13 鮫島梨子
霧に入り込んだ瞬間、鮫島梨子は奇妙な感覚にとらわれた。
なにか、強制的に自身の人生を引きずり出されたような、そんな気持ちになった。
鮫島梨子がダンジョンに強い憎悪を抱くようになったのは、中学生の時だった。
オーバーロードが起こったのは、彼女が住んでいた関東の某県でのことだ。
その日は特別な日になるはずだった。
誕生日だったし、クラスで気になっていた男の子にプレゼントをもらえた。
告白された。
最高にいい日になっていたし、帰れば両親と姉がお祝いしてくれることになっていた。
告白されたことはいつ話せばいいだろう?
母や姉に茶化されそうだ。
そんな、幸せなことを考えながら家に帰っていたのに。
その途中で警報が鳴り響いた。
スマホは高校生になってからと言われていた梨子は、状況をすぐに確認することができずに立ち尽くしていた。
さよならを言ったばかりの彼が追いかけてきたおかげで、梨子は学校へと引き返し状況を知ることになった。
オーバーロード。
ダンジョンからモンスターが溢れ出したのだ。
「くそっ! だからさっさと攻略してもらえって」
「でも、ダンジョンが近くにあったら税金が安くなるって」
「その結果がこれかよ」
体育館で、近所から逃げてきた人たちがなにやら言い合っている。
声のほとんどは混ざり合って雑音になってしまう。
彼は家族と合流できたようだけれど、梨子はできていなかった。
姉は高校にいるのだろう。
父は会社か。
母は?
午前はパートをしているけれど、お昼には帰っているはず。
母は、まだ来ていない?
探すのも限界で、もうここにはいないのではと思ったその時、悲鳴と咆哮が体育館に届いた。
学校を囲む壁の向こうに、モンスターの群れが現れたのだ。
モンスターたちは、人間がいるのを感じとって攻め込んできているのは明らかだった。
学校の守りなんて、モンスターにはなんの意味もなかった。
体育館に入ってくるのもすぐだった。
逃げようとしても、体育館にいた大勢の人たちが押し合いへし合いして、動くことさえできなかった。
そんなことをしている間に、悲鳴がどんどん近づいてくる。
誰かが梨子の名を呼んだ。
そちらを見れば彼の姿があって、その近くに彼の家族もいて、そしてまとめて巨大な武器の一閃を受けて真っ二つになった。
彼の姿がそこら中から飛び散っていた赤い液体の一部となってしまった時、梨子の中でなにかが壊れた。
壊れて、溢れ出した。
それが覚醒者としての目覚めであるとわかるはずもなく、気付くこともなく、梨子は暴れた。
自分がなにをしたのかも覚えていない。
気が付けば、誰も生きていない体育館の中で一人立っていた。
考えたのは、いまなら家に行けるということだった。
母は無事なのか?
家は?
家はその周辺ごと火に飲まれていた。
救助はその日を見ている時に来た。
どれぐらいの時間が過ぎたのかわからない。
ただ、気がつくと病院で毛布を肩からかけられていて、そして父と姉が側にいて……そのことにようやく気付いた時、初めて涙が出た。
それが、鮫島梨子の覚醒者としての始まり。
ダンジョンは、オーバーロードは決して許さない。
だから……。
「梨子」
その声に、思考に溺れていた意識が我に帰った。
「母……さん?」
「そんなところでなにをしてるの? ほら、こっちいらっしゃい。今日はあなたの誕生日でしょ」
「え? え?」
「一緒にケーキを作るって約束じゃない。いまさら買いにいくのは嫌よ」
「あ、ああ……」
そうだ。
あの日、早く帰らないといけなかったんだ。
早く帰って、自分の誕生日のためのケーキを母と一緒に作る約束をしていたのだ。
それなのに、告白されて、舞い上がって、忘れていた。
母は、早く帰ってくるはずだった梨子を待ち続けたから逃げ遅れたのではないか?
ああ、そんな……。
「ごめ、んなさい」
「いいのよ。ほら、おいで」
「うん」
ふらりと近づいた梨子を母は迎え、そして……。
「それはあまりに趣味が悪い」
私は、鮫島さんの腹に突き刺さろうとしていたその腕を掴んで止めた。
「よしみで黙って見ていたけれど。これはあんまりだ。最後の間を守る者として、あまりに誇りがない」
鮫島さんの母の姿をしたままのそれは、驚いた顔で私を見ている。
私は、霧を吸って精神異常の状態にある彼女を後ろに追いやった。
「君が悪いとは言わない。ただ、君をここに配置した方は、少々どころではなく意地が悪そうだ」
このモンスターを責めても仕方がない。
そういう能力を持ったモンスターなのだ。
自らの能力を駆使することを卑怯だといわれれば、そのモンスターの存在意義が失われる。
だからこそ、そのモンスターをどこに配置するかはセンスが問われる。
無数のモンスターとの戦いを勝ち抜いてきた者に対して、先ほどまでとはまるで違う幻覚系の攻め手を使ってくるなど、卑怯としか言いようがない。
「まったく、許し難いセンスだ」
「ぐう……」
鮫島さんの母。
彼女のトラウマを模っていたものが霧となって崩れた。
「私の記憶は漁れない。あなた程度が私に侵食できるはずがないだろう」
同じ竜種といえど、私と彼とではレベルが違う。
種としての格も、強さも。
私は大きく息を吸い、そして吐き出した。
その風が、周囲の霧を薙ぎ払う。
後に残ったのは山の頂上にある岩場。
そこに、こんな場所には相応しくない大きな二枚貝があった。
シンというモンスターだ。
これでも竜種。ドラゴンだ。
霧によって幻を見せ、惑わせ、そして喰らう。
そんなドラゴンだ。
あの貝の中には竜の姿を押し潰したような形の身がある。
右手に力を加えると、手の形が変化する。
多頭竜種の持つ副頭だ。
現在のエクスマニフィークドラゴンとなる前に、様々なモンスターの姿をとった。
その中に多頭竜種もあり、この能力はその時に手に入れた。
一体の竜となった右腕を向かわせ、シンに食らいつき、殻を破り、その身を咀嚼する。
飲み込めば、それでお終いだ。
「ああ、魔石の回収ができなかったな」
まぁ、誤魔化し方はあるか。
「ほら、逃げますよ」
声をかけたが、鮫島さんはまだ我に帰っていない。
彼女にとって、シンに思い出さされたあの光景はかなりの辛い体験だったようだ。
「こういうのは好きになれないな」
騙すことを悪いことだとは思わないが、トラウマを突くのはダメだと思いながら、彼女を抱えてその場から逃げ出した。
ダンジョンの崩壊が始まっていた。
「鮫島さん!」
そう強く呼びかけられて、鮫島梨子はようやく我に帰った。
声をかけていたのは運転手をしてくれていた同僚だった。
「え? 私、どうして?」
「最後のモンスターを倒したけれど、その時にモンスターになにかされたようだと」
「なにか?」
思い出そうとして、自分が救急車のそばで座らされていることに気付いた。
救急車の中に置かれているのだろう毛布が、肩にかけられている。
既視感のあるその感触で、思い出した。
「あっ、くそっ」
精神攻撃を受けたんだ。
まさかそんなものにかかってしまうなんて。
油断?
それとも、S級覚醒者の防御をも貫通するような、強力な存在だった?
「そういえば、彼は?」
「彼? ああ、八瀬川さんなら帰られましたよ。『私の出番はなかった』とおっしゃってました」
「そんなことはない」と言いかけて、梨子は止めた。
幻覚に惑わされながら戦った記憶はない。
ならば、倒したのは彼だろう。
しかしそれを梨子の手柄とした。
なんのために?
彼が覚醒者ではないから?
覚醒者ではない強者とは、一体なんなのか?
「しばらく、監視は続けた方がいいわね」
しかし、それはそれとして……。
久しぶりに思い出した母の姿に、梨子はマンションに戻ってから一人泣き、翌日は故郷に戻って墓参りと仏壇に線香を上げた。
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