蠣崎の台頭

松前大館守将下国定季の没後、子どもの恒季が館の守将となったが、横暴であった。そのため、宗家の秋田安藤家が松前に派兵し、1496年には自害させた。そして、相原季胤、村上政儀を任命した。

1512年、コシャマインの戦いに次ぐアイヌの攻撃がおこり、志濃里、箱館、茂別などの各館が攻め落とされた。さらには、大館にもアイヌが攻め寄せ、村上、相原両名が死亡した。

この一連の騒動は、上ノ国の館主である蠣崎家にとって、都合が良かった。大館は、秋田安藤家の直轄蝦夷支配の中心拠点だったためである。そのため、アイヌの攻撃は、松前2世の蠣崎光広の策謀なのではないこと言う説もある。

翌年3月13日光広は、息子の義広と共に大館に移り、改装して徳山館と名付けた。

光広は、安藤家の当主安藤尋季に許可を求めたが、許されず、後に松前3世となる義広が口のうまい紺広長を派遣して、蝦夷地代官の地位を得た。

その後、蠣崎家は、松前に来る商船から税を取り立てその半分を安藤家に納める体制に入る。

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松前史 ぜんざる @zanzeru

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