5話 「夢ならばどれほど」
「だれか・・・・・・!!」
喉奥から声を振り絞り叫ぶ。
(誰か、誰か!)
――――――私を、救って。
「ツバキ、起きて。」
――私はその時、世界が透き通った気がした。
私の感情に呼応するように、知らない声がホーム内に響く。
十六年間呼ばれてきた私の名前。
あんなに耳鳴りばかりで煩わしかった駅が、潮が引いたように静まりかえり。
喧騒の中で、一際鮮明に声が聞こえる。
男、ではない気がする。かといって女性らしい丸さもない。
私の中での常識では判断しきれないような、声と形容するにはあまりに無機質で、
空気の振動とは捉えられないような
文字だけが脳に残るような
それでいてどこか優しさを含んでいて
ぬるま湯の中にいるような、夢見心地。
体を蝕む激痛が、言葉のヴェールに包まれ和らいでいく。
「さあ、僕と一緒に行こうか。」
彼の周囲にいた誰もがあらゆる仕草を止め、息すらも止めた。
圧倒されたように、指示に従うように、黙って彼に道をつくる。
明らかに他とは一線を画す異質さに肩が跳ね上がった。
扇情的に揺らめく声に誘惑され、顔を上げる。
痛みこそ感じなかったものの、頭上に象でも乗っているのではというくらいには重量感がある。
きっとまだ死にかけの木屑のような状況は変わってないんだろう。
(あの人が・・・)
前置きなんてなくとも、一目で分かった。
――その男は悠々と、浮くような足取りでこの平凡な地に降り立っていた。
男だと仮定づけたのは、"僕"の一人称から。
それさえ無ければ男か女か、はたまた人間かすら危うかった。
浮世離れした透明さの白髪に、紫眼。
ドールのように精巧な細身で、顔のパーツ全てが計算されたように正確。
薄い唇と儚げな目元からは性別が全く読み取れない。
同じ時空に存在しているのが不思議なほど、神話から落ちてきたような男だった。
(と、いうかあれは・・・
艶のない黒い革靴がこちらへ歩みを進めてくる。
彼が纏っているのは、スーツというにはあまりに仰々しい丈の長さをした上着。
と、内側に着ているのは何処ぞの貴族が愛用していそうなフリル付きの⋯。
兎に角、全体的に黒で統一された礼服のような雰囲気に、ふとおばあちゃんの葬式が過ぎった。
そう、あの時親戚が揃って着ていた喪服にどことなく通ずるものがある。
丁度一ヶ月前のこと、忘れるはずがない。
死者を弔う重苦しい黒。
彼等の表情は皆沈んでいて、哀愁が痛いほど肌をさすあの重厚な空気感。
喪服を纏った皆々の顔が浮かぶ。
「――ほら。」
眼球に、粉雪が映る。
白い白い彼の手は溶けるように、魂ごと引っ張り出すよう私に差し出された。
気付けばゴミみたいに転がっていた私を見下ろすように、彼はそこに立っていた。
微笑を確かに口元に貼りつけた彼の端麗な顔立ちが伺える。
誰よりも美しいと豪語するには華やかさがないというのに、誰よりも惹かれる瞳に吸い込まれそうになる。
同行を求める彼の言葉は一切身に覚えがなかったが、
「・・・ぅん。」
彼の言葉に従わなくてはいけない。
心の氷が液状になるまで溶かされ、疑問は全て後回しにされた。
なぜ、だれ、どうして、そんなもの後でいい。
きっと彼なら、私を救ってくれるから。
出所のわからない確証が私の背を押す。
いや、きっとこの人は、あの男が言っていた――
「天使なら、ここにいたじゃん・・・」
瞼を閉じると、星のない星空のようにゆったりとした景色が拡がっていた。
ゆっくり、赤い赤い私の手は惹かれるように、魂ごと捧げるように、彼の元へ伸びて――
「おい!金は、金はまだか!?2億あるんだろ!?
俺がやったっつぅ証拠全部消すって契約だよな?俺がこのガキを殺したんだ、金を寄越せ!」
――こんなしみったれた場所いつまでもいられるかよ!
「っわ・・・」
裏返った怒声に持ち上げていた手の力が消え、鈍器と成り果てて重力のまま落ちる。
瞑っていた目が弾けるように開いて、仰天のまま右往左往する。
殺人犯の声だ。私を刺した張本人の声。
遅れて怒りが脳に届いた。
私を窮地に追いやった人間。こんな痛みを私に与えた、恨めしい人間。
(金?金・・・2億?そういえばしつこく言ってたな、金がって。
私を殺せば2億・・・?いつの間にそんな価値つけられてるの私・・・・・・。人身売買ってこと?何それ、意味わかんな――)
「2億――嗚呼、そういう契約だったね。
うん、証拠隠滅は此方でちゃんとさせてもらうよ。お疲れ様。
その階段を上がって真っ直ぐ進めば君の手引きをしてくれる人間がいる。彼女の指示に従って逃げてね。」
白髪の彼にとって男の存在は意識外だったらしい。
壁のシミでも見るように男を一瞥すると、「お疲れ様」ともう一度告げて小首を傾げた。
柔らかく赤子を諭すような声に、
「――っ!」
全てを理解し、前のめりになっていた体を後退させる。
(違う違う違う、何で気が付かなかったの私!?この男も一枚噛んでるに決まってるじゃん!
悪質な莉乃椿殺害計画に!いや、それどころか・・・さっきの会話の感じ、加担者どころか首謀者!)
先程まで天使だった彼の姿形が変貌して、醜悪な悪魔を形造り始める。
洗脳が解けて世界がひっくり返った感覚に吐き気が迫り上がってきた。
動揺で瞳を揺らしながら彼を見ると、彼は変わらない綺麗さで微笑んでいた。
しかし、先刻まで理解出来ていなかったものが赤裸々になってくる。
優しく微笑んでいるように見る彼の口元は、歯を見せた卑劣で歪な笑みに変貌していることが。
――理解した途端、錆びていた痛覚が過敏に働き始めた。
「あがッ!?いった、あ〜!ぁァ、あ、
は、はは・・・っ、全く、何がしたいの・・・
私なんか、ぁ、恩売ってもなんもなんないって・・・」
途端に舞い戻ってきた痛みに悶えながら、彼を鬱陶しいくらいに睨みつける。
私を殺そうとしたのは此奴で、私を救おうとしているのも此奴。
目眩がするほど矛盾していて、意図が全く汲み取れない。
分からないの連続だらけの今日の中でも特に分からない彼の存在を、恨めしく思うのは当然だった。
「恩を売る、か・・・。
確かに、君に恩を売れたらどれだけ強大なリターンを得られることか。計り知れないね。」
「あ、買い被りにもッ・・・つ、あ、程があるよお兄さん・・・平凡なJK相手に・・・」
「いいや、買い被りなんかじゃないさ。」
彼は膝を曲げて私に目線を合わせると、薄い笑みを更に深めた。
唇で笑いながら私を称揚する彼の瞳はなんとも無機物のようで、筋肉の繊維まで見透かされるような不気味さを覚える。
不快なのに、彼の視線は母神のように心地いい。
「君は自分を平凡な人間だと思っている。
けれどそれは、君が低い目線で物事を俯瞰しているからだ。本当の君はもっと高く、特別で、翼の言うままに飛べるはずなんだよ。」
「は・・・?翼?いみわか、んない・・・宗教勧誘はお断りなんだけど・・・」
天使だの特別だのなんだのと。
私を持て囃しては落として、何がしたいのか。
恨みつらみは死ぬほど出てくるのに、言葉にする気力が体に残っていない。
惨めったらしく目線で訴えるしかなくて、自分の非力さに反吐が出る。
「けれど、このままじゃ君は死にゆくのを待つ木偶の坊に過ぎない。
生きたいのなら、僕の言葉に耳を傾けた方が賢明かもね。
君の命、ひいてはこの場全員の命は、僕が握っているんだから。」
「そんな大層なこと言ってるけど・・・どうせ、私はもう・・・助からない・・・」
自分の体だ。自分が一番理解している。
私の心臓はまさに役目を果たして、ただのゴミ屑と成り果てようとしてること。
頭がやけに冴えていて、痛覚を凌駕して死を告げている。
いかに世界中の名医や技術をかき集めたとしても、多分――助からない。
運命を静かに傍受しろとでもいうように冷えた身体を抱きしめて、泣き言を吐いた。
死にたくないの。でも、体が生きるのを諦めている。
すっかり弱りきった私の姿に、彼は初めて笑み以外を浮かべた。
困窮したような、しかし余裕に溢れたカオ。
「どうかな」
凛とした声に顔を上げさせられる。
首根っこが軋むように音を立てたが、それすら関係ないと、
壊れた私の関節を彼が動かしてるみたいな、手中に収められている気分。
そして彼の挑発的な台詞の真意もまた、すぐに分からせられた。
「ひ、ぁ――」
喉奥から出かけた悲鳴を、歯がブレーキをかけた。
あまりに非現実的で、私の目の色を変えるには十分な量の挫折で、とてもじゃないけれど直視できるものじゃなかった。
えずく喉を左手で押さえ込む。
「ぅ、おぇ、あ、は?
何これ、こんなの、こんなの許されるはずが――」
刺された瞬間と同じだけの衝撃を体に叩き込まれる。
胃から込み上げるものを無理やり押さえていたからか、代わりに涙が粉のようにボロボロになって床に落ちた。
凄惨でしかない。それ以上も、それ以下でもない。
怒りも困惑も、湧いてこなかった。
きっともう、使い切ってしまったんだと思う。
「君の命、ひいてはこの場全員の命は、僕が握っているんだから。
生かすも殺すも、是非も、有無も、僕の匙次第だって。分かってもらえたかな。」
その光景は、私の目の色を変えるには十分だった。
私の眼球が赤と黒で塗られて前が見えなくなる。
広がっていたのは、戦争後の光景だった。
海外の城から盗み出したであろうアンティークな剣が、現代社会に似つかわしい形相で居座っている。
駅のホームに突き刺さる剣。
どこを見ても剣、剣、剣。
細身の剣身が先を示しているのは“人体だった“。
私一人が独占していた床に、十数人が転がっている。
私の背に刺さった旗のように、包丁のように、背に剣を貫かせて。
悲鳴は一瞬だった。
蛙が潰れて内臓を吐き出すときの音みたいに、「ぎ」や「あ゙」を最後に沈黙する。
私よりもずっと深く、床に亀裂を作り出して串刺し状態になるまで剣に深く踏み込まれている。
私が想像する混沌の十歩先をいく光景に、
「何なの、もう・・・意味わかんない・・・。
全部が嘘でできた世界に来たみたい・・・」
世界から倫理観も秩序も消えてしまったみたいだ。
人一人の命がネット上みたいに捨てられていく。
自分の存在すら明確にできないほど――。
「それを僕は夢と呼ぶけれど・・・生憎、僕は夢を見ないんだ。」
やはり壁のシミでも見つめるように自身が創造した混沌を眺めながら、彼は肩をすくめた。
生憎、という言葉を使っておきながら、清々しいまでに眉目好いとぼけ顔で。
「さて――現実に戻ってくる時間だ。
目の前には、君の命運を左右できる力。
取るだろ?そりゃ。」
あっけらかんと、彼は私の行動ごと決めつけた。
掌握されて、あくまで自分は優位に立っていないと知らしめられているようだ。
不快だ。ひたすら不快。
不快だけれど――反論する術は持ち合わせていない。
このままただ死を待つだけより、心底嫌味ったらしい男に下るしかないと頭では理解している。
死んだら、何もかもおしまい。
何秒だって生き長らえることができるのなら――藁にだって何だって縋ってやる。
“命運を左右する力“――そんな非科学極まりないもの、信じるに足らないけど。
でも実際、人の命をマジックみたいに奪うことはできるわけで。
それに、救けてって言ったのは私・・・。
「――生きるために、手段は選ばない。
お前がなにをしたいかとか、何者とかそういうのは⋯息ができるようになってから聞き出してやる。」
「死にかけの割に生き生きしてて素敵だね。いい生命力じゃないか。」
私に決死の覚悟に、彼は薄っぺらい褒め言葉で返した。
だがやはり救命の意思はあるらしい。
痙攣を止めない私の手を包むように両手で受け止め、
「さぁ、今度こそ君を連れ出すよ。」
――冷たい。
私の手は体温を漏らし氷のように冷たいのに、彼の手はそれ以上に冷たい。
彼に触れた瞬間、天使の介錯のように全てが和らぐのは相変わらず不可思議だ。
一種の握手のように頼りない形で、肌と肌を触れさせて――
「大丈夫。僕に身を任せて。・・・息を吸って、吐いて。」
医者のように手慣れた口調で、手取り足取りを教えられる。
肺を動かすのは地獄の痛みを伴ったが、それも一瞬で忘れられた。
何だか本当に天国にいるみたいだ。
メルトダウンする細胞が呼び覚まされて、暖かさを私にもたらす。
蘇生の実感が――湧いてくる。
「――だったら、のに。」
麻酔を打たれた時に似てる。
意識の海に放り込まれて、目を瞑って。
そう、こんな風に段々、現実と夢の境界が曖昧になって。
「だったらいいのに・・・」
駅に足を踏み入れた時から、わからないの連続で。
痛い思いはするし、苦しいし、なんかよくわからないまま変なことに巻き込まれそうになってるし。
ママは――パパは、みんな、みんなにもう会えなくなるのかも。
いや、高望みはしない。最後に、遺言だけでも残せれば。
てか高望みってなに。私、一般的な人生からこんなどん底に落とされて。
最悪なんてもんじゃない。
「夢、だったら・・・いいのに」
願わくば、こんなの全部幻惑であって欲しい。
目が覚めたら、そこはいつも通りの自室で。
朝ご飯を食べて、時間が余ったらテレビも観て、電車を待って、それで、
それで、いつもみたいに、友達に会って
会って
会って、遺言を伝えて――。
違う、
会って、いつもみたいに他愛もない漫画の話で笑うの。
塞ぎ込んでいく視界の隅に、彼の姿を捉える。
輝く髪、滑らかな肌、儚い目元。
初めて見る彼の人間味ある表情は、焦燥だった。
「夢――?
ツバキ・・・その願いは、その生存の意思は、
耳障りの良いトーンの声がすり抜けていく。
ああ、もう黙ってて。
今、すごく心地よくて。
いい夢、見れそうだから。
目を瞑る。
なにも見えなくなって、すごく気持ちの緩む世界。
息が消えて、心臓が止まって、脈がなくなっていく。
しぬ。
多分もう、しぬ。
「あ、もう、だめ。」
私、死ぬ。
「七月六日。莉乃椿、十六歳。刺殺。」
あ。
そういえば――明日、私の誕生日じゃん。
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