29年と365日
9月20日、夕暮れの街は秋の風が吹き始めていた。会社のビルを出た藤原亮太は、足早に駅へと向かう。特に寄り道するつもりはなく、今日は真っ直ぐ家に帰る予定だった。20代最後の日。明日は彼の30歳の誕生日だ。
駅までの道中、見慣れた風景が少し違って見えるのは、気のせいだろうか。大通りを行き交う人々、信号待ちをする車の列、ビルの窓に反射する夕焼けの光。どれも何度も見たはずなのに、どこか懐かしさを感じる。そんな感覚が、亮太の心をふと締めつけた。
電車に揺られながら、窓の外をぼんやりと眺める。ふと目に入ったビルの看板に、大学時代の友人との思い出が蘇る。居酒屋で遅くまで語り合い、終電を逃して笑いあった夜。あの頃は、30歳なんてずっと先のことのように思っていた。何でもできる気がしていたし、未来には無限の可能性が広がっていると思っていた。
けれど、現実は違った。社会人になり、日々の仕事に追われるうちに、夢はいつしか現実的な目標に変わり、それさえも手放すようになっていった。振り返れば、あの時の自分が想像していた30歳とはかけ離れた場所に立っている。成し遂げたこともあるけれど、叶わなかったことの方が多い気がして、自然とため息が漏れた。
電車を降り、最寄り駅から自宅までの道を歩く。冷たい風が頬を撫で、少し季節の変わり目を感じさせる。今日という日を、特別に感じることができずにいる自分がどこか寂しかった。いつもと同じ道、同じコンビニ、同じマンション。変わらない日常に、少しだけ違和感を抱えたまま亮太は家のドアを開けた。
部屋の中は静かだった。薄暗いリビングには、朝のままの姿で放置されたカバンと散らかった書類。何度も片付けようと思いながら、時間に追われて手をつけられずにいた。亮太は靴を脱ぎ、スーツのジャケットをソファに投げ出すと、冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを開けた。
「20代最後の夜か…」
亮太は缶ビールを片手に窓際に立ち、夜の街を見下ろした。遠くに見えるビルの明かり、走り抜ける車のライト、どれもが自分と無関係に過ぎていくように思えた。仕事の忙しさにかまけて、自分のことを後回しにしてきた日々。友人たちのSNSには、結婚や子育て、キャリアの成功が並んでいて、自分だけが取り残されているような気がすることもあった。
それでも、亮太は自分なりに頑張ってきたのだ。昇進試験に挑んで落ちたこと、好きだった人に告白できなかったこと、転職を考えて悩んだ夜。それらの全てが、自分の20代を形作っている。完璧ではなかったけれど、間違いなく自分自身の時間だった。
「30代になったら、どうなるんだろうな…」
亮太はビールを一口飲み、苦笑した。新しいことに挑戦する勇気は、もうないのかもしれない。でも、少しずつでもいいから、これからの自分をもっと大切にしていこうと思った。小さな一歩でも、踏み出すことが大事なのだと、ようやく気づけた気がする。
時計の針は、少しずつ深夜に近づいていく。亮太は残りのビールを飲み干し、空の缶をテーブルに置いた。明日はまた、いつもと同じ一日が始まるだろう。でも、その一日が30代の最初の日になるのだ。そう考えると、不思議とわくわくしてくる。
「おやすみ、20代の俺。そして、よろしくな」
そう呟いて、亮太は静かに部屋の明かりを消した。真っ暗な部屋の中、ただ外の街灯の光だけが淡く差し込んでいた。それでも、亮太は新しい自分に少し期待を抱きながら、眠りについた。
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