第68話

水夢が1歩わたしに近付く。


水夢が傾けば唇が触れ合う場所で、わたしは水夢に、怯えた顔を見せてしまっていたのかもしれない。


くすりと小さく微笑を浮かべた彼は、耳元に唇を寄せた。




「言ったでしょ。白石さんは、遊戯の相手にぴったりだから」




ああ、もう。どうしてわたしって、こうなんだろう。


決定的な言葉はない。漫画や小説のように、ここでわたしが水夢を拒否したら大事な人を傷つけられる、なんて展開が後にやってくるのかもわからない。


でも、なにしろ、わたしだ。


不運しか招かないわたしの身に起きることなら、あり得てしまう。




「ねえ、今日このあと暇?」




首を静かに縦に振った。


白い手がゆっくりと頬に伸び、丁寧に輪郭を撫でる。


優美なムーブで持ち上がる瞼の裏に隠れた濃褐色に自分が映る。薄い桃色の唇が品位を保ったまま両端を引き上げる。



今からスーパーで、3日分の食材を買い溜めるつもりだったのに。


真守の好きなビーフシチューをじっくりことこと煮込むつもりだったのに。



真守、どうしようもないわたしでごめんね。今からわたしは、約束を破ります。



駅ではなくタクシー乗り場へ向かう水夢の後を、ついて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る