30年と0日


9月21日、朝の光がカーテンの隙間から差し込み、藤原亮太はゆっくりと目を覚ました。昨夜の静かな夜の余韻を引きずりながら、体を起こす。30歳になった最初の朝。頭ではわかっていても、特に何かが変わったわけではない。しかし、ベッドから見える見慣れた天井の色が、ほんの少しだけ違って見えるのは気のせいだろうか。


スーツに着替え、いつもの時間に家を出る。駅までの道は変わらず人で溢れているが、今日は少しだけ足取りが軽かった。昨日までの自分と今日からの自分。その境目がどこにあるのかはわからないが、新しい何かが始まるような気がしていた。


亮太は通勤電車の中で、自分の手帳を取り出して眺める。真っ白なページが広がり、何も書き込まれていない空白が、これからの時間を象徴しているように見えた。いつもなら仕事の予定やタスクがびっしりと詰まっているはずなのに、今日は何もない。自分で意識して空けておいたのだ。


会社に着き、デスクに座ると、同僚の佐々木が顔を覗かせてきた。「誕生日だろ?おめでとう」と笑顔で言われ、亮太は少し照れたように「ありがとう」と返した。特別なことは何もないはずなのに、誰かに祝われるとやはり嬉しいものだ。佐々木は続けて、「昼飯でも奢ってやるよ」と言い、亮太は頷いた。


午前中の仕事をこなしながら、亮太は時折、30歳という言葉を頭の中で繰り返していた。やりたいことや夢は、もう少し先送りにしてもいいと思っていた20代と違い、30代はどこか「本気で生きなければならない」感覚があった。自分の決断がこれまで以上に重く感じられ、すべてが未来に繋がっていく気がした。


昼休み、佐々木と入った近くの定食屋で、亮太はどこか懐かしい味のする唐揚げ定食を頼んだ。唐揚げを一口食べながら、佐々木が話し出す。「俺が30歳になったときはさ、なんか急に焦りが出たんだよな。もっとしっかりしなきゃって思ってさ。でも、そんなに急に変わるわけじゃないし、焦ることないって気づくまで結構かかった」


亮太はその言葉に少し安堵した。変わらなければならないというプレッシャーが、どこか自分を縛りつけているような気がしていたからだ。自分もこれからゆっくり変わっていけばいいのだろうか。亮太は心の中で問いかける。


午後の仕事を終え、亮太は再び駅に向かった。今日は早く帰ろうと決めていたのに、ふと足が止まる。駅前にある古びた喫茶店が目に留まったのだ。前から気になっていた店で、一度も入ったことがない。亮太は躊躇しながらも、少しの好奇心に背中を押され、ドアを開けた。


店内は木の温もりが感じられる静かな空間で、どこか懐かしさを漂わせている。カウンター席に座り、紅茶を頼んだ。マスターが静かに茶葉を計り、お湯の温度を確認しながら丁寧に淹れる姿は、まるで時間がゆっくりと流れているようだった。


紅茶が目の前に置かれ、甘く芳しい香りが漂う。亮太は一口飲み、ほっとため息をついた。深いコクとほのかな甘みが口の中に広がり、これまで飲んできたどの紅茶とも違う深みを感じた。


「30歳になったんです」と、亮太は思わず口に出していた。驚いたマスターが目を細めて微笑む。「おめでとうございます。30代の最初の一杯ですね」


その言葉が妙に胸に響いた。これが30代の始まりの味だと思うと、何でもないはずの紅茶が特別に思えてくる。20代最後の日に何かを終えた自分と、30代最初の日に新しい一歩を踏み出した自分。その違いはわずか一日でも、大きな変化が心の中にあった。


喫茶店を出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。家路につく途中、亮太は何となく足を止めて空を見上げた。どこかで見たような空だったが、何かが違う。それは自分が変わったからかもしれないし、世界が変わったからかもしれない。


30代はどんな日々が待っているのか、まだわからない。でも、亮太は今なら少しずつでも前に進んでいける気がしていた。これからも、こうして自分なりに一歩ずつ歩んでいけばいいのだと。


亮太は家に着くと、部屋の中に漂う静けさに耳を澄ませた。明日はまた、普通の日常が続いていく。それでも、その一つ一つが積み重なって新しい自分になっていくのだと思うと、少し楽しみでもあった。


「ただいま、30代の俺」


亮太はそう言って、リビングの電気をつけた。これから始まる新しい日々に向けて、心の中で小さく決意を固めた。30代最初の日、亮太は静かに笑い、また一歩踏み出す準備を始めた。

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