編み物をする人
黒い影がすっと通り過ぎた。鳥が1羽通り過ぎていったようだ。作業机の正面にある窓からは隣の公園で遊ぶ子どもの姿がぼんやりと見下ろせる。
「表編み3目、裏編み2目、表編み3目、裏編み2目、表編み3目、裏編み2目・・・」
ぶつぶつとつぶやきながら、私は二本の針に毛糸を絡ませていく。編み物をはじめて半年。いまだに簡単なメリヤス編みやゴム編みしかできない。しかも、何かに気を取られてよそ見をしている間に目数を数え間違えて、ほどいては編みなおしてをなんども繰り返している。一つの作品を編み上げるには、想像していたよりもはるかに集中力と根気が必要だ。
編み物を始めたきっかけは、入院生活だった。同室だった老婦人がいつも何かを編んでいた。茶色の毛糸を膝に乗せ、時たま数字を呟きながら両手に持った棒針を動かしていた。
「何を作っているんですか」
ある日私は彼女に訪ねた。
「孫にあげるセーターをね。ほら、病院って、時間ばかりはあるじゃない。」
そう私に話しながら、老婦人の手は休まず動いていた。セーター、チョッキ、靴下、マフラー、あみぐるみ。編み物をする人はいつでも、自分以外の誰かのために何かを編んでいる。
話しかけたその日から毎日、老婦人は私に編み物を教えてくれた。私は起き上がれる時には決まって老婦人のベッドのわきに行って、彼女の教示を受けた。毎日少しずつ、段数が増えていき、目の大きさも均等になっていった。
退院の日には何本かの編針と教本を譲ってもらい、私は自分の作業机の脇にいつも編みかけを置くようになった。在宅の仕事が終わると、おもむろに編針に手を伸ばして昨日の続きを編み始める。
母は昔、よく編み物をしていた。私も妹も、冬になると決まって母の編んだマフラーや手袋を身に着けた。どんなブランド品よりも誇らしかった。母は仕事が終わって帰ってきた後、小さな座布団にあぐらをかいて座り、背中を丸め、時折、もつれた毛糸をほぐしたり、針の先で編み目を教えたりしながら、休まず手を動かしていた。時折立ち上がって大きく伸びをすると、ベランダに出てタバコを吸った。一本吸い終わるとまた、元の位置に戻って編み始める。私のよく覚えている母の姿だ。
今でも観光船の甲板で撮った写真が残っている。私はクリーム色のアラン模様のセーターを、隣の妹は、小さいころ着ていたセーターをほどいて編み直した手袋とマフラーを身に着けている。写ってはいないけれど、スカートの下に隠れた毛糸のパンツも母のお手製だったはずだ。たった一本の毛糸から、どうしてそんなにきれいな模様が描き出せるのか、私は不思議でならなかった。
「おかあさん、私もやりたい」
と、小さい頃は何度か挑戦してみた。母は私に「最初はこっちにしなさい」と金色のかぎ針を持たせた。ぎこちなく指を広げて待っていると、母がゆっくり毛糸を引っ掛けてくれた。
「こうして小指に一回巻き付けて、こっち側を通して、人差し指のところでまた方同転換して・・・」
母の手がするすると私の指に糸を絡めていく。結局不器用な私は、余り毛糸で鎖編みを作るのがせいぜいだった。どこまでも長く、ただ一本の鎖を、何の役にも立たないのに編み続けた。母は、「根気強い子だねえ」と言って褒めてくれた。
作業机の引き出しの中には、編みかけのセーターと毛糸が、ジップロックに入って眠っている。母が亡くなったあと、ホスピスの看護師から手渡されたものだ。すでに編みあがっている部分には、私には解読できない複雑なフェアアイルの模様が施されている。いつか、母の編みたかった模様が見えるようになるのだろうか。
窓からオレンジ色の光が差し込んできて、私は思わず目を細めた。もうすぐ日が暮れる。
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