踊る指輪

ある日、夏の終わりを感じさせる風が街を包み込む頃、私は久しぶりに母と一緒にデパートに足を運んだ。子供の頃から、このデパートには特別な思い出が詰まっている。母と手を繋ぎながら、よく遊びに行ったのを思い出す。


古びたエスカレーターの音が、懐かしさを一層引き立てる。デパートの匂いも、変わっていない。古い革のソファや、ショーウィンドウに飾られた最新の洋服が光を浴びている光景に、私はどこか過去と現在が交差する感覚を覚えた。母は、少し気まずそうに辺りを見回していたが、それでも私たちは何かを探していた。


「あの頃、よくここでお茶をしたわね」と母が懐かしそうに言った。


「うん、覚えてるよ。あのピアノの音が響くカフェでしょ?」


「そう、それ。ピアノの演奏がいつも流れてた。今はどうかしらね」


そんな話をしながら、私たちはエスカレーターを降りていく。かつては人で溢れかえっていたこのデパートも、今では人通りが少なく、店舗のいくつかは閉店していた。それでも、残された店の一つ一つが、過去の記憶を守るかのように輝いていた。


目的は、母がかつて父からもらった指輪を修理することだった。その指輪は、母の大切な宝物で、父が亡くなった後も、ずっと肌身離さず持っていたものだ。しかし、最近になって宝石が外れてしまったらしく、修理に出すことを決めたのだという。


「本当に、昔ながらのお店がまだあるのかしら」と母が心配そうに呟く。


確かに、昔から通っていた宝石店がまだこのデパートに残っているかはわからなかった。時間の経過とともに、街もデパートも少しずつ変わってしまったのだから。


私たちはデパートの一角にある古びた宝石店の前に立ち止まった。幸運なことに、その店はまだ営業していた。ガラス越しに、指輪やネックレスが並べられたショーケースが輝いているのが見えた。小さなベルを鳴らして店に入ると、懐かしい笑顔の老店主が私たちを出迎えてくれた。


「お久しぶりですね」と店主が穏やかな声で言った。


「覚えていてくださったんですね」と母が微笑んだ。


「もちろんですとも。奥様には、いつもお世話になっておりましたから」


母は少し照れくさそうに笑いながら、指輪を取り出した。店主は老眼鏡をかけて、それを慎重に調べた。


「これなら修理は可能です。少しお時間をいただきますが、しっかりと直して差し上げますよ」と店主は自信たっぷりに言った。


「ありがとうございます。これ、主人との思い出の品なので…」母の声には感情がこもっていた。


指輪を預けた後、私たちは少しデパート内を歩くことにした。昔よく通った店を見て回り、変わらない風景と、少しずつ移り変わった景色を楽しんだ。何度か通った洋服店も、私が子供の頃よく遊んだ玩具売り場も、すべてが懐かしい。私たちは時間の流れを忘れるように、デパートの中を散策していた。


そして、ふと、母が昔のことを思い出したように語り始めた。


「あの頃、あなたと一緒に踊ったことがあったわね」


「踊った?そんなことあったっけ?」


「ええ。クリスマスの時期よ。デパートの中で、あなたが突然『踊りたい!』って言い出してね」


「そんなこと、全然覚えてないよ」


「でも、本当に楽しそうだったのよ。周りの人たちも一緒に笑ってくれて、みんなで踊ったの。まるで映画のワンシーンみたいに」


私は記憶の底を探ってみたが、その時のことはどうしても思い出せなかった。しかし、母の話す様子を見ていると、その瞬間がいかに特別だったのかが伝わってきた。


「私たちの踊りが終わる頃には、デパート全体が少しだけ違って見えたのよ。それまでただの買い物の場所だったのが、突然夢の世界に変わったような感じで…」


「不思議だね。でも、そういう瞬間って忘れがちなんだよね」


「そうね。でも、忘れてしまったことも、また特別な思い出になるのかもしれないわ」


そう話しながら、私たちは再びエスカレーターに乗り込んだ。デパートの最上階には、まだあのカフェが残っていた。窓際の席に座り、二人でコーヒーを飲んでいると、店内にかすかにピアノの音が流れてきた。母がその音に耳を傾け、微笑んでいる。


「この音楽、懐かしいわね」


「うん。今でも変わらないね」


ピアノの音色は、私たちの思い出をゆっくりと引き出してくれるようだった。その音に包まれながら、私は母との過去を改めて感じ、そしてこれからも大切にしていこうと思った。


その後、指輪の修理が終わり、母は再びその指輪を指に嵌めた。宝石が輝き、まるで時間が逆戻りしたかのように見えた。


「これでまた、あなたのお父さんと一緒にいられるわ」と母は静かに呟いた。


私はその言葉に返す言葉を見つけられなかったが、ただ静かにうなずいた。そして、私たちは再びエスカレーターに乗り、デパートを後にした。出口に向かう途中、母がふと私に言った。


「次は、いつまた踊る?」


その言葉に驚いたが、母は楽しそうに笑っていた。私もつられて笑い返した。


「そうだね。いつかまた、踊ろうよ」

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