名刺代わりの
Una
はじめの記憶
二階の寝室で、母が寝ていた。私は、1階の子供部屋で一人で遊んでいる。壁際にぬいぐるみを並べ、順番に話しかけた。
「今日の夜ご飯はなんだろうね。」
「私はチャーハンがいいな。」
「そういえば、さっきママが冷凍庫からひき肉を出しているのを見たよ。」
「そしたら、ハンバーグかも知れないね。」
「ねえ、ハンバーグって、どうしてハンバーグって名前なの?」
返事が浮かばなくて、急に我に返った。さっきからずっと自分一人で会話していることに気が付いて、寂しさがこみあげてくる。一番右に置いた大きなアザラシのぬいぐるみを持って、母のいる寝室へと向かうことにした。大きなアザラシはいつも母が使っているぬいぐるみだから、持っていったらきっと喜んでくれる。一緒に遊んでくれるだろうと思った。両手でぬいぐるみを抱えて、一段一段ゆっくりと階段を上る。ただでさえ体が小さいのに、両手がふさがってしまい、バランスを何度も崩した。やっとのことで13段の階段をのぼり、一番奥の寝室へ走る。足音に気づいた母が私に向かって声をかけた。
「ゆうな?どうしたの?」
私は両手からおちそうになったぬいぐるみをよいしょと持ち直して歩きながら、
「ママ、一緒にあそぼう。」
と、言った。
「ごめん、ママ今体調が悪いから、一人で遊んでおいで。」
「ママのアザラシ持ってきたよ。」
「ほんとに無理なの。ごめんね。」
「ママ、どうして・・・」
「無理って言ってるでしょ!わかってよ。」
いらだったような母の声に、私は驚いてドアの前で立ち止まった。涙があふれてくる。でもそれをママには気づかれたくなくて、黙って後ろを向いた。声を出したら、泣いているのがばれてしまう。
引き返して階段を降り始めた。いつもは壁に手をかけて降りていた下りの階段。自分の体の半分以上ある大きなぬいぐるみを持っていたら、足元が見えなくなってしまった。そうだ、後ろ向きになろう。そう思いついて体をひねった時、バランスを崩した。
私は階段を転がり落ちていった。一番下まで一気に落ちたけれど、幸いにも頭はぶつけていなかった。痛みよりも驚きのほうが大きかった。
私が階下にたどり着くのとほぼ同時ぐらいに、「ゆうな!」と私の名前を叫ぶ母の声がした。ドタバタとすごいスピードで駆け下りて、最後のほうは、ほとんど滑っているぐらいに慌てて駆け寄り、横たわった私を抱き起した。
「ごめんね。ごめんね。」
何度も何度も謝りながら、頭をなで、強く抱きしめてくれる母の腕の中で、私は大きな声で泣いていた。
これは私の、いちばん古い記憶。2歳になったばかりの冬のことだった。
その年の11月に、妹のはるかが生まれた。
私は、この話を一度も人にしたことがなかった。母と話したこともない。小さかったし、私の記憶違いだったかもしれない。もしかしたら、夢だったかもしれないとも思っていた。別に隠したいというわけでもなかったが、進んで話す機会もなかったので、ずっと自分の中にしまい込んでいた。
18歳の時に、母と喧嘩をして家出をした。地元の愛知から深夜バスに乗って東京へ来た。その後、一度も帰省することなく、母ともほとんど連絡を取っていなかった。次に母と顔を合わせたのは、3年後。ホスピスの病床だった。私が家を出た後に、体調を崩した母は、病院で末期のがんだと診断された。すでに全身に転移し、手のお施しようがない状態。それでも、私には知らせてこなかった。妹にも、言わないようにと口止めしていた。いよいよ危ないとなって妹から連絡がきたのは、ホスピスに入院したタイミングだった。
急いで駆け付けた私の顔を見て、母はふっと微笑んで話し始めた。
「あんたは覚えてないかもしれないけどね、はるかの妊娠が分かった頃、体がめちゃくちゃしんどくて、二階で寝てて、あんたは遊んでほしくてあたしのところに来てたんだけど」
思ってもみなかった唐突な切り出しに驚いた。
「体がえらいから一人で遊んでときつく言っちゃって、あんたは寂しげに戻って階段を下りて、そのまま落ちた。そのことが、ずっと、可哀そうなことをしたなあ、申し訳ないなあって、思い出されるんだなあ。」
「そんな昔の話、覚えてないよ。」
とっさに嘘をついた。今更後ろめたい気持ちになってほしくない。謝らなきゃいけないのは私のほうだ。でも、言葉が出てこなかった。父が交通事故で死んだ中学生1年の時から、母と私はすれ違いを続けてきた。長いことまともに話してこなかったから、うまく言葉が見つからない。母は穏やかな顔で遠くを見つめながら続けた。
「すぐに階段を駆け下りて、大丈夫だったか?って。あんたはびっくりしすぎたのか全く泣かなくて、頭を打ったんじゃないかって心配した。」
あれ、そうだったか。私の記憶では母の腕の中で大号泣していた気がするのだけど。
「その時あたしは脇を強打して、神経を打ったのか1週間ぐらい指がしびれてた。」
「うん。」
「今指がしびれて動かなくて、その時のことを何度も思い出すんだなあ。」
「そっか。」
「ゆうな、」
「うん?」
「大きくなったね。」
「・・・うん。」
「大丈夫。」
「え?」
「あんたは、そのままで大丈夫。」
「・・・」
うまく返事をできないまま、1週間後に母は息を引き取った。
私は、愛されていた。それは間違いなかった。しかし、母の人生は幸せだったのだろうか。家族みんなで笑っている記憶も確かにあったはずなのに、どうしても思い出せない。思い出せなくなるほどに、私たち家族には試練が降りかかった。父の死をきっかけにして、ガラガラと音を立てるようにして生活が崩れていった10年前。
弱みに付け込まれて間違った人を信じた。現実から逃げるためにカッターを手放せなくなった。傷つくのを恐れて部屋から出られなくなった。いつか、そのすべてに、意味があったといえるようになるのだろうか。
母の言った「大丈夫」の意味を、私は探しづけている。今はまだ、雨あられと降りかかってくる不幸を受け止めて、日記に書き残すので精一杯。ぜんぜん大丈夫ではない。東京に住んで5年が経った今もまだ、自分が何者で、どこを目指しているのかよくわからない。職業研究員、趣味はダンスと読書、半年前に希少がんが発覚し、現在闘病中。不幸の真っただ中にいるけれど、意外と落ち込んではないような気がする。決して精神が強いほうではないが、心が折れかけるたびに、大丈夫だよと抱きしめてくれる人がいる。とんでもない不幸に見舞われている代わりに、私は本当に、人に恵まれている。
大丈夫。今はダメでも、きっと大丈夫になる。
母が言ってくれたように、自分で言い聞かせているように、いつか私も誰かににそう言ってあげられるようになりたい。
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