箱に宿る怒り

その箱は、ただの装飾品ではなかった。


「これ、どう思う?」


麻衣がそう言って、古びた木箱を私の前に置いたのは、少し湿り気を帯びた夕暮れ時のことだった。私たちが住む町の商店街にある古道具屋で見つけたというその箱は、幅20センチほどの正方形で、暗い色合いにかすかな漆が施されている。何より目を引いたのは、箱全体に描かれた複雑な模様だった。幾何学的な線が絡み合い、まるでそれが生き物のように脈打っているかのように感じた。


「不思議な箱だね。でも…なんか気味が悪いな」


私は正直な感想を口にした。麻衣がよく古道具屋巡りをしているのは知っていたが、こんな不気味なものを持ってきたのは初めてだ。


「うん、私もそんな気がするんだ。でも、なんだか気になっちゃって…捨てようと思ったけど、あんたなら何か分かるかもって思ってさ」


麻衣は微笑んだが、その目には明らかに不安の色が浮かんでいた。私は箱を手に取り、表面を指でなぞってみる。木の感触は予想より冷たく、指先に伝わるざらつきが心地悪い。


「誰かの持ち物だったのかな…開けてみてもいい?」


「もちろん。でも気を付けて」


私は蓋に手をかけた。驚くほど軽く、それでいて音もなく滑らかに開いた。中には一枚の布が丁寧に折りたたまれて入っていた。薄暗い室内で、その布はまるで光を吸い込むように深い黒色を放っていた。


「…なんだろう、これ?」


「着物かな?」


麻衣が私の隣に近寄り、箱の中を覗き込む。その瞬間、ひやりとした風が室内に吹き込んだ。窓は閉まっているはずだが、背筋に寒気が走る。


「ねえ、麻衣。ちょっと変なこと言うけど、この布…何か、怒ってるみたい」


自分でも何を言っているのか分からなかったが、口からその言葉が自然とこぼれた。麻衣もまた顔を曇らせた。


「私も、そう思ってた…この箱を見つけてから、ずっと何かが見張ってるような感じがしてたんだ」


その夜、麻衣は泊まっていくことにした。箱の存在が二人の間に不安な影を落としていたが、何とか気を紛らわせようと、お酒を少しだけ飲み、昔の思い出話をすることで一時の安らぎを得た。


だが、深夜になって、事件は起こった。


真夜中、突然の重苦しい気配に目が覚めた。部屋の中は妙に冷えていて、暗闇の中、何かが動いた気配を感じた。私はゆっくりと視線を向ける。そこにいたのは、麻衣ではなかった。


黒い影のようなものが、箱のそばにじっと立っている。人の姿をしているが、その顔は見えない。いや、顔そのものがないのだ。ただ、怒りだけが形となって、そこに立っている。


私は動けなかった。冷たい汗が背中を伝い、心臓が激しく鼓動を打った。やがてその影はゆっくりと箱に手を伸ばし、布を引き出した。すると、影は消えたが、布は宙に浮かび、私に向かって襲いかかってきた。


「やめて…!」


声を振り絞ったが、その瞬間、布が顔に巻きついた。息ができない。布は冷たく、まるで生き物のように動き、私の首を締めつける。何とか布を引き剥がそうとしたが、力が入らない。視界がだんだんと暗くなり、意識が遠のいていく…


次に目を覚ましたとき、私は自分のベッドに横たわっていた。外はすでに明るくなっていて、部屋は静まり返っていた。昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、判断がつかない。


しかし、箱はまだそこにあった。中にはもう布は入っていなかった。


麻衣は姿を消していた。何度呼んでも返事はなく、電話も繋がらない。私は震えながら警察に連絡したが、彼女の行方は分からなかった。


数日後、私は再び箱を調べるため、古道具屋を訪れた。しかし、店主はその箱について何も覚えていなかった。いや、そんなものは売っていないと言い張るのだ。


「あの箱に、何が…」


私はもう一度箱を開けようと手を伸ばしたが、その時、箱が急に重くなり、どうしても開かなくなった。箱に触れた瞬間、またあの冷たい怒りが蘇った。箱の中にはまだ何かが残っている——怒りの記憶が。


その箱が再び開かれる時、麻衣の行方はわかるかもしれない。しかし、私はその箱を開くことができなかった。


箱は今、私の部屋の奥深くに封じられている。誰にも手を触れさせないように。そして、決して開けないようにと自らに誓って。

今でも、夜になると、箱の中から微かな囁き声が聞こえてくる。

私はその声を無視し続けているが、いつまでそれができるかは分からない。





「開けて」

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