6話 「再犯」


――その時、椿は夢中にいた。

正しく“夢の中”、椿は光を見た。

網膜に焼き付く、痛いまでに眩しい光。

そのフラッシュに対抗するように、椿はより強く瞼に力を入れる。

だが光は負けじと波状攻撃を繰り返し、黒を白に塗りつぶしていく。

まだまだこの心地良さに溺れていたい椿にとって、それはノイズで仕方なかった。

唸る椿。目の奥に入り込まんとする光。

両者一歩も譲らぬ攻防。

そして苛烈な戦いに雌雄を決したのは、意外な第三者だった。

否、椿にとってはある意味、予想通りの結末と言えるだろう。

耳を劈くベルの音は、嫌というほど本能に刻まれた音。


――目覚まし時計の、リズミカルな騒音。


「ぅ、ん――?あ〜、起きてる起きてる?」


語尾に疑問符がついたのは、自分でも意識の区別が曖昧だからだ。

椿はゆったりと目を擦りながら、腹筋を一つする形で起床。

仲夏らしいカラとした日差しと、冷房のしんみりした重い空気を一身に受け、椿は忙しなく瞬きをした。

――なんだか気分が悪い。

椿はそんな漠然とした不満をぼやいた。

肌が外気に晒されてるような感覚だ。

もっと突き詰めれば、全身が泥ネズミのようにじっと重い。

椿の体の異変は、それだけで終わらなかった。

次いで激しい動悸、腕も落ち着きなく左右していて、足元が湿っている。

この年にもなって――と布団を捲るが、斑点模様のシミが広がっているだけで、“それらしい”濡れ方ではなかったのでひとまず安堵する。


「――――――――はぁ、変な夢見た・・・。冷や汗とか、初めて掻いたよ。」


異常の原因は、悪寒による冷や汗らしい。

椿はそう結論づけた。

朝の陽気さでも誤魔化せない悪夢の余韻に身震いしながら、椿は一部始終を思い出す。

謎の男。

起承転結全てが無茶苦茶な状況。

そして、


「五体満足、だよね?」


刺し傷。

冷や汗で張り付いた服の中を弄り、肌の感触を実感する。

途切れることなく繋がっている、滑らかな肌だ。

確かに記憶の中で根を張っていた痛みは、綺麗さっぱり引いていた。

大丈夫、傷なんてない。

椿は誰かを探すように部屋を一瞥すると、ようやく息をした。

どんな夢よりもはっきりとした輪郭がもたらす、体内に食い込んでいる刃物の感覚。


(こういうの、明晰夢って言うんだっけ?変にリアルな夢だった・・・。)


気持ちの悪い感覚に、椿は咳き込む。

喉につかえたものを吐き出す仕草をしながら、


「んでもまあ、目は覚めたな。」

                            

なんやかんや目覚めの悪い椿。

幸か不幸か悪夢による恐怖で、ここ最近で一番スムーズな目覚めを記録した。

これは大分不幸寄りな気がする。

そんな不幸に見舞われたものの、見知った自室に椿は調子を取り戻し、気持ちの悪さを払拭しつつあった。

完全に起きたとなれば、やることは一つ。


「JKのモーニンングルーティン、だね。」




「あ〜〜沁みるぅ〜〜〜〜!」


年相応とは言えない胴声を上げ、椿はラーメンの入っていた丼鉢を机に置く。

そして油に塗れた口元を拭い、木製の椅子にもたれかかった。

塩分過多の四文字は見ないフリで。


(というか、少女漫画の角ぶつかりシーンってラーメンじゃなくてパンだよね。あれってなんでなんだろ。)


(――あれ?結局それ、ラーメンは脂っこいからそういうシーンには適してないって話じゃなかったっけ。)


椿はふと箸を置き考え込んだ。

そういえば、同じ味のラーメンを食べて同じ感想を抱いた記憶がある。

 

椿の家庭はいたって一般的だが、毎朝決まってラーメンばかり出される家庭は稀だろう。

椿家が唯一他と違うは、そこだった。

朝食のメニューは決まってラーメン。

日によって味は変わるものの、飽きずに毎日ラーメンなのだ。

曰く、料理をする手間が省けるらしいが。

何故よりによってラーメンなのかは謎に包まれている。


「まあ、毎朝おんなじもの食べてればおんなじことも考える・・・か?」


些細な疑問を捨て置き、空の丼を水道に置いた。

大分早起きしてしまったからだろうか、時間が有り余ってる。

部屋中を見渡し、何か娯楽にありつけないかと思考する椿。

世のJKはスマホを取る場面だろうが、と偏見まじりに思う。

しかし、椿は生粋のテレビっ子。

今までも虚無の時間はテレビで解消してきた。         

                

「明日は七夕!各地では七夕にちなんだお祭りが開催されています。

本日は、そんな七夕に関する料理をご紹介します。」

 

画面越しにアナウンサーと目が合って、小さく胸が跳ねた。


(あ。そういえば明日、私の誕生日じゃん。)


日本国民ならば誰でも馴染みのあるイベント、七夕。

様々な国で親しまれているそれは、偶然にも椿の誕生日と同じ日に行われる。

七夕側が自分に合わせた、なんて驕った考えは持っていないが――“世界中にとって特別な日に生まれた“ということは椿の自慢でもあった。

七夕、七月七日は、椿にとって何重もの意味で特別な日なのだ。


「今日は快晴、てことは傘いらないな。」


淡々とスクールバックに荷物を詰め込む。


(教科書、課題、日焼け止め、マーカーペンは――いらないよね。)            


黙って荷物を取捨選択する様は、まさにプロのJKだった。

ものを右に避け、左に避けを繰り返す。

一通り整理し終えたところで、


「今日の一位は?蟹座のあなた!

今日は何もかもが円滑に進むはず。ラッキーアイテムは白いハンカチ・・・」


母がよく見ている星占いだ。

毎日毎日運勢が変わることに納得こそしていない椿だったが、

鞄のポケットには白いハンカチが入れられた。

信じるのは勝手だが、信じて不利益はないだろう。

それに、十二個もある星座の中で一位とは。今日は運がいいらしい。

思いがけない幸運に口元が綻んだ椿は案外単純だとも言える。


「やば、結構笑えない時間になってきた。」


 


୨୧ ⋈ ୨୧ ⋈ ୨୧ ⋈ ୨୧ ⋈ ୨୧ ⋈ ୨୧ ⋈


 

――家を出て、数分。

定刻通りの電車を待つ椿は、落ち着きなく腕を摩っていた。

その行動に、特定の要因があるわけではない。

あるとすればそう――今なお長引いている悪寒だろう。


(いや、あれは夢・・・。夢のはず。夢であるべきだ。)


意識しないよう、頭の片隅に退けていたコト。

辺りの景色を見れば、思い出したくもないことまで思い出してしまいそうだった。

普遍的な景色。

ただの駅のホーム、ただの無関心な人間たち、ただの椿。

こんな都会の駅で、見たことのある景色だなんて言っても説得力がないのは重々承知だ。

拭えない違和感を抱えたまま、椿は息をついた。

こんな大勢の人がいれば、そりゃ一人や二人知り合いに似てたっておかしくない。


(だから、きっと気のせいだ。きっと、そうだ。)


スマホの液晶に、ぼんやりと反射で映る男の姿。

椿はスマホを巧みに使いながら、彼の様子を伺っていた。

 

椿なら三歩で届く斜め後ろの距離から、じっとこちらを見つめている。

男は不審な程に、その場に縫い付けられたように微動だにしない。

フードを被っているので明確には確認できないが、影の落ちた目が据わっている。

特徴のない顔なのに、やけに記憶通りな顔の男。

椿は無意識のうちに腕を摩っていた手を背中に回した。


(あれは夢。あんなおじさん、どこでもいるし見るし。)


それでも彼の挙動を目で追ってしまうのは、何となく理解したからだ。

あの男は私を知っているし、私も彼を知っている。

椿は網膜が乾いていく緊張感を覚えた。

いや、だから違うって。

嫌な予感を拭うよう首を振る。

遠目でもわかる、ちょっと曲がった鼻筋に、荒れた肌。血走った眼。

まるでが過去にもあるように、椿はこの状況に覚えがある。


「莉乃、椿・・・莉乃椿だよな?」


「!」


がつん。

椿は殺意を持って頭部を殴られたように、激しくよろめいた。

同時に、背後から刃物で奇襲されたような衝撃。

男の声は酷く掠れていて、どこか聞き覚えがある。

椿の視線は動揺で迷走するが、すぐに平常を装おう。


(グウゼン、そう信じたい。

 でも私、自分の名前なんて聞き間違えるわけないし・・・

 ならこの強烈な既視感は、まさか)


疑念が確信に変わっていく。

反射的に体が動きそうになったが、すんでのところで踏みとどまった。

その行動は、“前回“と同じだ。


 

――前回?

前回って、何のことだっけ?


 

瞬間、椿の脳内にフラッシュバックする記憶。

雪崩の如く蘇ったそれらは、夢の中の一挙手一投足だった。

唐突に未来予知を手に入れたように、万能感あるビジョンが流れ込んでくる。


(彼の言葉に反応すれば、私は死ぬ・・・?)


こんなに稀有な状況なのに、一度経験した記憶がある。

 

――あれは、あの夢は、予知夢だったとでも言うのだろうか。

 

椿の単なる思い違いかもしれないし、被害妄想の類かもしれない。

だが椿は、自分の中の生存本能に大人しく従うことにした。

例え彼が夢通りの行動をしなかったとしても、反応しない分には不利益がないんだ。

そう自分を制し、無視に徹することを決めた椿。


とはいうものの、そう簡単に動揺を隠せるほど椿は器用でも巧みでもなかった。

内臓まで見抜かれそうな男の視線に耳元まで心音が届く。

不規則に跳ねる心臓の音が、背後の彼にまで聞こえるのではと懸念さえしてしまった。


(早く、早くきて、電車・・・!!)


手に汗握りながら平常心を保つよう言い聞かせる。

平常心だ。平常心。

いつものように息を吸って吐くだけでいい。

私の特徴は、平凡なことなのだから。

一般人に擬態することなんてわけない。

筈なのに、呼吸の仕方を忘れてたほど不自然な呼吸しかできない。

ありとあらゆる人間から注視されているような閉塞感が、椿の動きを不可解にさせていた。

周囲の人間全てが自分のことを監視してるみたいだ。

広がる被害妄想は、感情のダムをぶち壊していく。

 

しかし椿もまた、他人を注視していた。

状況が状況なら盗撮かと疑われるような動作で後ろの男を観察する。

スマホを僅かに傾け、先ほどもしたように画面に反射した彼を覗き込んだ。

やはりというべきか、男は椿の挙動を確認していた。

彼女の名を呼ぶことで、何か動きを見せないかと確かめているのだろうか。

まんまとその策略にハマっているのを悟られないよう、必死に引き攣った顔を正す。


この時点で行動にでないということは、彼は少なからず“このJKが莉乃椿である確証”がないのではないか?

現状を俯瞰した結果、椿は一つ結論づけた。

つまり、私がこのまま何事もなくやり過ごせば、彼は夢と違った行動を取るかも。

しかし、それは逆に――


(私が莉乃椿だと気付けば、彼は私を刺すかも・・・ってこと。)


思い出されるのは、リアルに忠実な痛み。

人並みに生きてきた椿にとって、夢の中で感じた痛みは何よりも悍ましいものだった。

夢とは名ばかりの、“五感全て正常に働く夢に似た何か”という呼び方が正しいだろうか。

あれが予知夢なのかはさておき、人生で二度もあの痛みを経験すれば気が触れてしまう。

椿はそんな予感がしていた。なんとも不謹慎で嫌な予感だ。


息を潜めて、空気と化す椿。

まじろがず、食い入るように椿を見る男。

一触即発とは正にこのこと。

緊張の糸が何重にも張り巡らされていて、どこか一つでも触れれば全てが切れてしまいうな危うさをはらんでいた。

先に糸を解いたのは、


「まもなく、7番線に列車が参ります。」


意外にも、椿のほうだった。

人の声とはまた違った質感の機械を通した声だ。

機械というフィルターをかけた途端、それはとても無機質に感じる。


「危ないですので、黄色い点字ブロックまで――」


だが、椿にとって何より人情を感じる声だった。

天使のお告げとはいったものだが、椿にとってその声はお告げそのもの。

永遠にも感じられた一時から、椿を解放するお告げ。

その場にいた全員が同様の声を聞いたが、その声に心底安堵したのはおそらく椿だけだ。


(電車・・・夢の中だと電車のことなんて意識の外だったから。

予知夢の中では、電車なんて乗ってない。)


椿が予知夢と呼ぶそれとは、明らかに違った展開。

椿は強く勝利を確信した。

そもそも今まで勝負というフィールド上にすらいなかったように思われるが、運命に打ち勝てたという事実はそこにある。


(このまま何事もなく電車に乗って人混みに紛れちゃえば・・・)


警察にも駆け込める、と希望を見いだしたが、証拠らしい証拠が"予知夢"だなんて警察側にも飽きられてしまうだろう。

つまり、男を捕らえることは不可能。


(まあ、そもそも私の思い違いかもしれないし・・・)


最初から、夢なんて不明瞭なものを信じるのがよくなかったのだ。

変に妄想を広げるなんてらしくない。

心配性にも程があったな、私。

先程まで肩にのしかかっていた重荷は、ふっと霧散して消えていった。

椿の中にあった恐怖違和感不安その他諸々は、単なる思い込みだったとでも言うように。

――同時に、下からの風にスカートを煽られる。

椿が乗る電車が、来たようだ。

 

人に押し流されるまま、椿は歩を進める。

肩と肩が何回もぶつかるが、その程度気にも留めず。

徐々に移りゆくいつもの日常が、やっと戻ってきた。

電車の扉が開く。

見れば、なんてことのない光景が椿を見返した。

なんてことのない一歩で、椿はその電車に


 


「――やっぱ莉乃椿じゃねえか、お前。」


「え?」


見れば、なんてことのない光景。

人が渋滞した、いつもの電車内。

道理でいえばそうなのに、椿の目には全く別のものが映っていた。

人々が脇を通り過ぎていく中、一人立ち止まって。


「なんで、また――」


椿を見るのは、背後にいた男だった。

あれほど小さく見えていた彼の顔が、椿を無遠慮に覗き込む。

ちょっと曲がった鼻筋に、荒れた肌。血走った眼。

目玉が飛び出そうなほど椿を凝視するその目に、椿も目が飛び出そうなほど驚愕を叫んだ。


電車の一歩手前踏みとどまった椿に、後列の人間は足止めをくらう。

一瞬のうちに人間の溜まり場となったところで、多方からブーイングが飛んだ。

しかし椿の体が震え始めたのは、彼らの言葉が原因ではない。


「莉乃椿、やあっぱりそうだよな?」


彼は手元のスマホと椿の顔を見比べる。

椿は首が固まったまま、眼球だけを彼の手元へ落とした。


「わた、し・・・」


スマホの中には、椿と瓜二つの顔。

同意の上撮ったとは思えないアングルに、盗撮だと一目で理解した。

彼はスマホと椿を交互に見ながら、確信を得ようとしているのだ。

目の前の少女が莉乃椿であるという確信を。


(なんで私の写真なんて持ってるの・・・!?)


――考えるより先に、足が動いていた。

考えを全て断ち切り、椿は逃げ出そうと動く。


「――――――――――がっ、」


が、椿の動きはあまりに遅すぎた。

全てがあまりに遅かったのだ。


上擦った声が椿の腹から流れ出る。

刃物が、包丁が椿の背を刺していた。

――その事実が即座に認識できたのは、椿がこの状況に覚えがあったから。


(やっぱり、やっぱりこうなったの?

 あれは、あれは夢じゃなかったって、こと)


椿の体に、常軌を逸した痛みが迸る。

声と認識できない叫び声。

電車へと押しかけていた人々は悲鳴と共にはけていった。

誰一人、椿に寄ろうとはしない。

――いや、一人いた。

事件の張本人は、膝を折って俯く椿を静かに見下ろしていた。


「う、――」


(まただ!また、私は!!)


死にたくない。

夢で見た通りの未来に、確定した未来に、椿は戦慄した。

このままだと、死ぬ!

混沌の中響く警鐘は勢いを増すばかり。


「ぁーーーー!もう、なん、で!やだ、死にたくな、い・・・」


気付けば、椿は脱兎の如く走り出していた。

体の痛みなんてお飾りだ。

お飾りというにはあまりに存在感が大きいそれ。

だがそれより悍ましいのは、


(夢の中みたいに、死ぬのだけは)


それだけは、いやだ!

魂を知覚できない椿からしても、混じり気ない魂の叫びだった。

死という概念は、痛みよりも恐ろしいと。

椿は知っていた。

逃げる。ひたすら逃げる。

海のように割れていく群衆に罪悪感すら抱かず、

重たく機能しなくなった足に力を込め、電車の先頭側へと。

いつもは大袈裟なほど守る黄色の線という境目も、考え無しに踏み越えて線の内側を走り続ける。

電車の内部に入るという道もあったというのに、椿の頭からはすっぽ抜けていた。

前提として、電車の扉は既に閉まっていたが。

発車寸前の電車が例え走り出したとしても追いつかれないように、誰の手も届かないように、遠くへと。


「おい!逃げるなよ天使!」


「だかッ・・・ら!私は天使じゃなくて!」


お世辞にも俊足なんて形容できない椿。

足の速さを抜きにしても、成人男性の図体のリーチには到底敵うわけもなく。

椿の背後から迫る彼の声が段々と近づいてくる。

死そのものを体現したような彼の声に、泣きながら血の滲む足を引き摺る椿。

腹を妊婦のように、腫れ物を触るように抱きながら、歯を食いしばって痛みを耐え抜く。


――予知夢と同じ光景になんてさせない。


あの夢では、救いなんてなかった。

救いを騙る悪魔のような男ばかりを記憶している夢では。

あいつの救いなんて、救済なんて必要ない。

信じて身を委ねたところで、結局死んだのだから。


「だから・・・っ!!!わた、しは!」


あれが予知夢というのなら、回避できない未来なんて見せるだろうか。

いや、実際こうして収束した未来に行き着いてしまってるのは事実だけれど。

けれど前回と、夢とは違うのは、足が動くことだ。


(この行動にはきっと、意味がある――!)


少しでも予知夢と違う行動を。

この機会はきっと、カミサマか何かが与えてくれた”チャンス“なのだ。

最悪の未来を回避するため、転がり落ちてきたチャンス。


椿は無我夢中に走り続ける。

逃げる、ひたすら。

存在もしない神を酔狂に信じながら、がむしゃらに。


(死にたくない、死にたくない――――――――!!!)


「あ」


この機会はきっと、カミサマか何かが与えてくれた”チャンス“なのだ。

最悪の未来を回避するため、転がり落ちてきたチャンス。

逃げる、ひたすら。

男の魔の手は、すぐそこだった。

あと数cm。

後ろを振り返る余裕なんて、椿には無い。

ひたすら、逃げる。

そうして男の手が髪先を掠める寸前、


「ぇっ」


途端に、椿の足は機能をやめてただの重りになってしまった。

許容量をとっくに超え、壊れた機械に無理矢理ネジ巻いていた状態だ。

そりゃ勿論、体は全ての機能を停止し――


「――な、おい!!のに、おい!?!?」


近づいてきていた男の声が、瞬刻の内に遠ざかっていった。

急な浮遊感を傍受した椿の体は今まさに


(やば)


酷使しすぎた足がついに体を支えられなくなり、椿は駅のホームから線路へとゴミのように投げ出される。

転がり落ちてきたチャンスもまた、無惨に転がり落ちていったのだ。

予知夢で見ずとも読めた先の展開に、椿は短く2文字で危機をつぶやく。


遺言なんて残す暇もなく、

発車したこちらへ向かってくるのを、

コマ送りになった時の中見つめ、

椿は固く目を瞑った。


「――まもなく、8番線に列車が参ります。

危ないですので、黄色い点字ブロックまでお下がりください。」


再び聞こえたその声は、酷く無機質に感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る