3話 「痴漢は犯罪」
人気のないリビング。
そして、それと比にならないほど多く行き交う人々。
先程済ませた一人の朝食、その埋め合わせとでもいうような人の圧で、呆気なく流されそうだ。
都会の駅は日々の通勤・通学ラッシュの連続で存在している。
私が今いる駅は、学校へ行くための電車が来る駅。
要は、私も通学ラッシュ発生の要因の一人ということだ。
こうしていると、私以外にも学生なんて星の数ほどいて、各自生き方があると知らしめられる。
私なんてだだっ広い都会の一部に、宇宙の藻屑に過ぎないのだと。
――そうして時間を持て余していると、くぐもった音と共に髪が巻き上げられる。
左右に揺れ動く髪が擽ったくて、咄嗟に右手で抑えた。
やけに音が遠く聞こえるのは、両耳に嵌っているイヤホンのせいらしい。
本来聞こえるはずの騒音も、多少は緩和されている。
七番線、8時5分の電車。
電車の情報を確認し、
(よし、行くか――)
数多の人をかき分け、開いた扉の内側へと一歩踏みだす。混雑に混雑を重ねた電車内が見えて、私は
「――莉乃椿、だな?」
私はその時、世界が透き通った気がした。
カクテルパーティー効果というらしい。友人が教えてくれた。
騒がしい場所でも、自分の名前や興味のあるものははっきりと聞こえるってものだそう。
喧騒の中で、一際鮮明に彼の声が聞こえる。
りのつばき。
十六年間呼ばれてきた私の名を、砂漠の中の一粒のダイヤを見つけるように、耳が拾う。
呼んでいるのは、低い、それでいて少し上擦ったような男性の声だった。
こんな声の知り合いたっけ、
同姓同名の人を呼んだだけかも、
でも滅多にいない珍しい名前だし、
疑問が幾度となく浮かんでは消える。
しかし、考えるより先に、私は後方へ振り向いてしまった。
深い意図はなかった。
呼び掛けに応じただけだった。
この先の展開なんて、予想してなかった。
「っ・・・!?」
ふわり、浮遊感。
軽い衝撃と共に、私の体は呆気なく軸を見失った。
誰かの体温をシャツ越しの背中に感じ、衝撃の元を理解する。
押されている――いや、ラグビーでもするような勢いで人に激突された。
前後の展開的に、先程話しかけてきた男性だろう。
(痴漢するならもっと穏便にして欲しいんだけどっ・・・!)
人混みの中で、よく経験する感覚だ。
人に揉まれてぶつかって、つい倒れ込む時の感覚。
しかし今回は、いつも経験しているソレより幾分か強い揺らぎを感じた。
きっとそれは、偶然の重なりではなく、人為的な悪意によって突き飛ばされたから。
まず困惑より先に、反射神経が働く。
左手が咄嗟に出た、が特に意味がないことに気づいたのはすぐだった。
代わりに右足を前に出し、徐々に倒れ行く体をなんとか制す。
「あっぶな、」
なんとか体勢を維持できたが、即興甚だしい雑な足の支えで成り立っているにすぎない。
相変わらず背後の人間が離れる様子はないが、どうしよう。
今すぐネットで解決策を調べさせてほしい。
そんな思考と並行して、目を蛇のように動かし後ろを見る。
(ここからじゃよく見えない、首の可動域が狭すぎる)
眼前、電車の扉が開いた。
何十人もの乗客が、揃ってスマホを眺めている車内。
私を気にも留めないのは、ある種当然とも言えるだろう。
私だって、いちいち乗り込んでくる人間の様子なんて観察しない。
兎に角、この日常における一欠片のトラブルをどうにかしなければ。
「あの、いきなりなんなんですか・・・!?
ほんと申し訳ないんですけど、私あなたみたいな知人覚えがなくてっ・・・!」
「――その反応、莉乃椿。莉乃椿なんだな!?」
彼は浮かれた口調で私の名を幾度も呼ぶと、実に熱狂的なアイドルの追っかけのように、私の首元に腕を回した。
一体、私が何に見えているのだろうか。
今後の人生アイドルになる予定もなった記憶もないというのに、一端のJKにこの反応。
変な感じだ。
釈然としない、妙な違和感が足裏を伝う。
周囲をおおまかに見渡しても、やはり私の危機に手を貸そうというものはいないらしい。
両脇を人が通り過ぎていくのを、唇を噛んで見つめる。
(もしかしてこれ、やばい?)
首に腕を回されて仕舞えば、男女の体格差でなすすべなく抑圧されてしまう。
男性のあらい息が聞こえる。首に添えられた手も、小刻みに震えてる。
明らかにナニかやっていそうな興奮具合は、とても理性ある人間とは思えない。
理性がない。
=何をするかわからない。
=この状況はとっても危険。
自身に降りかかった身の危険に、初めて脳が警鐘を鳴らし始めた。
これは良くない、早く逃げろ!と――。
だが、抵抗のため身を捩っても、拘束が緩む気配もない。
どころか、逃げるなと語るように力が強まる。
「あァ、逃げるなよぉ。ようやく見つけたんだ。
莉乃、俺の光。
クソッタレな人生を、アンタが変えてくれ。
アンタさえいれば、俺はまた生まれ変われる!」
――だから死んでくれ、莉乃椿。俺の天使。
「は、死ぬって、何言って・・・・・・それに、天使って」
言葉尻が下がっていく。
――冗談だと思った。
こんなに普通に生きてて、こんなに普通の日々を送る私に。
天使とか、死とか。
私にはとても似つかわしくない言葉の羅列に、思わず目が乾いた。
彼の言うことは、出まかせにすぎない冗談だと思った。
――眼前、電車の扉が緩やかに閉まる。
「ちょ、ちょっと!何してるんですか!
この子嫌がってるじゃないですか!え、駅員さ〜〜ん!!」
「・・・!」
(また、知らない声・・・?)
先程まで聞こえていたような地を這う声ではなく、若い声が左側の耳に届く。
反射的に向けば、私を掴む男の手を更に上から掴む人。
スーツに鞄でキメた、活力に満ち満ちたサラリーマンだった。
この状況に目敏くも気付き、最良の選択をしようと躍起になっている。
「ちょっと何、痴漢?」
「今の状況めっちゃバズりそじゃね?カメラ回しとこ。」
「あ、駅員呼び行ったじゃん」
なんて素晴らしいタイミング。
測ったかのような、それこそ漫画のようなタイミングに、肩に詰まっていたコンクリートが抜けたようだった。
男の声のみが聞こえていた耳に、溢れるほどの喧騒が蘇る。
「とにかく、彼女を離してください!
事情説明はその後して貰いますから!」
「ア〜?さっきから外野がピチピチうるせ〜〜んだよな〜〜〜〜!?俺が!ご用なのは!このチビだけなんだよ!わあったら退けよ、まとも気取りの馬鹿が!」
これ以上言葉を発したら、邪魔をしたら、此奴を殺す。
言葉の最後に、私にとって最悪な脅迫文を付け加えて。
水を差された、というよりも、油を差されたように彼は燃え上がる。
語句すべてに"!"がつく勢いで捲し立てた彼。
それこそ勢い余って線路に飛び込むほどの勢いだった。
(てか、さっきから殺すって⋯いや、そんな訳ない。
だってここは駅のホーム、目撃者なんて言ってられないくらいの人数がいる。
大丈夫、大丈夫、殺されなんてしない。ただのありきたりな脅迫・・・。)
自身に言い聞かせるように、大丈夫と脳内で反芻する。
なのに、サラリーマンさんの登場によって忘却の彼方にいた緊迫感は再び顔を出しつつあった。
割いって物申したサラリーマンさんはというと、私に向けた以上の集中砲火をくらい少し狼狽えていた。
男を掴んでいたはずの手も、今は行き場をなくして宙ぶらり状態。
当事者でもないのに、と場違いな同情すら覚える。
何かを形作ろうとしていた口も、"喋るな"の命令一つで黙りを決め込んでいる。
対し、私を掴んで離さない磁石のような男は、むしろ先程より抑える力が強くなった気がする。
私の肌にぴたりと吸着した男の手が動く度、首の気道がきゅっと絞まる感覚。
(あ、苦しい・・・)
「――っ、が、ぁ」
意せずして唸りに近い声が出た。
とてもJKとは自称できない、可愛らしくない方の声が。
ようやく苦しみを見せた私に、それまで傍観していた人々も、事態が単なる痴漢行為でないことに気付き始めたらしい。
私の危機を憂いた声が多数飛び交うが、心配せずとも危機は私が一番身に染みて感じてる。
だが幾ら彼らが私を救おうとしようが、人質の如く急所を掴まれた私には、容易に近づくことすらできない。
事態は私の不安を助長させるばかり。
「この、はなっ⋯して⋯」
焦りに焦り、出たのは腕の大振り。
冷や汗で凍った体を懸命に動かし、脱出に向けた二度目のトライ。
が、それも空振りに終わった。
「離す?何を?アンタを?
冗談きついぜ、神様。千載一遇のチャンスは逃さねえよ。」
(神様だったり天使だったり、どっちかに統一して!)
――トライ失敗。
無論、男女の差で圧倒されて終わった。
結果は目に見えていたが、今の私は理屈や手段を選ぶ余裕なんてないのだ。
焦燥、困惑、畏怖、その他諸々。
態度に感情が如実に現れ始めるくらい、私はもう頭が破裂しそうだった。
「あの子、なんか本当に深刻そうじゃない。
ほら、なんか⋯表情とか。」
「誰か助けにいけよ⋯」
「いや、人質っぽい雰囲気出してるし。無闇に寄れないんじゃないの?」
「ちょっと⋯怖いんだけど。最近世の中物騒すぎない?」
「なになに?あれ何やってんの?なんかの撮影?」
早く逃げたい。この場から。
「ねえ⋯あれマジでヤバいやつじゃないの?警察とか呼ぶ?」
早く逃げたい。この恐怖から。
「駅員まだかよ⋯」
「まあ人多いしなぁ」
早く逃げたい。このイカれた男から。
「なァ、天使。答えろよ。
アンタを殺せば俺は救われる。そうだよな?」
(さっきから天使天使って連呼して⋯私は莉乃椿だっての!)
その内、邂逅の瞬間から常に一貫性のない発言を繰り返すばかりの彼に痺れを切らし
「ああもうっ、学校遅刻しちゃうので退いてください!
痴漢は犯罪ですし脅迫も犯罪ですから!」
限りなく虚勢に近い虚勢を叫んだ。
自分史上かつてない程の大声――だった思う。
私の口から出たのは、悲鳴に近い懇願。
じわじわと体に侵食していた恐怖が、体に染みきってしまって、全身が麻痺しそうな感覚になる。
"天使“という単語が出る度、足元から百足が這い上がってくるような鈍い嫌悪感が駆け回り出す。
クスリでもやってるのかと思った彼の言葉が、徐々に真剣味を帯びてきて、
(あ、ほんとに私殺されちゃうかも)
自分で弾き出した覚えのない思考が、一瞬の内に刷り込まれた。
彼の言葉一つ一つには、"冗談“じゃ済まされない凄みが膨れているのに、この場の何人が気付いたことか。
――私は、不覚にもそれに気付いてしまった。
「なあ、天使。」
私の名前とは酷くかけ離れた、架空の生物の名前が聞こえる。
思わず顔を上げたが、呼び声の主は勿論見えない。
空も雲も、駅の天井が全て遮ってしまう。
声は、先程と打って変わって別人と紛うほど理性的に、
「⋯俺には、お前くらいの娘がいる。
でも娘の母親は、あの女は、俺の全財産を持ってほかの男と駆け落ちした。
酷い話だろ?だから、俺はもっと酷いことをしなきゃいけない。
金が、いるんだ。――幸せになりたい。」
――その時、私は猛烈に嫌な予感がした。
彼の言っていること、その全容が全く分からない。
私と金の関連性だとか、その他一切が。
ただ一つ確かだったのは、彼の言う天使と言うのは、あくまで金ヅルでしかないということだけ。
「――ッ!おい、お前、何して――!」
視覚の死角から、サラリーマンさんの鋭い声。
刹那、今までと比にならない力で首を引かれ、背に異物を押し込まれた感覚が走る。
――人が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うのが見える。
――悲鳴が、至る所から聞こえる。
――あ、やっと手離してくれた。
――今、なにされた?
――あれ、力入らない。
――私の世界が、ゆっくり落ちていく。
――なんで私、倒れて
「ーーーーーーーーーーーああ゙ぁああ゙ッ!?、!」
――一際大きく、誰かの絶叫が響く。
何これ。何が起きて、
恐怖が支配していた体が、熱に塗り替えられてく。
上書きされてく。
――ああ、これ、叫んでるの、私か。
「言っただろ。⋯喋ったら此奴を殺すって。」
――床に横たわったまま、腹に手をやる。
――お湯のように、何かが手の甲を伝った。
――背に金属の冷淡な感触がある。
――そっか、これ、私、刺されたのか。
ふと気が付けば、莉乃椿の背には分厚い包丁が突き刺さっていた。
月面に刺さった米国の旗の如く、勲章のように、深く。
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