第3話 幽霊のお客様
時刻にして二十時三十分。高草木さんの大きな掛け声を合図に開かれたドアの先は暗闇が広がっている、と思いきや、予想だにしていない光景が目に入った。
「え、え!? なにこれ!?」
先ほど電気が落とされたことを確認した通り、店内は暗く人の気配もない。従業員は皆上がり、電気の消えた店内。真っ暗な中に放り込まれるのかと思ったが、なぜか電気が煌々と店内を照らしている。隣に立つ高草木さんがあまりにも平然としているため俺の目がおかしくなったのかと思ったが、数秒見つめてもその光景は変わらなかった。——すぐそばにある商品棚が、幻のようにゆらめき消え、消えたかと思ったらまた現れる。視界に映るあらゆる商品棚や広告の品と書かれた紙、装飾や商品全てが現れては消え、明らかにいつもの店内とは様相が異なっていた。
「あの、高草木さん、こ、これって」
「あ、雨水くんこっち来てこっち」
助けを求めるように振り返ると、高草木さんは既に離れたところでなにやら台車を動かしていた。上下段に分かれているその台車には、段ボールがいくつか乗っている。下段には長テーブルのようなものが置かれていた。「品出しに使ったりする台車~」と緩い説明が飛んでくる。
「この下にあるテーブルその辺に置いてもらってもいい?」
「え、あ、はい」
全く理解できないまま言われるがままにテーブルをよいしょと持ち上げ、指示されたとおりに置く。通路のど真ん中なので、朝や昼にこんなことをしていたら邪魔だとクレームを入れられるだろう。しかし今は閉店後の夜。怒られる心配はない。というかそれよりも状況が特殊すぎて現実のあれそれは通用しない。
すぐ隣にある商品棚もまた消えては現れるためいちいちびっくりしてしまう。がたりと音を立てて長テーブルを置いた途端、そばに積まれているりんごがゆらめいて消えた。先ほどの一瞬で寝落ちして夢でも見てしまっているのだろうか。現実であるか確かめたくて、近くにある商品棚にそっと触れる。が、触れても感触がしなかった。消えていない、確かにそこに存在しているのに。驚いて思わず悲鳴をあげてしまう。なんだこれは、本当になにかホラー映画の世界にでも来てしまったのか。
先ほど高草木さんが言っていた幽霊という言葉を思い出し、恐怖が体を包む。幽霊が関係しているのだろうか、高草木さんに問いただしたくなった。
「あの、」
「ん? あー、いいね、そんな感じでいいよ。そうしたら、今日売る商品が……この段ボールに入ってるから、台車からテーブルに持って行ってくれる?」
そうは言われてもまずは聞きたいことがたくさんある。高草木さんがあまりにも普通の態度を取っているため逆に俺がおかしいのかと思ってきた。何と言って切り出すかまごまごしていると、高草木さんは別の段ボールをごそごそと漁り中から重たそうに何かをひっぱり出した。
「レジ……?」
店で見たことのあるものよりも簡素で小さいが、値段を表示する小さなモニターといくつも付けられたボタンを見るにレジのようだった。高草木さんは動きを確かめるようにボタンをいじりながら上機嫌な声で言う。
「そ。レジ。ちっちゃいけどちゃんと使えるよ。これもねえ結構すごいんだよ……っていうか雨水君、商品見てみた?」
「え、ええと。その、商品っていうのはなんですか? 今俺はなにをやらされているんですか? 今いるのってお店の中ですよね? な、なんでこんなに、商品棚が消えたりして……」
疑問が積み重なった結果、一気にまくし立てることになってしまった。高草木さんは矢継ぎ早な俺の言葉にぽかんとした後、左に視線をやって数秒考え込む。そして何かに思い当たったのか「あ~!」と大きな声を出した。
「ごめん俺仕事のこと何も説明してないよね。そりゃいきなりやらされたら混乱するか。ごめんごめん、長いことやってたからなんか普通のことだと思ってた……特殊な仕事って言ったのは俺なのにね」
この状況を普通のことだと思っていたのか。思わず顔が引きつってしまった。そんな俺の様子に気が付いていないのか、高草木さんはレジをテーブルの上にそっと乗せると俺に向き直った。
「どう説明しようかな……まず、そうだね。ここは店の中で合ってるよ。この店はまあ、見てもらえばわかると思うけどめちゃくちゃ特殊で、夜二十時二十分くらい?を過ぎると空間が変異するんだ。店長は、あの世とこの世の境とか言ってたかな?」
高草木さんが手に持った段ボールを開けるために手をかける。封をしていたテープを手で引きちぎり、慣れた手つきで開封していく。
「この空間に入れるのは霊感を持つ人だけ。他の人たちにはいつも通りに見えてるみたい。それで、こんな空間に来て何をするのかと言うと、俺たちの仕事は『幽霊に商品を売る』っていう仕事。今やっているのはその下準備。売り場作りだね。商品を並べて、レジをセットして、ここまでやってからお客さんを迎える」
高草木さんは開けられた段ボールを抱え直すと、そっとテーブルの上に置いた。さらに台車から三十センチくらいの網バスケットを取り出し同じくテーブルに置く。
「売り場は別にどこでもいいんだけど、なんとなく商品の種類の売り場でやってるかな。今回は野菜だからウチ、青果だね。まあこの商品棚とかも全部幻みたいなものなんだけど」
「幻……」
「そう。現実世界の要素がちょっとだけ反映されているだけで全部幻。だから店の中もなんかちょっと広くなってたりするし、ほら。天井とかめっちゃ高いでしょ」
その言葉に合わせて上を見上げると、天井が遥か遠くに見えた。体がぶるりと震え、手のひらが冷たくなる。先ほどまでは混乱が勝っていたが、この非現実的な光景が現実であることを認識して冷静になってきた。俺は今、とてつもなく胡散臭く怪しく危険な仕事をさせられそうになっているのではないか。
「あはは、キモいよねこの仕事。ちなみに売る商品もめっちゃキモイよ。遅番の時に出す商品、幽霊用だからかめっちゃキモくて。このビジュアルを見てくれればわかると思うんだけど」
高草木さんはそう言いながら先ほどテーブルに置いていた段ボールを指さした。すでに開封済みのそれは、蓋を開ければすぐに中を見ることができそうである。高草木さんがそっと手をかけ蓋を開けていくと、簡単に中を見ることができた。促されて覗き込む。野菜、と言っていたが、大根か、それともにんじんか。今は夏だから、ナスとかかもしれない。想像しながら見たその中には、見たこともない色と形の物体があった。
「……ん?」
紫色と黄色が混ざったようなマーブル模様の野菜。説明するとすればそうなるだろうか。ほうれん草のようだが細く、ギザギザとしている。見たこともない謎の野菜に俺が呆気に取られていると高草木さんがその得体のしれない野菜を一つ取り出した。
「え、ちょ、それ触って大丈夫なんですか!? 毒とか」
「んー? 平気平気。確かに見た目はあからさまにキモいけど、触るだけなら平気らしいからね。……あ、でも食べちゃダメだよ。見た目がこんなだから食べないとは思うけど、商品だからね。商品を店員が食べちゃダメだからね。それになんか食べるとさすがに害があるって店長が言ってた」
「店長が?」
「そう。この商品は店長が発注かけてるみたい。だから俺も商品については詳しく知らない」
こんなものをどこに発注すれば手に入るのだろうか。詳しく知りたいような、知らぬが仏のような。
「まあ仕事についての説明はこんな感じかな。後は実際に売ってみてー、て感じだけど、なんか質問とかある?」
質問したいことしかない。というか、世の大学生は皆こんな意味のわからないアルバイトをしているのだろうか。絶対におかしいとはわかっているのだが、アルバイト自体が初めてなのでいまいち突っ込みきれない気持ちがある。高草木さんがあまりにも平然としているから余計に。
「え、ええと、非現実すぎてあらゆることに混乱してしまっているので、変な事を聞いてしまっていたら申し訳ないのですが……この仕事って、安全……ですか?」
恐る恐る一番聞きたかったことを口に出すと、高草木さんは顎に手を当てて左に目線をそらした。いやその反応はもう答えになっているようなものである。だとしたらなんとしてでもこの仕事を辞退しなければならないのだが。
「危険……ではないよ。俺とかテンシちゃんとかいるし。俺が守れば安全だし。まー、気になることはあると思うけど、今日は体験ってことで。どう?」
「ど、どうって」
「いやマジで、意外に楽しいから。体験だけでいいからさ」
「え、ええと、その……不安……でしかないですけど、迷惑はかけたくないので……と、とりあえず頑張ります」
ここで嫌です!と言って踵を返す大胆さは持ち合わせていない。かなり不安ではあるが、ここで抜けると高草木さんに迷惑がかかるだろう。こんなに親身に教えようとしてくれているのに俺が無下にするのは申し訳ないし、やはり何より迷惑をかけたくない。彼曰く一応安全な仕事らしいし。一旦、一旦信用してみよう。「ほんと? 良かった! 何かあったら聞いてくれていいし、やっぱり駄目ってなったら言ってね」高草木さんの笑顔に頷きで返答をする。
「そうしたら、まずは幽霊達に売る商品の袋詰めをしようか」
初アルバイト一発目のお仕事だ、頑張らなければ。とりあえず見ててと言われたため、大人しく横につく。高草木さんは手に取った紫黄マーブル野菜を透明な袋に一つずつ入れ、袋詰めされた野菜をさらに段ボールへと入れ始めた。
「あ、これ、一旦段ボールに入れちゃってるけど、売るときにはちゃんと陳列しないといけないからね。さっきそこに置いたあみあみのバスケットに値札を付けて並べていこう。台車にバーコード書いてあるシールがあると思うから、それ貼って並べちゃって」
「は、はい」
俺の任務はシール貼りと陳列らしい。簡単な仕事で安心である。すぐそこにある台車へ向かい、言われた通りにシールを探していると、そばにある商品棚がゆらりと消えた。この光景、慣れる気がしない。無心でシールを探す。バーコードの入っているそれはすぐに見つかったが、本当にバーコードしか書かれていない。商品名や値段などはいいのだろうか。
「これ、値段は……? 消費期限とかってわからないですよね?」
「んー? ああ、値段は気にしないで。消費期限もわかんないから適当に並べてくれればいいよ」
わかりました、と返事をして、シールを貼り並べていく。簡単な作業でいいなと最初は思ったが、よく考えたら無能だと思われているのではないか? いや、単純に俺のことを考えて単純な作業から教えているのだろう、多分。恐らく。そうだったらいいのだが。
「あー、そうだそうだ今が初出勤だよねたしか。えーっと、中番として鮮魚に出勤すると多分品出し教わると思うんだけど、その時は賞味期限とかを見て並べてね。賞味期限近いものを左手前に並べるっていうルールがあるから」
俺が微妙な表情をしていることに気が付いたのか、高草木さんがそう付け加えてくれた。ちゃんと今後のことも考えて教えてくれるとはいい人だ。俺が不安になりすぎないように気を遣ってくれているのだろう。慌てて頷いてぺこりと頭を下げる。
「は、はい。わかりました」
「まあ習った時にでも思い出してくれればいいから。こっち終わったから手伝うよ」
高草木さんが全ての野菜を袋に入れ終え、シール貼りを手伝ってくれる。彼の手つきは普段の仕事で慣れているのか無駄な動きがない。瞬く間に全てに貼り終え、お疲れ様、と笑う高草木さんに頭を下げる。俺も仕事に慣れたら、こうやって流れるように作業を終えることができるのだろうか。迷惑をかける前にそうなりたい限りである。
「よしおっけー。そうしたら開店しまーす!」
「え?」
全ての野菜をバスケットに並べ終えたのを見届けた後。高草木さんが台車に置かれた大きなハンドベルを取り出した。福引で店員さんが持っているあのベルと同じものだろうか。そして素早くテーブルへと戻ってくると、レジの前へと立つ。「雨水君横きて」と言われ彼の隣に立つと、にこりと笑ってベルを掲げた。
「またちょっと驚くかもしれないけど、俺がなんとかするから。……八十八スーパー夜の部、開店しまーす! いらっしゃいませー!!」
カラン、カランとハンドベルが軽快な音を鳴らす。想像しているものよりも涼やかな音色だ。驚いて思わず高草木さんを見上げると彼は笑ってそっと正面を指さした。ほとんど無意識に視線をそちらに向ける。
「っひ、」
思わず引きつった声が出た。高草木さんが指をさす先、商品棚と棚の間の通路に、何かがいる。淡く光る白い影が、何もない空間から湧き出るように現れこちらへと歩いてくる。二本の腕、二本の足、頭。一見俺たちと同じ人間に見えたが、全く動かない表情は不気味で人形であると言われた方が納得できるかもしれない。しかし決して人形ではない。もちろん人間でもない。俺にとってはなじみ深くて、昔から身近にいたもので、思い出したくもない過去を想起させるもの。彼らは何もない空間から次々と這い出て、俺たちの元へと歩いてくる。
「あれが俺たちのお客様——幽霊。この場所に入れてるからそうだとは思ってたけど、ちゃんと見えてるっぽいね、よかった。遅番に配属された人は見えてないといけないからね」
「なに、言って」
高草木さんはそっとレジを撫でると俺を横目で見る。
「こんな感じで売り場を作り終えたら、お客様を呼ぶ。そして、さっき並べた商品を売る。遅番の仕事内容はざっくり言うとコレ。もう一つ大事な仕事があるんだけど……今日はやらずに済みそうかな。まあそれは後で教えるよ」
「え、いや、その、高草木さんも、幽霊が見えるんですか?」
「ん? 見えるよ。俺霊感あるから。雨水君も同じじゃないの?」
そういえば、初めに高草木さんが「霊感がある人はこの空間に入れる」と言っていた。説明を聞いた時はぼんやりしていてあまり真剣に捉えていなかったが、幽霊がこんなに大量に現れるとは本当にあの世とこの世の境だとでも言うのだろうか。そんなことを考えているうちに幽霊の大群が目の前まで迫っていた。霊感があるとはいえ一度にこんな数を前にしたことはない。それに、普段見幽霊は一見普通の人間と同じような風貌をしているから、こんな不気味な幽霊に対する耐性は俺には全くない。俺の顔色が悪くなったことを察してか、高草木さんが心配そうな顔をした。
「あ、ええと……普段も幽霊が見えてないわけじゃないです。でもその」
ちらりと幽霊を見る。クラスメイトの肩越しに見えた青白い顔が脳裏によぎる。友人やクラスメイトを救いたくて、でもどうすればいいかわからなくてとにかく存在だけでも教えなければと行動した。そんなことをしても彼らが困るだけだと知らずに。
『仮に幽霊がいたとしてさ、俺はじゃあ何に気をつければいいわけ? お前が祓ってくれるの?』
除霊もできないくせに、何を驕っていたのだろうか。迷惑をかけ続けるのは嫌で、でも無視をすれば彼らを見殺しにしたのと同義だ。わかっていながら逃げて見殺しにした。何人も。
きつく目を閉じた。すぐそばで高草木さんの声が聞こえる。返事をする気力がなくて黙っていたが、やがて腕を引かれる感触がした。慌ててもつれそうになる足を動かす。
「んー、わかった。霊感があろうが怖いものは怖いもんね。そうしたらとりあえず見てて。お仕事見学。……まあ確かに非現実的ではあるけど、言っちゃえばお客様だから。俺らが売る商品が欲しくて買いに来てるだけの人。人間とそう大差ない。——待ってて」
高草木さんは俺を台車の裏へと連れ出してくれた。そして積まれた段ボールに体が隠れるようにしゃがませてくれる。お礼を言おうと口を開くよりも先に彼はウインクを残すと、素早くテーブルへと戻り背筋を伸ばして立った。小さく息を吸う。
「いらっしゃいませ! 商品をお取りになってからお並びください!」
明るく元気な声。先ほどまでの柔らかな声とは異なる、まさしく店員のそれ。それを合図に幽霊たちはそっと商品——マーブル野菜を手に取り、レジの前へと列を作る。先頭にいた幽霊が商品を差し出した。高草木さんは「ありがとうございます」と商品を受け取ると、レジに通した。その瞬間、マーブル野菜が光り輝く。白い光が高草木さんの手を包む。
「え……!?」
一瞬強く光ったと思った瞬間に、光は収まった。残されたのは、真っ白になった野菜。マーブル模様は跡形もなくなっている。
「はいこちら一点ですねー。ありがとうございましたー」
真っ白く変化した野菜を高草木さんが手渡すと、幽霊はふらりと方向転換してレジの前から離れていった。そしておもむろにビニールから野菜を取り出すと、ゆっくりと口に入れる。食べた。幽霊が、真っ白い得体のしれない野菜を食べた。ごくりと唾を飲み込むその様子を見ていると、野菜を咀嚼したその幽霊の体が光の粒子となって消えていく。その光景を見た瞬間、体がぞくりと震えた。汗がたらりと背を伝う。
「なに、これ……こんなのが、アルバイト……?」
俺はただその様子をぼんやりと見ることしかできなかった。その間にも高草木さんは次々にマーブル野菜を真っ白野菜へと変えていき、そして購入した幽霊たちは野菜を食べて消えていく。バスケットの中の野菜は順当に無くなっていき、まだ列は長く伸びているのに全て売り切れてしまった。追加した方がいいのだろうかと思い、そっと顔を出して段ボールを見てみるも商品はない。
どうしたらいいのかわからずただ見守っていると、幽霊たちは商品がないことに気が付いているのかいないのか、レジの前に列を作ったままだった。高草木さんは全て売り切れたことを確認するとそっとハンドベルを手に取る。
「本日売り切れでーすまた明日お越しくださーい申し訳ございません!」
カラン、カラン。涼やかな音に動かされるように、幽霊たちが回れ右をして去って行く。売り場の通路をゆっくりと歩いたかと思うと、再びなにもないところで煙のように消えていった。カラン、カラン。見届けるようにハンドベルの音が鳴る。やがて全ての幽霊が姿を消すと、ハンドベルを下ろした。
「っはー、終わったー」
その言葉が聞こえてようやく体のこわばりが解けた気がした。
「お、お疲れ様です……」
「ありがとう雨水君」
そっと台車の裏から抜け出して高草木さんの元へ向かうと、特に変わらぬ様子で笑っていた。本当に、普段のルーティンワークをこなしただけのようである。その様子を見て俺は目をそらした。これは普通の仕事なのだろう。ここで働きたいと思ったら、これに慣れなくてはいけない。
「……すみません、俺、何もできなくて……高草木さんがあんなにたくさんのお客様を相手にしているのに、俺、動けなくて……申し訳ありませんでした」
とにかく謝りたくて頭を下げる。最悪このまま解雇だろうか、それとも他部門に配属されるのだろうか。何も仕事のできないやつなど、雇う理由もないし。どんどんと沈んでいく思考にはまっていると、突然頭に衝撃を受けた。「いたっ」
「もうなーに言ってんの」
顔を上げると高草木さんが俺の頭にチョップしていた。「ちょ、ちょっと」こつん、と軽く当たる手に困惑していると、高草木さんはにやりと笑った。
「雨水君、俺社員だよ? まだペーペーだけどその辺の人よりはよっぽど経験あるし。あれくらい全然疲れないから大丈夫。雨水君が気にするようなことじゃないよ。っていうか俺こそごめんね気付かなくて。いきなりあんな幽霊の大群が来てビビるに決まってるのに、色々すっ飛ばしちゃった」
——違う、ただ俺が意気地なしなだけで、だから迷惑をかけてしまったのに。高草木さんはたはは、と不思議な笑い方をして頭を掻いた。事情を話すこともできない俺をフォローしてくれる優しさが目頭をツンとさせる。
「怒って、呆れていないんですか……?」
「んー? なんで俺が怒るの? てか雨水君が一緒に準備してくれたおかげでいつもより早く上がれそうなんだけど! ラッキー。ありがと」
「商品さえ売っちゃえば上がれるから!」高草木さんはそう言ってケラケラ笑うとレジやバスケットを台車へと片付け始めた。俺も慌てて涙を拭い、「手伝います」と段ボールを手に取る。せめて片付けくらいでは役に立たないと。持ち上げた段ボールは空だったのか軽く、力みすぎて落としそうになってしまった。慌てて抱え直して息を吐く。横目で見た高草木さんは楽しそうに鼻歌を歌いながら作業をしていて、気を遣ってくれて申し訳ないのに、その頼もしさと暖かさが眩しくて手元が震える。
「あ、てかさ、色々聞きたいことあるでしょ? 片付けながら答えるからじゃんじゃん質問してよ。俺説明とか苦手みたいだからさ……まあ、今日のこの感じからわかってもらえたと思うけど」
ふと高草木さんがこちらを見てそう言った。教え方もうまかったし、何の問題もないと思うのだが。申し訳なさそうに眉を下げているその表情を見て急いで質問を考えるが、胸中はなんだかそわそわしたままだった。——怒られなかったどころか、あっさりとフォローをされてしまった。俺がなぜ幽霊を怖がっているのか聞く様子もない。気の使える人というのは、高草木さんのことを言うのだろう。俺とは大違いだ。
「え、ええと、……仕事内容について、もう一度教えてほしいです。その、流れというか……」
ならば俺も、できるだけのことはしたい。幽霊とはなるべく関わり合いたくないが、高草木さんの力にはなりたい。親身に教えてくれているのだから、俺にできるやり方でお返しをするべきだろう。高草木さんはこくりと頷き、ハンドベルを段ボールの中へとしまいながら口を開く。
「おっけー、復習がてらね。えーっと、まず備品を乗せた台車を倉庫から持ってくる。今日は俺が先に持ってきちゃったけど、明日は一緒に行こうか。その後はレジ用意して、商品袋詰めして並べて……っていうのが事前準備。準備ができたらベルでチリンチリンやってお客様を呼ぶ。そこからは普通のレジと一緒。レジ通すだけで会計はないから楽だよ」
レジを通した後商品が光り、そして色が変化し、幽霊が商品を食べ、消えた。あの一連の流れはなんなのか尋ねると、高草木さんはテーブルの足を折り畳みながらニヤリと笑った。台車に乗せるために俺も端を持ち手伝う。
「あれねー。すごいでしょ? まあ俺もよくわかってないんだけど、幽霊を転生?させてるみたい。テンシちゃん……同僚? が言ってたんだけどね、レジ通すとなんか不思議な力が解放されて、幽霊がそれ食べると転生できるようになるんだって」
「じゃあ、あの幽霊たちは、転生をするために店に来てるんですね……俺たちは、商品を売ってその手伝いをすると。……なんのために?」
一人新しい名前が出てきたが、テンシとやらも遅番担当の人なのだろうか。それはともかくとして遅番業務の目的がなんとなくつかめてきたが、なぜスーパーの一店員が幽霊の転生の手伝いをするのか全くわからない。俺が首をかしげていると、高草木さんがふい、と左を見て首を傾げた。
「んー……なんて言ったらいいんだろうな。店のために、店長がやらなきゃいけないことなんだよ。詳しいことは俺もよくわかってないけど、店のために仕事の一つとしてやってほしいんだって」
「め、めちゃくちゃ怪しい仕事じゃないですか……? 今までに何か、トラブルとかあったりしなかったんですか? 説明もないとか、ちょっと……」
「あー、まあ、普通はもっとちゃんと説明しろー! って抗議とかすんのかもしれないけど、遅番の従業員がなんというか、変わってる人しかいないから……あ、もちろん雨水君は、もろもろ込みで判断してね。無理だと思ったら早めに店長に言った方がいいよ。一つアピールするなら、仕事内容が変だからか給料はめっちゃいい。あと残業がほっとんどない。シフトの融通も利かせやすい」
「あ、そうなんですね」
お金に困窮してこのバイトに応募したわけではないが、貰えるのなら嬉しい。仕事内容に適応さえできればいい職場なのだろう。幽霊さえ出なければ、本当にいいのだが。しかしレジを通して商品を渡すくらいなら、俺でもなんとかなるかもしれない。最悪見ないようにすればフラッシュバックもしないだろうし。そう思いながら指示を受けつつ動いていると、あっという間に片づけは終わった。
「よしおっけー。そうしたら台車を倉庫に戻して業務終わり。今日はもう上がろう」
「は、い。わかりました。……ええと、その、俺、明日も来ていいですか」
台車をカラカラと押しながら振り返らずに高草木さんが言う。
「んー? あは、来てくれるとありがたいかも。てかなんで俺に許可取ろうとするの?」
「え、いや、俺またなにもできないかもしれないですし……迷惑をかけるばかりの人と一緒に働きたくはない、かな、とか、いやめんどくさいこと言ってすみません」
「準備一緒にやってくれるだけで超ありがたいから全然。っていうか、幽霊相手の接客だってそのうち慣れれば一緒にできるかもだし。あーでも無理はしないでね。無理してまでやるような仕事じゃないし」
あまりにあっけらかんとした言葉に、何も言うことができなかった。多分、気を遣っているとかではなくて本心なのだろう。俺のこの面倒な性格を受け流してくれる、そんなさらりとした態度が心地よかった。駆け寄って俺も台車を押すために横につく。
「ん、ありがと。足引っかけないように気を付けてね。いやー、それにしても早く上がれそうで嬉しいなぁ」
「は、はい。……いつもは、退勤はもう少し遅いんですか?」
「んー? うん。なんでかっていうと、商品を売りきる前にまた別の仕事が舞い込んできたりするからね。今日は無さそうだけど——」
台車を一度止めバックルームに続くドアを開けようと高草木さんが手を伸ばした瞬間。前にふわりと白いものが降り立った。頭に触れたのは柔らかい何か。白、というだけで先ほどの幽霊がフラッシュバックして思わず飛びのく。
「やあ、こんばんは平和ボケ男。残念だったね早上がりできなくて」
知らない声が頭上で響いた。
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