第2話 特殊な業務とは

 八月十七日、十九時半。緊張で胃が痛い。



 とうとう来てしまった初出勤日。なぜ十九時などという遅い時間なのかと言うと、俺が大学帰りだからであり、遅番シフトはこのくらいの時間開始になるらしいためである。講義終わりですでに疲労と眠気が襲い掛かってきているが、初出勤日は気合を入れなければ。今日例の特殊な業務とやらをやらされるらしいが、本当に俺にできるのかどうか不安で仕方ない。


 バックヤードの二階、事務所とは反対側に廊下を進み、ビクビクしながら男子更衣室に入り、事前に説明を受けたようにロッカーから制服を取る。思い返せば、全然面接らしい面接をしなかった。なんせいきなり店長さんが現れて自ら面接をしてくれたし、面接というよりもほとんど説明の時間だったし。バイトの面接に何回連続で落ちただの言っていた友人はなんだったんだ。


 先日説明を受けたここでの規則や注意を脳内で復習していると、いつの間にか制服を着終わっていた。青色のバンダナをきつく頭に結ぶ。調理実習以来のスタイルだ。荷物確認。ボールペンよし、メモ帳よし。最後に鏡で身だしなみをチェックしようと思い一歩踏み出す。と、横切ろうとした人とぶつかった。


 「す、すみません!」飛びのいて勢いよく頭を下げる。


「あぁこっちこそごめんなさい。君こそ大丈夫?」


 頭を上げるとぱちりと目が合った。返事をしようとした口が固まる。相手は同年代くらいの男性だった。ハーフアップにした茶髪が無造作に結われている。着ている制服の色が緑であることから、青果担当であることがわかる。昨日説明されたことを思い返していると、男性はにこりと微笑み


「大丈夫そうだね。よかった。それじゃ」


と残して去っていった。声をかけようとして言葉が出てこず断念。大学生だろうか、年上にも見えた。少し親近感を覚えたが、他の部門の人と仲良くしてもなあと思う気持ちがありうまく行動できなかった。こんな調子でこの先大丈夫だろうか。というか、今の人からもなんとなく幽霊の気配がしたような……気のせいだろうか? 店長のことと言い、この店、もしかして幽霊屋敷だったりするのか?


 不安に思いながら鏡で身だしなみをチェックする。一日で辞めるという快挙を成し遂げてしまったらどうしよう。バンダナを整え、重い足取りで更衣室の扉を開けた。


 遅い時間であるからか、すれ違う従業員の数も少ない。皆「お疲れ様です」とルーティンのように投げかけてくれるが、対する俺は不慣れさ丸出しどもり全開の挨拶を返すことしかできない。まあまだ顔を覚えられることもないだろうし、とひたすら目的地に向かうことにする。目的地は事務所。そこにいる店長と合流し、遅番の仕事を教えてくれる人に会いに行くという手筈になっている。


 更衣室を出て廊下を真っ直ぐ進むと事務所があるらしい。すぐに見つけられた両開きの扉を開き、中に入る。面接の時と合わせて二回目の来訪だ。今回は応接室には入らずにさらに真っすぐ進む。そうするとデスクがあると教えられたのだが、どこだろうか。


「雨水君」


 戸惑っていると声が聞こえた。聞き覚えのある声に振り返ると、店長がこちらを見て会釈をした。「お疲れ様です」オールバックにした黒髪、眼鏡。相変わらず真面目そうな風貌である。そして件の幽霊の気配は、先日よりは薄いものの微かに感じられた。やはり店長には何かあるのだろうか。でも、仮にそうだったとしても俺にはどうすることもできない。過去のことを思い出しそうになり、咄嗟にそれを断ち切るために声を出した。「は、はい。お疲れ様です」俺の不自然な返事に店長は微笑みで返してくれる。


「初日ですから緊張しますよね。こんな遅い時間に出勤していただいてすみません。今日は遅番の仕事だけをお教えすることになるので、そこまで気負わなくて大丈夫ですよ」


 店長は軽くデスクを片付けると俺の元までやってきた。バインダーを片手に持ち「行きましょう」と歩き出した彼の後を慌てて追う。


「教育係は青果の社員ですので、青果の作業場まで行きましょうか。行くまでにおさらいしておきますと、雨水さんは十五時から二十一時のシフトで出勤していただくことになります。この場合仕事内容はかなり変則的で、十五時から二十時までは中番の仕事、二十一時以降に遅番の仕事をする形になります。今から向かうのは、その遅番の仕事に関しての教育係ですね。中番の仕事は、鮮魚の方が教育係を務めてくださいますので」


 話に相槌を打ちながら、事務所を出て階段を下りる。てっきり全部の仕事を一人の人が教えてくれるのだと思っていたため驚きを隠せない。というかそれって、中番と遅番二種類の仕事を覚えなければならないのではないか。昨今のアルバイトではそんなことまで求められるのだろうか、俺には全く自信がないのだが。みんなができるからと言ってハードルを上げないで欲しい。


 俺が悶々としていると、前から数人のおばちゃんグループが歩いてきた。それぞれが店長に挨拶をし、店長は話しかけられてもニコニコと笑顔を絶やさない。俺は店長の横で小さくなって小声で挨拶をすることしかできない。


「あ、店長お疲れ様です~今日も遅くまでいらっしゃるんですか? 無理はしないでくださいね」


「ああ、お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですよ。皆さんもお気をつけてお帰りください」


 おばちゃんたちが笑い声を響かせながら去って行く。親し気なやり取りからは、店長の人柄と従業員との関係の良さがうかがえる。ちらりと店長を見ると、やわく微笑んでいた。見た目の印象よりも気さくな人のようだ。周囲に人がいなくなると、途端に空気が寂しさを増す。静かな階段に響く足音。緊張を紛らわせるためとりとめのないことを考えようとしたが、店長の隣にいるというだけで冷や汗が止まらない。気まずい。どうしたものかと目を回していると店長がぽつりと口を開いた。


「……雨水さんは、どうしてここでアルバイトをしようと思ったんですか?」


「え。ええと……」


 親に無理やりやらされて、などとはっきり言えるわけがない。言えるわけがないが、咄嗟にでっち上げることもできず、正直に話すことにした。「その、親に勧められて……」


「ふふ、初めてのアルバイトなんて皆そのような感じでしょうし、委縮しないでください。まぁそう言われても難しいでしょうけど、あまり固くならなくていいですよ。……私は、従業員の皆さんに無理だけはしてほしくないんです」


 声のトーンが変わった気がして、そっと店長の顔を盗み見ようとした。蛍光灯の光がちかちかと視界を照らし、眩しさに目をそらす。


「この店は、私の父から継いだものなんです。だからこの店を潰すことがないように毎日必死で店長としての仕事をしているんですが……そうして店の経営を良くすることももちろん大切なんですけど。従業員の皆さんが健康的に働けることも、軽視してはいけません。私がその気持ちを忘れてしまったら、店は衰退するだけになってしまいますから。だから、無理だけはしないでくださいね」


「……はい」


 俯いたまま答える。顔を上げて、どんな表情で店長のことを見ればいいのかわからなかったからだ。健康的に働く。俺のこの卑屈で自虐的な性格は治るようなものではないから、きっと難しいだろう。店長がこうして時間を使ってくれているのも無駄になってしまうかもしれないし。


 ぼんやりと思考しながら廊下を進む。進むうちに見慣れない場所へ来ていた。目的地の青果の作業場にはまだ着かない。店のほぼ左端にある鮮魚の作業場とは真反対の右側にあることは、何度か店に訪れたことがあるため知っていた。暗い廊下の雰囲気に体がぞわりと震える。いくつも重そうな扉があるが、これは冷蔵庫だろうか。銀色のスイングドアもあるが室内は電気が消されており何があるのか見ることはできない。


「あ、店長。こっちこっち」


 前から声が聞こえた。左に向けていた目を前へ戻すと、先の方でかすかな明かりと人影が見える。目的地に着いたようだ。あれが、これから一緒に働く遅番担当の人。緊張しながら近づくと、人影の全貌が露になった。高身長の男性。緑色のエプロン、茶髪をハーフアップにしていて——ってあれ。どこかで見たことがあるような。


「あれ君どこかで……って、今朝更衣室で会った子じゃない? 君が新しい鮮魚の遅番担当だったんだ」


 思い出した。更衣室でぶつかった爽やかな男性だ。「そ、その節は失礼いたしました!」と頭を下げると、男性はケラケラ笑って俺の肩を叩く。「気にしてないからそんな謝らないでいいよ」


 そんな俺たちの様子を見て店長が意外そうに瞬きをする。


「あれ、もうすでに高草木さんと会っていたんですね。話がスムーズに進みそうでありがたいです。ではお互いに自己紹介、どうぞ」


「どうぞ、ってそんな丸投げしますー? まあいいですけど」


 タカクサギと呼ばれた男性は俺に向き合うと、ぱちりとウインクをした。


「青果の遅番担当やってる社員の高草木 立夏(たかくさぎ りっか)です。社員とは言ったけどまだ全然ペーペーの新人だから、気楽に話しかけてね。よろしく」


「あ、ええと、はい。よろしくお願いします。雨水令です」


「雨水さんはアルバイト自体が初めてなので、優しくしてあげてくださいね」


「え、そうなの? めっちゃピチピチじゃーんかわいい」


 なんというか軽い人だな、というのが第一印象。今まで交流を避けてきたタイプの人。正直上手くやっていけるのかどうかわからない。しかもやっぱりなんとなく幽霊の気配がする、気がする。店長から感じる気配の方が強いためかなり微弱だが。


「到着が遅くなってしまい申し訳ございません。少し雨水さんと色々話をしておりまして」


「んー? いやそんなに遅くなってないですよ。というか店長忙しいんですし、気にしないでください」


「そう言っていただけるのはありがたいですが、時間も限られているので。着いて早々ですが早速本題に入りますね。雨水さんは大丈夫ですか?」


「は、はい」「俺もいいですよー」


 俺たちの返事を確認すると、店長は手に持っていたバインダーにそっと目を落とした。先ほどまでの朗らかな雰囲気とは違う、真面目な視線に思わず姿勢を正す。隣の高草木さんは左足重心の状態で小さくあくびをしていた。


「まず、遅番業務での出勤に合意してくださりありがとうございます。鮮魚には今までこの時間に出勤する担当が不在だったので、大変助かります。高草木さんやヒグチさんにも余裕ができますし」


「俺はべつに負担に思ってないですけど……まあでもヒグチさんをあんまり働かせるわけにもいかないですもんねー。もう一人は……引退済みだし。たしかにめちゃくちゃ助かる」


 ありがとうね、と高草木さんが微笑んだ。おどおどと会釈で返す。会話に知らない名前が出てきたが、会話の流れから察するに他部門の遅番担当だろうか。


「本題なのですが……遅番の仕事を行うにあたり注意してほしいことについてご説明しますね」


 バインダーに落としていた目線が上がり、俺をまっすぐに射貫く。油断していたため動揺し思い切り視線を逸らした。印象が悪いかもしれない。しかし人と目を合わせることはどうしても苦手だった。ちらりと様子を伺いながら視線を戻す。店長はそんな俺を見て軽く微笑んだ後、気を引き締めるように表情を硬くした。


「これから雨水さんにやっていただく業務は極めて特殊な業務です。荒唐無稽とも思われるかもしれませんが、この店のために確かにやっていただかなければならない業務です」


 再び出てきた「特殊な業務」。念を押すように言われるその言葉に頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。しかしその真剣な声色と表情に茶化す意図は見られない。本当に特殊な業務をやらされるのだろうか。とりあえず黙って頷く。


「約束していただきたいのは、一、業務内容は社外秘、いえ遅番外秘でありあなたの家族はもちろん、他の従業員にも話してはいけません。私と遅番担当のみが知っている極秘の仕事です。チーフには閉店後作業とだけ伝わっております。なので、今後出会う鮮魚チーフや鮮魚の従業員にも業務内容を話さないでください」


 売り場の電気が全て落とされたのが、視界の端に映った。人影は相変わらずない。


「二、遅番業務中に取り扱う「商品」は持ち出し厳禁です。三、『悪霊』に商品を取られないように、手早くそして無理のないように消滅させてください。この三点を守っていただければ問題ないと思います。できますか?」


 言葉が出てこない。店長の切れ長の瞳がこちらの心情を探るように見つめてくる。どうすればいいのか。一体この人はなにをそんなに真剣に話しているのだろうか。家族にも他の従業員にも話してはいけない業務とは何なのか。それはアルバイトにやらせてもいいことなのか。困惑したまま、なにか言おうと口を開いては閉じてを繰り返す。


「ま、難しく考えなくていいよ。仕事のことは秘密にしといてねってだけだし、商品持って行っちゃダメなのは昼と同じだし……悪霊については、俺が一緒にいるからなんとかするし」


 あっけらかんとした声が場違いに空気をやわらげた。その言葉に縋り付きたくて高草木さんを見ると、俺があまりに情けない顔をしていたのだろうか、吹き出して笑った。


「ちょっと店長、あんまり脅すから雨水くん泣きそうになってますよ」


「え!? すみません、そんな、脅すつもりは」


「んふふ、わかってますよ。遅番に新しく人が来てくれそうだから、色々気ぃ張っているんですよね。……雨水くん、もしかしたら何やらされるんだろーって不安になっちゃったかもしれないけどさ、遅番業務はすごく楽しいんだよ。他じゃ絶対にできないようなことができるし。周りに自慢はできないけど、誇りは持てる、ような気がする」


 高草木さんが俺の手を取った。ぬるい体温が伝う。まるで俺の冷えた手のひらから少しでも冷たさを引き受けようとしているようだった。初めは軽くてテキトーな人かと思ったが、真摯な優しさを感じて緊張がほどけていく。ゆるく握られるそれを拒否することもできず、ただ見つめていた。


「楽しい、んですか」


「楽しい楽しい。やってみればわかるよ。——幽霊のお客さんに商品を売るなんてなかなかできないことだし? それに、もう一つもっと特殊な仕事があるんだけど、悪霊に……まあ、それはとりあえず見ていてもらおうかな。できそうだと思ったら言ってよ。ねえ、店長もそれでいいでしょ?」


「幽霊……?」


 その言葉にびくりと体を震わせている間に、高草木さんはにこにこと店長に向けてウインクをしていた。一方の店長は苦笑した後、柔らかな笑顔で俺を見る。


「そうですね。結局、決めるのは雨水さんですから。まあ私は一緒に働いてほしいですけど」


「あーもうそういうプレッシャーになるようなこと言わないの! 決まりね。じゃあ行こうか雨水くん!」


「え、あ」


 高草木さんに肩を押されて向かうのは明かりの落とされた売り場。このまま流されていいものか、助けを求めるように振り返ると店長と視線が合う。彼は俺を見て苦笑し、


「その……すみません。無理はなさらず。楽しんできてくださいね」


と手を振った。なにもわからぬままとにかく頷いていると、高草木さんが元気よく売り場へ続くドアを開く。


「はい、八十八スーパー遅番部開店しまーす! いらっしゃいませー!」


「あ、ちょっと待ちなさい。帽子」


 店長に呼び止められ振り返ると、高草木さんは露骨に焦りの表情を浮かべた。


「あ、そうだったそうだった。雨水君、遅番の時はちょっと制服が変わるんだ。といっても帽子を変えるだけなんだけど。バンダナじゃなくてベレー帽を被ってね」


 雨水君のは預かってるから、といって差し出されたのは紺色のベレー帽。流れで受け取り、しかしどうすればいいのかためらっていると高草木さんは慣れた手つきで緑色のバンダナを外し、同じデザインのベレー帽を被った。


「エプロンはそのままでおっけー。バンダナは使うからちゃんとポケットに入れておいてね」


「は、はい!」


 バンダナを外し見よう見まねでベレー帽を被る。向きが合っているかそわそわしながら位置を調節していると、再び肩を押された。振り向くと高草木さんがにこりと笑っている。


「大丈夫、ちゃんと被れてるよ。似合ってる。よーし、そしたら今度こそ! 開店!」


 勢いよく開かれた扉の先に何があるのか、俺はこれからどうすればいいのか。何もわからないまま、ただ手を引かれる方へと足を動かすしかなかった。

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