第3話 長い夜
時雨とゆうと別れ、家に帰ると、いつも通りの静かな夜が流れていた。
私はゆっくりドアを開け、家に入る。
明かりは消えていて、静まり返っている。
そうだ、今は夜なんだ。
私は親を起こさないように、ゆっくり、ゆっくりと階段を上がり自分の部屋に行く。
ぱたん
いつも通りの自分の部屋。
少し不恰好な机の上に、本が積まれていて、
薄い桃色のカーテンから、少し月の光が漏れている。
なんだか気が抜けて、私はそのままベッドに飛び込んで眠ってしまいたい気分だった。
けれども、私はなんだか寝てはいけない気がして、ベッドに腰をかける。
ギシッと音を立ててベッドが軋む。
私はほっと息をつく。
やっぱり家は安心する。
走ったのは疲れたし、知らない男と子どもと話すのも疲れた。
いまだに信じられない。
小さい頃の私が、私を殺そうとしている。
私が助かる方法は、私が小さい私を殺すしかない、らしい。
夢であって欲しいと思った。
今、眠ったら、普通に朝が来て私は学校に言ってるんじゃないか。
私は、試しにベッドに横たわってみるが、なんだか汗臭くて眠れなかった。
まだ心臓が激しく鼓動している。
またあの子どもがくるかもしれない。
それが怖い。
そして、判断しなければいけないのが、怖い。
さらりと肩に流れる髪の上半分を取り、手につけていたヘアゴムで縛る。
ハーフアップ。
髪を結んだままベッドに横たわる。
目は閉じない。
カチカチカチ
時計が時を刻む音だけが鮮明に聞こえる。
不思議なくらい時間がすぎるのが遅く感じた。
長針と短針は3を指している。
カチ
カチ
カチ。
ピンポーン
突然沈黙を破ったインターホンの音は恐怖以外の何ものでもなかった。
絶対あの子どもだ。
小さい頃の、私だ。
私は、ベッドから立ち上がり部屋を出る。
音を立てないように階段を降りて、玄関ではなく外のベランダに出る。
ベランダの柵を越えると道路。
車も人もいない。
私は道にそって、走り出す。
足が痛い。
靴を履く余裕がなかった。
コンクリートは雨に濡れて冷たくて、さっきまで小雨だった雨はいつの間にか強くなっていた。
でも、走るしかない。
私は自分にそう言い聞かせて走る。
走って走って走る。
目的地なんてない。
一瞬あの“蚕”の看板がかけられた家も頭によぎったけれど、私は首を振る。
……分からない。あの人たちが何をしたいのかも私が、どうしたらいいのかも。
私はこのまま逃げ続けなくてはいけないのだろうか。
朝になったら、消えてくれるのだろうか。
私は、あの私を殺さなくてはいけないのだろうか。
他に方法はないのだろうか。
話し合えば案外大丈夫だったりしないだろうか。
なんとか、ならないだろうか。
私は思わず足を止める。
あ、震えてる。
足がガクガク震える。
寒さのせい?走りすぎたせい?それともこれは、恐怖?
「はっ、はは」
なぜか笑いが溢れる。
雨が、止まった私に追い討ちをかけるように強く降り注ぐ。
制服なんてとうにぐちゃぐちゃだ。もう気にならない。
サァァァ
雨が静かに私の心に落ちていく。
だんだんとシミをつくるように雨は私を湿らせていく。
私は無意識にポツリと呟いていた。
「もう、いっそこのまま……」
冷たい感覚。
私の左手に雨とは違う冷たい感覚が急に走る。
ゆっくりと手を見る。
私の手に触れていたのは、少しゴツゴツした大きな手だった。
私はその手の主を見る。
イラついたような、目つきの悪い男。少し濡れた黒髪が、少しその雰囲気を和らげていた。
「時雨、さん?」
時雨は少し気恥ずかしそうに視線を逸らす。
なんでここに、と言おうとしたが私は口を閉じる。
時雨の後ろにちらりと黒い、サロペットが見えた。
私は意味もなく息を止めた。
それに気づき、時雨が私の視線の先を見る。
「……子ども」
信号が赤に変わる。
小さい私が、横断歩道の前に立ってこちらを見ていた。
右手には、曲がったナイフが変わらず握られている。
「誰?」
雨に負けそうなほど小さな声が届く。
子どもの視線は時雨に向けられている。
時雨は睨むように目を細める。
「時雨」
「しぐれ……」
小さい私は名前を覚えるように二、三度繰り返し呟く。
「貴方は、真白海子の何?」
時雨は舌打ちをするだけ。
それでも子どもは怯むことなく質問をし続ける。
「ねぇ、なんなの?彼氏?それともただ通り過ぎた人?あ、もしかして……」
小さい私が意地悪な笑顔を浮かべる。
「貴方も、逃げてる人?」
シュッと車が横切る。
水たまりを踏み勢いよく水飛沫を飛ばす。
向こうの私が一瞬見えなくなる。
「真白海子、教えてあげる。
ここは貴方が生きる世界じゃないの。」
小さい私は、まっすぐこちらを見ていた。
「でも夢の中とは違う。現実に繋がったまた別の世界、それがここ。」
「過去も未来も現実も、入り混じる非現実な場所。
でもここは現実でもあるの、わかる?
ここで起こったことは、貴方がいる世界にも繋がってるの。」
小さい私はにこりと笑う。
「だから、ここで私は、貴方を消すことにした。大丈夫痛くはないよ、ここは現実だけど貴方が生きる現実ではないから、痛みはないの。」
「お願い、私からのお願い。これはみんなのためでもあるの。」
信号が青に変わる。
小さい私はゆっくりと横断歩道を渡り、こちらに近づいてくる。
現実だけど現実じゃない?
痛みは感じない?
じゃああのナイフの痛みは冷たさは何?
私のこの足の震えは、一体なんだというのだろうか?
私は浅い呼吸を繰り返す。
はっはっはっはっ
はっはっはっはっ
怖い。
一歩ナイフが近づく。
なんで?
わたしは、
なんでここにいるんだろう。
「ましろかいこ」
肩を強く掴まれる。
冷たい手がぎゅっと肩を掴んでいる。
私はゆっくり呼吸を整えて時雨を見る。
「……はい」
時雨は私の耳にそっと耳を近づけた。
「今すぐ後ろを向いてあの家まで走れ。」
私は時雨を見る。
時雨は舌打ちをして目で行けと合図する。
私は言われるがまま走り出す。
「真白海子!」
小さな私が私を呼び止める声が聞こえたが、私は気にせず一心不乱に走る。
足が痛い。
冷たい。
私は確かに生きているのだと少し安心する。
記憶を頼りに“蚕”の看板があるあの家を目指す。
きっと、最初からこうしていれば良かったのだ。
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可愛らしいピンク色の外装の家が見えた。
扉には“蚕”の文字。
私は無我夢中で扉を開けた。
家の中に入り扉を閉める。
それで一気に力が抜けたようにその場でしゃがみ込む。
「………疲れた」
心からの言葉だった。
顔を上げて家の中を見渡してみる。
ピンク色の壁紙に、可愛らしいアンティーク調のテーブルやイスが部屋の真ん中に置かれており、机には皿の上に置かれたマカロンやらクッキーが乗っている。
……場所、間違えた?
私は慌てて家を出ようとする。
「おかえり、おねぇさん」
振り返ると、ピンク色の少しくるりとした髪型の小さな子ども。
私は顔を見て名前を思い出す。
「ゆう、くん?」
子どもは満足そうに頷く。
「どう?少し家を模様替えしたんだけど」
「少しどころじゃない気がするけど」
「不思議な家なんだよ、だから気に入らないならすぐに前の部屋に戻すこともできるよ?」
あの鼠色の暗い部屋を思い出す。
私は今のままでいいと答える。
「だよね」
ゆうは、私の手を引きアンティーク調のイスに座らせる。
こんな汚い格好で座ってもいいものかと思ったけれど、疲れていたので一度座ったらもう立てなかった。
ゆうが私と向かい合うように座る。
「甘いものは好き?」
「まぁそれなりには」
ゆうは私の答えを聞くとマカロンやクッキーが乗った皿を私の方に寄せる。
「暖かい紅茶もどうぞ」
「あ、ありがとう」
私はティーカップに入った紅茶に口をつける。
体に温かさが染み込む。
冷たい体がほぐれていく感覚。
カタッとティーカップを机に置く。
おそらくゆうは私が来ることを時雨から聞いていたのだろう。
もしかしてゆうと時雨はこうなることが分かっていたのだろうか。
ゆうは私の様子を見て、話を切り出す。
「とりあえず、無事みたいだね。時間が経てばあいつも戻ってくると思うから大丈夫だよ」
「助けてくれてありがとう」
私は深く頭を下げる。
「いやいやさっきは僕も少し急ぎすぎて説明が足らなかった。まずはお姉さんにいろいろ説明しないとね」
ゆうはクッキーを一つ手に取り、私の口に入れる。
噛むとクッキー生地がチョコチップと一緒に口の中で溶ける。
甘い。
ゆうも一つクッキーを取り自分の口に入れる。
「まず、この世界は現実じゃない。でも現実に深い繋がりを持っているんだ。」
さっき、小さい私がそんなことを言っていた。
私の反応を見ながら、ゆうは話を続ける。
「お姉さんは、目が覚めたら急に知らない場所だった人?」
私は首を振る。
「私は目が覚めたら学校にいた」
ゆうが目を細める。
「ふーん、こんな夜に?……まぁ、今はいいや。僕とあいつは目が覚めたらここにいたんだけど、全く知らない場所なんだよね。」
「でぇ、頭に流れてきたんだよね声が。
“消したい自分は、ありますか?”って」
ゆうはにやりと悪戯っぽく笑う。
「手を見ると気づいたら、ナイフが握られてた。お姉さんも見たでしょ、あの曲がった歪なナイフ。刺しても痛みは無いけど、確かに死の気配がする不思議なナイフ。あのナイフに刺されたら確実に死ぬ。
ここでの死は現実の死につながるって、声が言ってた。」
「………声って何?」
私は首を傾げる。私は目覚めたら急に、あの小さな私が現れて私を殺そうとしてきたから逃げた。その時時雨が私の前に現れここに連れてかれてまた家に帰ったら小さな私に狙われて、またここに。
この間に一度も私はゆうが言う“声”を聞いたことがない。
ゆうは分かっている、と頷く。
「君はこの不思議な世界の、ゲームでいう“バグ”のような存在なんだよ」
ゆうはまたクッキーを一つ口に入れ、噛み砕いた。
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