アーモンドチョコレート

赤信号で立ち止まっていると、横から自転車にぶつかられた。5歳ぐらいだろうか。男の子がびっくりした顔でこちらを見上げている。前を走っていた父親が慌てて引き返しながら、

「すみません」

と声を張り上げた。

「全然、大したことないです」

私も少し大きめの声で父親に向かって呼びかけた。そして、男の子に向かって

「ごめんね。びっくりしたね」

そう微笑みかけたが、彼はもう私を見てはいなかった。人形用かと思うぐらいに小さな自転車の 50センチほど前だけをじっと見つめている。そのままペダルを踏み込み、前に進み始めた。おなじところをじっと見つめたままで。これじゃあ、人間にも電柱にもぶつかりまくっているに違いない。後輪に取り付けられた補助輪がカラカラと音を立て、去っていく。 

 父親のもとへ向かって進み始めた男の子の姿を、目を細めながら見送った。自転車に乗れるようになってから、ずいぶんと年月が経つ。もう乗れなかった頃の気持ちを思い出すこともできない。あれから、いろんなものが見えるようになった。

 

 高校生の頃は、自転車で片道40分の道のりを毎日通学していた。授業の用意をリュックに入れて背負い、部活の用具と英単語帳が入ったトートバッグを前かごに入れていた。信号や踏切で止まるたびに前かごから英単語帳を取り出して開き、ぶつぶつと繰り返し呟きながらペダルを漕いだ。

 夏の暑い日には、下り坂の時にわざと腰を浮かせるのをひそかに気に入っていた。校則通りにひざ下にそろえたスカートの裾から風が入り、生地がはたはたと音を立てる。首筋を伝って、汗が後ろに吹き飛んでいった。

 冬場は部活用のウィンドブレーカーのパンツをスカートの下に履いていた。女子のパンツ登校は禁止されていたので、学校へ向かう最後の坂の前でウインドブレーカーを太ももまでたくし上げ、一気に坂を駆け上がる。40分の道のりで暖められた足に当たる朝の風が、体の表面だけをピリピリと冷やした。

 高校三年の一月。市役所に面した大通りで信号待ちをしていると、唐突にスーツを着た若い女性に声をかけられた。

「明日、共通テストですよね。頑張ってくださいね。」

女性はそう言って、私にアーモンドチョコレートの箱を差し出した。女性のことは、よく見るので顔は知っていたが、ほとんど話したことがない。一度だけ、信号待ちの間にハンドルに突っ伏して寝てしまっていた時に、「あおになりましたよ」と起こしてくれたことがあるが、その後も目があったら会釈をする程度で特に深く関わることはなかった。突然の激励に戸惑い声を失っている女性は続けた。

「わたし、三年前に向こうの市役所に赴任してきて、ここで見かけるたびにあなたが本を開いて勉強しているのを見てました。それを見て、自分も頑張らなきゃと、いつも元気をもらっていたので。」

アーモンドチョコレートの箱をさらにぐっと差し出されたので、私は手袋を外してそれを受け取った。

「ほら、青なりましたよ。じゃあ、頑張ってね。」

笑いかけた女性に

「あ、ありがとうございます。頑張ります。」

小さな声でお礼を言って、私はまた立ちこぎで走り出した。進みながら、前かごのバッグに、アーモンドチョコレートの箱を差し込んだ。いつにもなく、ペダルが軽かった。


 さっき私にぶつかった男の子は、漕ぎ始めは今にも転びそうにふらついていたが、少しずつスピードが上がるにつれてまっすぐ進めるようになっていった。きっとそれでも、彼は目線をあげることなく50センチ前だけをじっと見ている。頬をなでる風の心地よさや、雨の日に合羽を着て漕ぐペダルの重さ、そして、道すがらに出会う人の人生を想像する日が来るのは、きっとまだ遠い話だ。私はしばらくの間、その親子の背中を見つめていた。

 信号が青になり、私は家に向かって歩き始める。高架線上に、電車が走っていく。家に帰る人々の頭が並ぶ車窓が、暗くなりかけた夜空に輝きながら過ぎ去っていく。この景色の美しさを、私は知っている。

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