第28話 仮面
あっと思った時にはスクリーントーンに入れていた切込みが歪む。駄目だ、集中できない、と杏奈は溜息をついた。机の上に広げた漫画の下書きだけが、彼女が自由でいられる世界だったのに、そこにさえ麗華に騙された当初の記憶が邪魔をしていた。
――え? 一ノ瀬さん、またひとり? 友達いないの?
最初は昨年のSNSだった。クラスのグループチャットで杏奈を槍玉にあげ、そこから彼女が“孤独”だというレッテルが貼られていった。元々、人付き合いが苦手で友人も少なかった杏奈はあっという間に孤立した。同調圧力は“孤独な一ノ瀬さん”と関わらない、という方向に働いた。
そこからは早かった。掃除当番でごみを捨てるとき、あまり関わりもない当番でもない子が「捨ててきてあげる」と申し出てきて、杏奈が自分の役目だから悪いと断ると、「気を遣っているのに無視された」と喧伝された。思い悩んで寝不足になり、授業中にウトウトしていると「先生、最近一ノ瀬さん寝不足みたいで心配です」と告げ口され先生から注意される。徐々に杏奈の印象は悪くなっていった。
――私、杏奈ちゃんと友達になりたいと思ってるんだ。でも、みんながさ……
そんな時だった。新聞部の部活動の後、一人で帰ろうとしていたときに同じ部活の榊原麗華が声をかけてきた。表立って友達にはなれないけれど、友達でありたいと思っている、と。麗華は優等生で学級委員もやっていた。品行方正で誰からも好かれており、いわゆるスクールカーストの上位に位置する人間だ。杏奈へのこっそり話しかけてくれたことからも、杏奈は麗華の言葉が本当だと信じてしまった。
その後も杏奈へのいじめは続いた。体操服や教科書を隠されたり、ロッカーの鍵をこっそり交換されたり。抗議すると馬鹿にされたように笑われたり、自作自演だという噂を流されたり。そんなとき麗華は「一ノ瀬さんは考え方が独特だから」と微妙な言い回しで事態を鎮静化させたりしていた。それでも何かしら対応してくれるだけマシだし、二人の時は普通に話をして買い物をしたりして仲良くできていると思っていた。
だがそれも最初のうちだけ。「あたし、今日は財布忘れちゃったんだ。一緒に買ってきてよ」と要求されることが増え、さすがに頻度が多いと断ると「あ? あたしは友達だと思ってたのにそんな態度なの?」と冷えた目つきで言われた。拠り所を失うわけにはいかないと、杏奈は徐々に麗華の理不尽な要求に従うようになっていった。
「……もう、やだ……」
杏奈は机に突っ伏した。原稿用紙がくしゃりと歪み、書きかけのイラストが雫で滲んでいった。彼女の平穏はどこにもなかった。
期末試験が近くなり部活動がなくなったある日、杏奈は溜息をつきながら昇降口で自分の下足箱を開けた。すると、ひらりと一枚の紙切れが舞い落ちていった。
「お、ラブレターか? ひゅーひゅー!」
「一ノ瀬にラブコールする奴なんているわけねぇだろ~!」
男子が囃し立てる。居たたまれなくなった杏奈は紙切れを拾って急いでその場を離れた。誰もいないところまで来ると、一体、何なのだろうとそこに書いてある文字に目を落とした。そこには「今日15時半に喫茶店においで 父より」と書かれていた。
パパに会える――暗闇を漂っていた杏奈の気分に少しだけ光が差した。杏奈はぎゅっとその紙を握りしめると、周囲に誰もついて来ていないことを確認して歩き出した。
学校からみて、駅の反対側へしばらく行った住宅街にある、ひっそりとした喫茶店。見た目は倉庫のようで本当に営業しているのかも怪しく、あまり寄り道をしない杏奈にとって入店の敷居はとても高かった。でも漂ってくるコーヒーの香りがお店の営業を主張していて、光に縋りたいという気持ちも彼女の勇気を後押しした。
からんころん、とドアについた古めかしい鈴が鳴る。磨かれた木製のテーブルやカウンターが深い輝きを放っていた。少ない座席の奥に、よく見知った顔があった。
「杏奈、こっちだ。よく来たな」
「……パパ……」
拒絶したのに会いに来てくれた――それだけで杏奈は救われるような思いだった。席につくと思わず涙が出てしまい、拭っても拭っても止まらなかった。そんな杏奈を父は真面目な顔をしたままじっと見守っていてくれた。
「杏奈、話したいことがあるなら聞くぞ」
「あ、あのね、パパ……」
杏奈はすべてを打ち明けたくなった。けれどもそれは大人の介入を招くことになり麗華に報復されてしまう。これまで撮影されてきた惨めな写真や動画がインターネットにアップロードされてしまえば社会的に死んだも同然だ。生殺与奪は麗華が握っており、杏奈には逆らうという選択肢がなかった。
「パパと……離れて暮らすようになって、寂しかったの」
出て来た言葉は相談したいこととは別だったが、これも杏奈の本心であった。言葉が出るようになった杏奈は無難な話題――母が仕事ばかりで忙しそうなこと、祖父が父を嫌っていそうだということ等を口にしていた。本当に相談したいことを打ち明けることができないままでいたけれど、この時間があるだけで救われた気分だった。
やはり先日の態度はあの女子生徒を警戒してのものだった、こうして話せば純真で良い子ではないか――ジークフリートは感心していた。貴族社会では何かと他家の目を意識して品行方正な振る舞いを要求される。立ち振る舞いや言葉の端々で上げ足を取られることなど日常茶飯事。そうした社会で生きて来たジークフリートにとって、こうして素直な言葉が出てくる杏奈が可愛く思えた。自然と庇護欲が湧いて来る。
「杏奈が不自由なく過ごせているようで良かった。ところで、学校でも問題はないか?」
その話題を避けているように感じたジークフリートは一歩、踏み込んだ。おそらく
彼女は話せないでいる。こちらから誘導してやる必要があるだろう。
「え、えっと、その……。うん、
言い淀んだ杏奈の様子をジークフリートは見逃さなかった。やはりあの麗華という女が杏奈に手を出しているのだろう、そう確信していく。だが沙織が「今の時代は陰湿なんです。写真をインターネットに公開するだけで、世界中で笑いものにされて人生が終わるんですよ」と入れ知恵して来たこともあり、それ以上の踏み込みに躊躇してしまった。
「そうか。部活動もか?」
「う、うん。麗華ちゃんが
杏奈にとってはこの表現が限界だった。その裏の意味をジークフリートは察したが、彼女から望まない支援をすることはできないと「友達がいるなら良かったな」と流した。しばらく沈黙が支配した。先ほどまで近況を語っていた杏奈は笑みを浮かべていたはずだが、またここへ入って来たときのように暗い表情になっていた。
「ありがと、パパ。でも、もう来ないで」
「杏奈? おい、杏奈」
杏奈は荷物をひっつかむと、ジークフリートが止める間もなく逃げるように出て行った。去り際の泣きそうな表情にジークフリートは心を締め付けられた。単に仲の良い娘を連れ戻すだけと考えていたジークフリートは、強い者の陰で怯えて生きる弱者であり、声ならぬ声で助けを求める彼女を咄嗟に止めることができなかった。
「不覚……追い詰めてしまったかもしれぬ」
身分、思想、能力、出自……ジークフリートがいた世界と比べると、この世界はよほど自由であるし、誰しもが膨大な情報を手に入れることができる。だからジークフリートは、誰もが自由を謳歌し生き生きと人生を送っていると思っていた。
だが、彼の世界アルマリアで、村で忌み子を作り捌け口を作る者たちと同じように。この世界でも学校や仕事、家庭といったひとつの狭いコミュニティの中で、他人を貶めることで立ち位置を手に入れようとする者たちがいることを肌身で感じていた。
「力だ、力が要る」
辺境伯を継いでから彼が磨き続けた力。それはすべて、力のない領民たちを心無い貴族や魔物、他国の侵略から守るためであった。今、彼に足りないのは知識であった。それもインターネットという情報の海で修行すれば足りることが分かっている。ならば今までとやる事は同じだ――ジークフリートに迷いはなかった。
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