうろしていると小倉さんに呼ばれる。


「雨水くん、こっちこっち。俺が教育係? らしいから、色々教えるね。まあ初日だしのんびりやってこ」


「は、はい。よろしくお願いします」


 早歩きで小倉さんの元へ向かう。小倉さんはアルコールで銀色の作業台を拭いていた。無骨だが清潔感のあるその台は、なんとなく想像していたスーパーマーケットの作業場のイメージと一致する。ところどころに入った傷が年季を感じさせた。昨日はまあ、幽霊に物を売ったりしたわけだが。今日は何をさせられるのだろうか。


「ええと、雨水君は基本的に遅番担当ってのは知ってる?」


「あ、はい。十四時から二十時まで中番の仕事をして、それ以降は遅番だと……」


「オーケー。そうすると、基本的に一緒に働くのは俺たちと、って感じになるからよろしくね。鮮魚の他の人たちは、朝に来て昼に帰るシフトだから雨水君が来るよりも前に上がっちゃってるんだよね。そのうち会えたら紹介するけど……しばらくは無理かなあ」


 朝の品出しと製造が重要らしく、その後のシフトにはあまり従業員を配置していないようだった。小倉さんは俺が理解していることを確認した後、あごに手を当てて考える仕草をした。


「雨水君のそのシフト、変則的だよね。この店閉店が二十時じゃん? でも雨水君の定時は二十一時。閉店後に一時間もなにするのか不思議でさ。昨日は、遅番の仕事受けてみたんだよね? どうだった?」


「え、ええと……その……う、上手く説明できそうにないというか」


 そうだ、昨日。昨日の出来事がずっと俺を悩ませているんだ。助けを求めるために話そうかと思ったが、他の従業員に言ってはいけないんだったか。昨日店長がそんなことを言っていたような気がする。慌てて誤魔化して下手くそな笑顔を作った。危ない。小倉さんは「ふうん、そっか」と特に気にする様子もなく、思わず胸をなでおろす。


「そうしたら、早速仕事内容を教えたいんだけど……大きく言うと俺たちの仕事は品出し、掃除、売り場の管理の三つになる。一つ目、品出しはわかるかな? 基本的には早番の人たちが作ったやつとか、すでにできてるやつをトレーに乗っけて出すんだけど……」


 説明をメモに取りながら聞く。聞く限りでは想像するスーパーマーケット店員さんの仕事、といった感じだ。幽霊だの悪霊だのといった言葉は出てこない。良かった、これが普通だ。昨日の仕事はやっぱりかなり特殊なものだったんだ。


「ま、仕事内容なんてやって覚えればいいから。そうしたら……まずはそうだな、早速だけど、サクの切り方から教えようかな」


 「ちょっと待ってて」と言い残し、小倉さんが去って行く。向かった先には分厚く巨大な扉。重そうなそれを彼が難なく開くと、ひんやりとした空気が伝って来た。「あれは冷蔵室です。大きいですよね。冷蔵商品の在庫はあそこで保管してるんです。奥に行くと冷凍室もありますよ」


 そう漆畑さんが教えてくれたことを頭に入れながら中を覗き込むと、いくつもの発泡スチロールや段ボールが積み重なっていた。小倉さんは奥にある分厚い扉を開き、その中へとするりと体を滑り込ませた。恐らくあれが冷凍室なのだろう。数秒後、ひやりとした空気をまとった小倉さんが戻って来た。


「いやー寒いね。今は夏だからまだマシだけど、冬に冷凍室入るときは作業用のジャケット着ないと寒すぎて死んじゃうからね」


 確かに小倉さんの近くに立つと、冷気がこちらまで漂ってくる。ふるりと体を震わせていると、「雨水君、こっち」と背を押された。誘導されるがまま歩を進め作業台の前に立つと、小倉さんが手に持っていた発泡スチロールを開ける。中に入っていたのは、四角く切られたマグロ。「これがサク。見たことある?」


「スーパーに来た時には……」


「あ、本当? 簡単に言うとマグロを刺身にしやすいように切ったものなんだけど、俺たちはこれをさらに食べやすいように薄く切る必要がある。スーパーで買うマグロの刺身なんかは、切られているものがほとんどでしょ?」


 確かにサクの状態で売られているものよりも、刺身の状態で売られているものの方がなじみ深い。


「お客様にサクを切ってって言われることもたまにあるし、切り方を教えるから覚えておいてほしいかな。まあ、単純にこの四角いのを薄く切るだけだから難しくないよ」


 そう言いながらまな板を作業台の上に置き、包丁の保管箱から包丁を用意する。それぞれの場所をメモしながら聞いていると、小倉さんが穏やかなトーンで話し始めた。


「こういう作業の方がなんというか、楽しいでしょ? 掃除とかよりもスーパーのバイトらしいし。ぶっちゃけ仕事としてやる頻度が高いのは掃除とかの方なんだけど……まずは楽しいことから覚えていこう」


 返答する言葉が咄嗟に出てこず、はい、とか細い声が出た。高草木さんもそうだが、こんなに優しい人たちが教育係であることは、言ってしまえば運がいいのではないだろうか。自分でなんとかして、と放置される場合もあるとネットで見たことがあるし。少しだけ鼻の奥がツンとする感覚があり、慌ててそれを振り払う。集中しろ、感動して泣いている場合ではない。


「ようし、そしたら俺がやりながら教えるから、まずは見ててね」


 メモとペンを構えると「いいねえ気合入ってて」と笑ってくれた。誠意だけは見せたい。目の前に小倉さんがまな板を置き、その上にサクを置いた。小倉さんは準備を終えると、俺に説明をしながら実践してくれた。


「まずはサクの置き方から。よく見てもらうとサクには線が入っているから、これが、右上から左下に、斜めになるような向きでまな板の上に置く」


 見ると確かに、みずみずしい赤身に模様をつけるが如く線が入っていることがわかった。その線が右上がりになるように、マグロがまな板の上に置かれる。


「んで次。包丁の持ち方は、右手で軽く握って人差し指を背に当てるようにする。こうすると力が入れやすくなるんだ。ここまで出来たら後は切るだけ。切り方なんだけど、さっきサクを置く時に見た繊維に、直角になるように刃を入れる。こんな風に」


 小倉さんが説明をしながら包丁を手に取る。そしてサクに対して斜めに刃を入れた。なめらかに包丁が引かれ、マグロのひとかけらが切り落とされる。


「包丁と繊維が直角になるように刃を入れたら、そのまますっと手前に引くように切る。パンを切るみたいに前後に動かすと形が崩れちゃうから、一回で切ることが大切かな」


 小倉さんの手によって切られたマグロは、美しい断面と完璧な厚みをもってまな板に並ぶ。慣れた手つきで次々に切られていくその様子をただ感嘆しながら見ていると、小倉さんが小さく笑った。


「そんなに興味持ってもらえると俺も嬉しいね。簡単だから、雨水君もすぐできるようになるよ。そうしたら家でサクをちょちょっと綺麗に切ることもできるようになるからね」


「お、俺にできますかね……いきなり……」


「まあとりあえずやってみな。見てるから」


 促され、おずおずと包丁を手に取る。普段料理なぞしないため、何年ぶりに握っただろうかといった惨状である。教えられたことを反芻しながら、軽く握って人差し指を背に当てる。力が入りやすいと言われたが、慣れていないためなんとなく居心地の悪い感触を覚える。俺がおっかなびっくり包丁を握っていると、小倉さんがサクを前に置いてくれた。繊維は左下がり。これに直角になるように刃を入れる。ひんやりとしたサクの感触に手が震えた。


「そうしたら、引くだけね。引いて一発で切り落とす。……そう、そんな感じ」


 どうしても前後に動かしてしまいそうになる手を押さえて、す、と刃を手前に走らせる。途中で上手く切れず一瞬刃をギコギコ動かしてしまった。切れたことを確認したら、そのまままな板の端に寄せていく。ドキドキしながら成果を見てみると、小倉さんのものよりも分厚く、断面は少しギザギザしていた。


「あぁ……」「あれ、上手いじゃん。いいねいいね」


 上手くできなかったことに落ち込みかけている横で、小倉さんは嬉しそうに笑っている。予想外の言葉は恐らく社交辞令だろうと思い、上手くできなかったことを謝ると小倉さんは一瞬キョトンとした後ケラケラ笑った。


「もしかして、最初から俺と同じようにできることを目標にしてた? そんな高いハードル超えようとしなくて大丈夫だよ。新人さんが俺くらいできたら逆に俺ショックだし。初めてだけど、俺の言うことちゃんと聞いてやってくれたおかげで崩れてないしすごいよ」


 失敗にバクバク鳴る心臓の音がうるさかった。この人が本心でこの言葉を言っているのか、それともフォローで言っているのかわからないことが怖かった。それでも、嬉しかった。失敗して小倉さんに迷惑をかけたくない、だからこれ以上下手な作業はするべきでない。わかっているのだが、もう少し作業を続けたくなった。高草木さんも小倉さんも優しすぎて驕ってしまいそうになる。


 俺たちの様子が気になったのか、漆畑さんも作業の手を止めこちらにやってくる。そして同じくトレーを覗き込み、口元に手を当てた。


「すごいですね! 朝社員さんがテキトーに切るマグロより綺麗ですよ。これは有望な新人ですね、小倉さん」


「そうだねぇ。かつお切るのも上手いかも。教えちゃおっかな」


「えー!? それは私に教えてくださいよ! かつお切るの難しくって未だに上手くできないんですから」


 もはや俺のことを置き去りにして盛り上がる二人に呆けていると、小倉さんが俺を振り返る。


「あれ雨水君? どうしたの、ぼうっとしてないでほら、サク一個全部切ってみて。こんなに綺麗なんだから全部雨水君にやってほしいし! よろしく頼むよ」


 包丁を握る。はい、と返事をして向き直ったサクは光を反射してつやめいていた。ちらりと横目で見た、小倉さんの切ったマグロは理想の形をしている。お世辞であることは確実だった。が、ここでそれを指摘するのは小倉さんや漆畑さんに対する無礼になる。この人たちの誉め言葉を突き返すことはしたくない。


 昨日はとにかく緊張と不安で汗びっしょりだったが、今日の仕事はなんというか、楽しい。俺みたいなノロマでもちゃんと仕事ができるのではないかと、そんな希望を持てた。やっぱりこの仕事、続けてみたい。小倉さんや漆畑さんのような優しい人たちと一緒に働きたい。そこまで考えて、包丁を動かしていた手が止まる。でも仕事を続けるなら、悪霊と向き合わなくてはいけない。どうしたらいいのだろう。考えがまとまらずにぼんやりとした頭のまま、目の前の作業を上手くこなすことだけ意識して包丁を動かした。


 そんなこんなでなんとか仕事を終え、二十時数分過ぎ。鮮魚売り場にて。


「……うん、無事に売り切れてるね。今日は廃棄なし。雨水君がテキパキ値下げしてくれたおかげだね」


 物悲しさを覚える閉店の音楽が鳴る中。列が乱されぐちゃぐちゃになった商品を綺麗に並べる。明日また商品を陳列するときに、社員さんの人が並べやすいように。


「いつもは結構廃棄あるんだよ。値下げが上手く刺さらなかったりして残っちゃうことが多くてね。今日はいいね、廃棄ないと楽だし」


「でも廃棄のやり方も教えないとですよね。次は小倉さんが値下げしてくださいよ。そうすれば廃棄出ますし」


漆畑さんがくすくす笑いながら言った。珍味や干物の並べられた棚にビニールカーテンを下ろしながらにやりと小倉さんを横目で見ている。小倉さんはその様子に苦笑すると、商品を並べる手を止めて俺を振り返った。「ええ? なにそれひどいなあ。雨水君も思うよね? ひどいって」


 唐突に振られて言葉に詰まり、なんとか頷きで返事をした。まだ二人のように軽快なやり取りをすることは難しい。それでも話しかけてくれる二人の優しさに胸が痛くなる。このまま二人と一緒に仕事を終えて帰りたいくらいだが、俺はこの後が本番だ。特殊な仕事に向かわなければならない。二人なら俺よりももっとうまく悪霊退治も幽霊の成仏もできるだろうに、俺にしかできないから俺が行かなければならない。霊感のせいで人生がめちゃくちゃだ。損ばかりさせられている。いつも、いつも。


「……よし、売り場は大丈夫そう。そうしたら、あとは作業場の電気消して、値付け機の電源落として帰ろう。漆畑さんも大丈夫?」


「こっちもオッケーです。書類とPHSの返却は? ……あ、そうか。雨水君が返してくれるんでしたね」


 書類を事務所に返した後、高草木さんに合流する予定となっていた。二人と一緒に電源の場所、電源を落とすものを確認しメモを取る。全てが終わり長靴から仕事用の黒いスニーカーへと履き替え、二階へ続く階段を上がる。分厚いファイルを抱えながら、落とさないように階段を上ったところで、更衣室へ向かう二人と道を違える。


「それじゃあ雨水君、お疲れ様。この後も頑張ってね」

「また明日、お願いします! 話も聞かせてね!」


「お疲れ様です。こちらこそありがとうございました。明日もお願いします」


 小倉さんと漆畑さんに一礼し、去って行く二人に背を向けて事務所へ向かう。足取りは平静を装っているが、とにかく帰りたくて仕方がなかった。それでも、何も言わずに逃げるのは高草木さんや店長に失礼だ。今日一日頑張って、その結果で決断しよう。仕事を辞めるか、辞めないか。書類を抱え直し、事務所へと続く扉を開ける。震える足を叱咤して廊下を進んだ。

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