第22話 七匹の蟻
タイトルは 七匹の蟻
健康的な朝日が、101号室に射している。
肥田氏が畳の上に下帯一枚で大の字に寝ている。
頭上に数十冊の書籍、新聞、チラシ、赤鉛筆が散乱している。
周明氏は少し開いたドアーの隙間から部屋の中を覗く。
周明氏がつぶやく。
「だらしないなねえ」
周明氏は大きく咳払いをする。
肥田氏がむっくり起き上がり周明氏を見る。
「・・・おお、君か。入って来い」
周明氏は呆れた顔で部屋に入る。
「何だ。君はいつから、そんなだらしなく成ったんだ」
肥田氏は身の周りを見て、
「? どこが」
「君の姿だよ」
「ああ、これか」
肥田氏は自分の姿を見て、
「ハハハ。これは俺のあみ出した精神解放術だ」
「精神解放術?」
「そう。自分の経験的に抑制された道徳や行為を総て捨て去り、一度、幼児期の状態に戻す。それによって精神の抑圧を解放し、気分を再び明るくさせるのである。それには太陽の適度な紫外線が欠かせない。これを光合成と云う。人間も植物も同じだ」
「それにしても下帯一枚とは・・・、看護婦が見たらどう思うかね」
「大丈夫だ。俺は脳病患者ではない」
「そうか?・・・なんだか患者よりも患者らしく見えるぞ」
「見方はそれぞれだ。それよりこの解放術を西丸くんに教えてあげたい。実に爽快になれるぞ。ハハハ。あッ! そうだ。この間、猪一郎(徳富蘇峰)から手紙が届いた。君の事が書いて有った。なにやら君は無罪放免に成りそうだ」
「やはりそうか。先日、院長もそんな事を言っていた」
「連合軍は君の法廷での言行に、よほど恐れをなしたのだろう」
「連合軍?・・・それより、最近、朝の体操を部屋から見ていると実に面白い。院長も積極的にやっているし、すこぶる評判も良いぞ」
肥田氏は嬉しそうに、
「そうか。それは良かった」
「鮫島さんは便秘が治ったと言っているし、畑さんは女学校の制服が着られる様に成ったと喜んでいる。院長などは五十肩が何処かに飛んで行った、なんてはしゃいでいたぞ」
「女学校の制服?」
ドアーをノックする音。
「失礼します」
顔を上げる鮫島(看護婦)。
肥田のあられもない姿を見て鮫島が、
「キャッ!」
胡坐をかいていた肥田氏が急いで正座し鮫島を迎える。
「あッ、失敬! どうぞ、どうぞ」
鮫島は目を瞑(ツム)る。
「いや、また後で来ます。失礼しました」
「?、そうですか。それじゃあ、また。お待ちして居ます」
鮫島はドアーを閉めながら、
「・・・釣鐘が風邪ひきますよ」
「ツリガネ?」
肥田氏は下帯を見て、
「ああッ! こりゃまた。ハハハ。釣鐘か・・・なるほど。実は、これは研究の一環なんですよ」
「研究?! で・す・か・・・」
鮫島が101号室を出て、104号室に向かう。
103号室から堀田氏が出てくる。
「あッ、サメ(鮫島)ちゃん。昨夜の酢豚、酢が効きすぎじゃない。アサ(朝倉)ちゃんに言っといてよ」
「糖分を控えめにしてあるんです。アナタだけですよ、病院の食べ物に文句を言う患者は」
「患者? 僕は患者じゃないぞ。囚人(シュウジン)だ」
「ああ、そうでしたね。堀田さんは護送車で来たんでしたね。失礼しました」
そう言い残し104号室に向かう鮫島。
104号室。
部屋のドアーは開けっぱなしである。
104号室から鮫島の元気な声と、杉浦氏の怒鳴り声が聞こえてくる。
「杉浦さん! 起きて下さい。お熱と血圧の時間ですよ」
「うるさいッ! ほっといてくれ」
堀田氏が102号室のドアーをノックする。
返事が無い。
「大川さ~ん!」
101号室から顔を出す周明氏。
「なんだ、肥田さんの部屋に居たんですか」
「うん。入って来ないか」
「そうですね」
堀田氏が部屋に入って来る。
「おお、堀田くん。どうぞ、どうぞ」
堀田氏は肥田氏の姿を見て、
「?・・・どうしたんですか、そんな格好で」
「うん? ああ、これか。君もやってみないか」
「いや、遠慮します」
「そのような見方は良くないぞ。この姿こそ、人間の原点じゃないか。南方の島ではコテカと云う下帯だけで生活している民族も居ると聞く」
「コテカ? ああ、原始民族ですね・・」
堀田氏は周明氏を見て、
「大川さん、判決は出ましたか」
「うん? 分からん。忘れられているようだ」
「それは無いでしょう。思想家ほど怖いものは無い。日本を今のような状態に導いたのも思想家じゃないですか。それを放って置くはずが無い」
「君は私を励ましてくれているのか?」
「勿論です。法廷で徹底的に戦ってもらわないと」
「私もそう思う。A級戦犯に選ばれた意味がないではないか。こんな事で不起訴に成ってしまったら、大川周明の今までの歴史が無くなってしまう。存在した理由が無くなってしまうじゃないか」
周明氏は合点がいかない眼で二人を見る。
部屋のドアーをノックする音。
三人が入口を見る。
西丸(医師)が笑顔でドアーの前に立っている。
「おお、西丸先生か。どうぞどうぞ」
「失礼! 声が聞こえたものでね。皆さんお集まりですね。ヤルタ会談ですか」
「面白い事を言うね」
「あッ、ちょうど良い。皆さんの血圧を計りましょう」
「僕は病人ではない!」
「私もだ」
「私は・・・」
「いや、その内に成るかもしれん」
周明氏と肥田氏、堀田氏が顔を見合わせる。
「かもしれないか」
三人が笑う。
「もう成ってるんじゃないか?」
西丸は三人の目をじっと診詰める。
堀田氏は不機嫌な顔で、
「精神病者かどうかの判断はどこを診れば判るのですか」
西丸はきっぱりと、
「言行の不一致ッ!」
「不一致? じゃ、俺は違うな。自信がある」
「私は治って無いのかもしれないなあ。最近、行動に自信が無くなってしまった。と言うより気力が頗(スコブル)る衰えたようだ」
「それは目的や目標の欠如から来る」
「それだけでは無い。気合が入ってないからだ」
「岡田さんの様な事を言うな」
「岡田?」
「106号室でいつも怒鳴っている患者ですよ」
「ああ、よく廊下で倒れている?」
「そう、その方です」
「気合が入り過ぎているんじゃないか?」
堀田氏が、
「いいえ。あの方の精神環境はまだ戦争の真っ只中に在るんです。可哀想な患者です」
「ほう。君は医者の様な事を云うね」
「実は僕、小説を書きはじめたんです」
「おお、いよいよあの雑草の花壇を書き始めたか。で、どんな小説だね?」
「どんな小説?・・・タイトルは『七匹の蟻』」
周明氏が、
「七匹の蟻? 花壇に蟻が出るのか? 面白そうだな」
「違いますよ。攘夷の小説!」
西丸(医師)が、
「忠臣蔵か」
堀田氏はいやな顔で西丸を見て、
「やめてください。今、忠臣蔵なんて書いたらGHQから呼び出されて終身刑になっちゃいます」
「そうだな。ごめんごめん」
「で、内容は?」
「戦いに負け戦争に勝つ。七人の元陸海軍特攻兵の攘夷の物語です」
「攘夷? 攘夷とは外人を追い払って国内に入れない様にする事だぞ」
肥田氏が、
「鎖国の小説か。・・・面白いかもしれない」
「違います!」
西丸、
「ハハハ。それこそ終身刑になるな」
周明氏、
「君は国際文化振興会の上海事務所とやらに居たんじゃなかったのか? どちらかと云うと親米派だろう」
西丸、
「? 堀田さんはそんな所にも居たのか。それじゃ君の気質に合わないじゃないか。もっとスマートな物に書き改めた方が良いな」
突然、肥田が、
「そうだッ! 七匹をこの精神病院の患者にした方が面白いんじゃないか? ハハハハ」
西丸、
「冗談も程々(ホドホド)になさい。ここの患者にそんな事が出来る訳(ワケ)が無い」
肥田氏、
「小説だよ。ショウセツッ! 本は売れなくては話にならないぞ。面白い方が良いじゃないか。なあ、大川君」
「? う、うん。まあ、それは、そうだね」
堀田氏、
「ちょっと待って下さいよ。書くのは僕ですからね。場面は僕が決めます。それに『精神が壊れた人』が攘夷なんて。・・・?」
堀田氏は話しを止め少し考え、
「でも、・・・それは・・・面白いかも知れないなぞ?」
肥田氏、
「だろう。ちょうど『奇妙な患者』ばかりが入院しているじゃないか」
堀田氏が、
「奇妙な人とは、どの部屋迄の患者を言うのですか?」
肥田氏、
「君の部屋も入っているから心配するな。ハハハ」
堀田が憤慨した表情で、
「失敬ですよ、肥田さんッ! いくら肥田さんでも怒りますよ」
「冗談だよ。気にするな。・・・そうだ! 皆で一緒に丸の内の進駐軍本部に殴り込みを掛けるなんて云うのはどうだろう」
西丸、
「いい加減にしてくれ。ここは都立の松澤病院だぞ。そんな噂がたったらマッカーサーの赤い革靴の底で踏み潰されてしまう」
周明氏がひらめいて、
「! いや、これは面白いかもしれないぞ。どうせ私の主張は法廷に載(ノ)らないのだ。戦いに負けて戦争に勝つ。・・・これは私の最後の檜舞台に成るかもしれない。殴り込みは熊本の五高以来だ」
「殴り込みって大川先生はお幾つになられたんですか」
「還暦は過ぎたかな?」
「そんな方が無理無理! 心不全で階段の昇り降りでヘタッテしまう。かえって足でまといです!」
「何を言うかッ! 私は剣道五段、真庭念流の使い手だぞ」
肥田氏、
「ほう。大川君は、真庭念流か。専守防衛の剣術だな。それじゃあ、ジックリと作戦を練らなければ」
西丸、
「おいおい。ここは精神病院ですよ。患者達に統制が取れる訳が無いじゃないですか。バカらしい」
周明氏、
「院長が言っていましたよ。ここの患者達に今一番必要としているのは夢と希望を持たせる事だとね」
西丸は説得するように、
「大川さん、それは解釈が違う。たしかに泥棒にも一分の理があるかもしれない。が、丸の内のGHQ本部に殴り込みをかけるなどとは、それはちょっと頂けない。患者には刺激が強過ぎる」
肥田氏は西丸を睨(ニラ)み、
「君は日本がこのままアメリカの意の儘(イノママ)に成り下がって良いとでも言うのか!」
「いや、それとこれは違う。これじゃあ本当の『ヤルカ会談』だ」
周明氏が、
「ヤルカ会談? 面白い事を言うね」
三人が、
「は〜あ?・・・」
堀田氏、
「とにかく、僕がそのシナリオを書きましょう」
肥田氏、
「面白い! 任せる。徹底的に面白い脚本を書いてくれ」
西丸が、
「おいおい。付いて行けないぞ。オレはもう戻る。いいですか、これは、あくまでも小説ですからね。くれぐれも皆さんの『気持』は入れないで下さいよ」
つづく
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