静寂とリビング



自宅のリビングに差し込む朝の光が、静かに揺れるカーテンの隙間から床に伸びていた。木目のフローリングには、微かな影が踊る。窓の外には、静かな街の風景が広がっているが、今はそれを気に留めることもなく、私はリビングのソファに座っていた。


「ねえ、どう思う?」と、隣に座る彼が言った。


私は軽く肩をすくめ、机に置かれたコーヒーのカップを見つめた。コーヒーの蒸気がほんのりと上がり、部屋の空気を温めている。


「うーん、何のこと?」

私は少し考えてから答える。


彼は一瞬だけ人差し指を額に当て、困ったような顔をした後、微笑んだ。

「ほら、あの新しい映画のこと。昨日話したじゃないか。」


「ああ、そうだったね。」私はようやく思い出した。

「確か、サスペンス映画だったよね?」


彼は笑いながら頷く。

「そうそう。でも、君があんまり興味なさそうだったから、どうかなと思って」


「いや、そんなことないよ。ただ、最近はあんまり映画を見る気分じゃなくてさ」

私はカップを手に取り、熱いコーヒーを少しだけ口に含んだ。


リビングの空気は心地よく、落ち着いた。窓から見える青空と、外を行き交う車の音が、日常の静けさを感じさせてくれる。


「じゃあ、今日何をする?」と彼が再び尋ねる。


私は少し考えた後、肩をすくめた。

「特に何も決めてないけど、どこか出かけてもいいし、家でのんびりしてもいいかなって。」


彼はまた人差し指を口元に当て、考える仕草をした。

「どうせなら、今日は外に出てみようか。久しぶりに散歩でもしよう」


「いいね、それも悪くないかも」私は笑って答えた。


そうして二人で散歩に出かけることに決めたのだが、なぜか私は少し不安な気持ちを抱えていた。何か、言葉にできない違和感が心の片隅に漂っていた。それでも、彼の提案に乗って、少しでも気分を変えようとする自分がいた。


***


リビングに戻ったのは、夕方近くだった。外で過ごした時間は短かったが、久しぶりに街の風景を楽しむことができた。少し疲れた体をソファに沈め、彼と並んで座った。


「今日は楽しかったね」彼が笑顔で言った。


私は頷きながら、彼の横顔を見つめた。その瞬間、またあの不安が胸をよぎった。

何かが違う。

何かが足りない。

何か重要なものが、私たちの間から消えかけているような気がしてならなかった。


「ねえ、今日のこと、全部覚えてる?」と私は尋ねた。


彼は驚いたように私を見た後、笑って言った。

「もちろん、覚えてるけど......。どうして?」


私は曖昧に笑い返しながら答えた。

「なんというか......何か変な感じがするの」


「変な感じ?」彼は首を傾げた。「どういうこと?」


「うまく説明できないんだけど、何かが違う気がして。それが何なのか、まだ分からないけど…...」

私は言葉を探しながら、彼の反応をうかがった。


「少し疲れてるのかもね」

彼は優しく微笑んで、私の手を取り、人差し指で軽く撫でた。その触れ方が、どこか懐かしいようで、同時に遠いもののように感じた。


「そうだね…そうかもしれない」

私はその言葉に納得しようとしたが、心の中のモヤモヤは消えなかった。


***


数日後、また私たちはリビングで過ごしていた。外出することもなく、静かにソファで映画を見ていたが、あれから私の心はどこか落ち着かず、何かを探し続けていた。


「ねえ、あの日のこと、まだ覚えてる?」私は再び尋ねた。


彼は少し戸惑った表情を浮かべた。

「あの日?」

「そう、あの散歩の日。何かおかしな感じがしない?」


彼はしばらく考えた後、笑って言った。

「いや、特におかしいことはなかったと思うけど。」


私はその答えに少し苛立ちを感じたが、それを押し殺し、もう一度聞いた。

「本当に?」


彼は私の目を真っ直ぐに見つめ、真剣な表情で答えた。

「本当に。君が何を感じているのかは分からないけど、僕は何もおかしく感じなかったよ」


その言葉に安心するべきだったのだろう。しかし、私の中ではむしろ疑念が深まっていった。彼の言葉が真実であるなら、私の感じている違和感は一体何なのか。それが分からないことが、私をさらに不安にさせた。


そして、ふと気づいてしまった。リビングの時計が止まっていることに。しかし、時間が止まっているのは時計だけではなかった。

彼との会話も、彼の存在も、すべてがどこか虚構のように感じられたのだ。

虚構。つくりもの。

だとしたら。目の前にいる、彼は。


「ねえ…」私は声を震わせながら言った。「あなた、誰なの?」


彼は一瞬だけ驚いたように見えたが、すぐに穏やかに笑った。その笑顔が、まるで偽物のように見えた。「僕は君の隣にいるよ、ずっと」


その言葉が、私の中にある真実を確信させた。このリビングにいる彼は、もう本当の彼ではないのだと。

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