少年とトド

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君の知ってる物語

 そのトドはおかへ上がろうとしていた。


 誓って言うが特定の体格や挙動、顔つきの人を揶揄するつもりはない。なにせそれはトドなのだ、まごうことなく。その正真正銘のトドは道路を横切って反対側まで、陸地まで行こうとしていた。そう正確に言うならそのトドは地面を目指していた。

 当時は夏の真っ最中、いくらそこが北国といってもアスファルトは熱を蓄えており動物にとっては地獄そのもの。海を生きるものにとってはなおさらということで自殺行為に他ならないその蛮行をトドは決死の意志で覚悟で成し遂げようとしていた。

 

 そう、そのトドにとって海でもアスファルトでもない地面に到達することは挑戦だった。何がそのトドをそうさせるのかは少年には分からない。分かるわけもない。

 だが、そのトドが大きな足跡を残しながらアスファルトを横切ろうとしているというそのこと自体が少年の胸にも何かを感じさせた。

 

 それからどれだけの時間が過ぎただろうか。トドがゆっくりとではあるが確実に歩みを進める一方で、少年は魅入られたようにその場から一歩も動けないでいる。

 それは年端もいかない少年が初めて何かに誰かに心奪われた瞬間だったのかもしれない。

 そして、


 アスファルトがタイヤを切りつける音が聞こえた。


 それまでが幸運、いやむしろ奇跡だったのだろう。いくら田舎とはいえ舗装された道路をこれほど車が通らないことなどそうあることではない。そこを車が通ったとして責められるはずもない。

 だが少年とトドにとってそれは全てを飲み込み全てを奪わんとする荒波に他ならなかった。


 車高の高さからその車にはトドが見えていないのであろう。少しも躊躇うことなくその存在などないかのように車はトドへと近づいていく。それはトドと車、双方にとっての災禍を予感させた。

 そしてそれが決定的になる前に少年はその止まっていた足を数時間ぶりに動かした――

 

 ――目の前にいきなり少年が現れた。

 車の主は後にそう証言する。

 急ハンドルを切ってなんとか少年を避けられたそのドライバーはそのまま車を走らせた後に警察に通報した。


 だが、少年もトドももはや去っていく車など一瞥もしない。トドの身を案じて振り返った少年はそこにこちらをじっと見つめるトドを見て、何を思うのかそのトドは足を止めて少年から目を離さない。

 おかを目指すトドとそれを目撃せんとしていた少年はいまや観察対象が逆転していた。


 ある意味ではそれがいけなかったのかもしれない。二人の世界は突如として横からかけられた声によって終わりを迎える。少年の家族が少年を迎えに来たのだ。

 警察から少年が見つかったという報告を受けた家族は一目散に少年のもとに向かい、トドと向かい合うその光景に驚きを覚えながらも少年を保護する。


 そんな家族の愛情がその時の少年にとっては絶望だった。その場で少年が一番望むこととはそのトドがおかへと到達するのを目撃する事であったのだから。

 しかし、その生誕以来最大の願いを叶えるだけの力はもはや残っておらず家族の腕に包み込まれた安堵もあって少年は意識を手離していく。それで彼は最後の力を振り絞って……こう言った。


 最後まで……キッチリ…………行け…………!!!!

「その陸まで………届け!!!!!!」


 そして少年は意識を手放した。

 後から聞くところによるとそれから少しして到着した警察はおかまで届くその痕跡は見つけられてもトドの姿は確認できなかったという。


     *


 「かつて生物学者チャールズ・ダーウィンは言った。『唯一生き残る事が出来るのは最も変わる事が出来る者だ』と。もしかしたらそのトドも少年もその体験を経て変わる事が、“進化”することが出来たのかもしれないね」

 なんでもそれから勉強を頑張ったその少年はここで研究者として働いてるらしいよ、そう言って藤堂院先輩は笑った。

 なんとも無邪気そうで何かを喜んでいるようにも懐かしんでいるようにも見える。


 だが、いまの彼にそんな風に彼女を観察する余裕などあるわけもない。むしろ今この瞬間その話を聞いた動揺こそを観察されている。

 時間が止まったその世界の中でこちらの言葉をじっと待つ彼女の目に長く長く見据えられてようやく彼は言葉を発した。


「なんで……


 誰にも……迎えに来た両親にも全てを話したことはない。かけがえのない思い出をかけがえのないままで保つために誰にもこの話をすることはなかったはずだ。この話をすることだけは絶対に避けてきたはずだ。

 そんな自分以外誰も知る筈のない物語を目の前にいる彼女が、つい先ほど出会ったばかりの彼女が語って見せた。


 その人、藤堂院桜花はその言葉を受けてもより一層笑みを深めるだけで一向に何も発言する気配がない。それは最大限にこちらの反応を楽しんでいるよう。

 そしてそれから幾ばくかの時間が過ぎた後、ついに口を開いた彼女は質問に答えることなくこう言った。


「トドオカさんって呼んでよ、少年」

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