レトロニムの時計

東京のとある骨董品店。静かな佇まいの中に、古びた時計が幾つも並んでいる。その中でも一際目を引くのが、ガラスのケースに収められた銀色の懐中時計だった。ケースの前に立つと、まるで時が止まったかのような静寂が包み込む。店の奥で品出しをしていた店主が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。


「それは不思議な時計でね」


声をかけてきたのは、白髪混じりの中年の男。無精ひげを生やし、顔にはどこか哀愁を帯びた表情が浮かんでいる。彼は時計を指差しながら、微笑んだ。


「電池が切れた時計なんですよ」


「電池…?」


私は疑問を感じながらも、時計を眺めた。確かに、その古びた外見からはとても電池式だとは思えない。どう考えても、手巻き式かゼンマイ式の懐中時計に見える。だが、店主は続けた。


「そう、電池です。かつてはこのタイプの時計を区別するために、『レトロニム』と呼ばれていました。電池式でありながら、ゼンマイ式のようなデザインを残している珍しい品なんですよ」


レトロニム。私はその言葉を聞いて、少し考え込んだ。それは、時代の変化に伴って、新しい技術やアイテムが登場することで、古いものに新たな名前がつけられる現象だ。まさに、ゼンマイ式が当たり前だった時代に、電池式の時計が現れたことで、ゼンマイ式の名前を区別する必要が生まれたのだろう。


「動かないんですか?」


「そうです。電池が切れてしまっているんです。でも、この時計が動かなくなったのには、もう一つ理由がありましてね」


店主は少し間を置いた後、低い声で続けた。


「この時計が、最後に動いていたのは、ある失踪事件のあった日なんです」


「失踪事件?」


興味をそそられた私は、自然と店主の話に耳を傾けた。


「そう。ここからそう遠くない場所で、五年前のことです。その事件の日、この時計は確かに動いていた。しかし、その日の夜、持ち主が忽然と姿を消したんです。そして翌朝、この時計は止まっていた」


店主の目は鋭く、どこか恐ろしい真実を告げるかのようだった。彼の言葉に、私は背筋が凍るのを感じた。


「その失踪した人が持ち主だったんですか?」


「ええ。とても裕福な商人でした。彼はこの時計を大切にしていて、常に身に着けていたんです。けれど、その日を境に姿を消し、二度と戻ってきませんでした。残されたのは、この止まった時計だけです」


私は時計をじっと見つめた。小さな文字盤は静まり返り、針はぴたりと止まっている。電池が切れているだけなら、ただ交換すれば動き出すはずだ。だが、店主の話すその事件の背景に、不気味な何かを感じた。


「…もし、電池を替えたら、また動くんでしょうか?」


「ええ、もちろん。電池を替えれば動きます。でも…動かしてしまったらどうなるか、わからないんですよ」


店主は謎めいた笑みを浮かべながら、私をじっと見つめた。


「この時計を動かすことが、何かを引き起こすかもしれないということですか?」


「その可能性は否定できませんね。あの商人が消えた原因は、いまだにわかっていないんです。ただ、何かしらのタイムリミットがあったのかもしれない。そして、この時計がそのカウントダウンの象徴だったのかも」


私は背筋に冷たいものを感じながらも、興味はますます深まった。店主が示唆するように、この時計にはただの古びた骨董品以上の何かが隠されているのではないか。


「もし、この時計を買ったら、私はどうなるんでしょうか?」


「それは…あなた次第です。ただ、動かすなら覚悟は必要でしょう」


店主の声は低く、重々しいものだったが、その裏に挑発的な響きも感じられた。まるで、私に決断を促しているかのように。


私は財布を取り出し、その時計を買う決意をした。何かに引き寄せられるように、私はその懐中時計を手に入れた。そして、その日の夜、家に帰ると、私は真っ先に電池を入れ替えた。




電池を交換すると、カチカチという音が小さく響き始めた。懐中時計は、再び時を刻み始めたのだ。私はその音に、どこか安心感を覚えた。だが、同時に、妙な不安が胸の奥に生まれた。


時計が動き出してから数分後、部屋の窓からふと人影が見えた。外は真っ暗で、人が通るには遅すぎる時間だ。私はその影が気になり、窓をそっと開けて外を見たが、そこには何もなかった。ただの見間違いかもしれない。だが、胸のざわつきは消えない。


それから数日、私はその懐中時計を常に持ち歩いた。時計は止まることなく、規則的に時を刻み続けた。だが、次第に奇妙な出来事が起こり始めた。


最初に気づいたのは、部屋の時計が狂い始めたことだった。デジタル時計も、壁掛けのアナログ時計も、いずれも数分ずつ遅れたり進んだりするようになった。最初は気のせいかと思ったが、明らかに家の中の時間感覚が崩れていくのを感じた。


さらに、街を歩いていると、どこからともなく視線を感じるようになった。誰もいないはずの道で、背後からじっと見つめられている感覚が離れない。私は振り返るが、誰もいない。それでも、その不気味な気配は消えなかった。


そして、ある夜、夢の中で見知らぬ男が現れた。彼は古びたスーツを着ており、手にはあの懐中時計を持っていた。男は私に近づき、静かにこう言った。


「タイムリミットは近い」


私はその言葉にハッとして目を覚ました。時計を見ると、午前2時過ぎ。懐中時計はなおも規則正しく動いている。だが、その言葉が頭から離れなかった。「タイムリミット」とは何を意味するのか?そして、なぜ私はそれを感じているのか?


その日から、私は何かに追われているような感覚に囚われた。時計を動かしてしまったことで、何かが迫っているような、漠然とした恐怖が増していく。そして、ついにその日が訪れた。




それは、懐中時計を動かしてからちょうど一週間後のことだった。私は深夜に目を覚まし、強烈な視線を感じていた。部屋の中は静まり返り、時計の音だけが響いている。だが、その視線は確かに私に注がれている。


私は恐る恐る懐中時計を取り出し、文字盤を見つめた。時刻はちょうど午前3時。時計はなおも動いているが、次第に針の動きが鈍くなっているのがわかった。そして、まるでその瞬間を待っていたかのように、部屋の中に低い声が響いた。


「タイムリミットだ」


私は凍りついた。声の主は、夢の中で現れたあの男だった。彼は再び現れ、私に向かって歩み寄る。そして、私の手から懐中時計を取り上げ、静かに言った。


「君の時間はここで終わる」


その瞬間、私は意識を失い、闇に包まれた。




目を覚ますと、私は見知らぬ場所にいた。そこは薄暗い部屋で、古びた時計が幾つも並んでいる。そして、私の手にはあの懐中時計が握られていた。針はもう動いておらず、再び止まっている。


「ここは…」


私は呆然としながら、周囲を見渡した。そこには、あの店主が立っていた。


「ようこそ、終わりなき時間へ」


彼の言葉が、私の運命を告げるように響いた。時計を動かしたことで、私はこの場所に囚われてしまったのだ。


そして、私はその事実を悟った。時計の針が再び動く時、誰かがこの場所に来る。私と同じように、時計に魅了され、時に囚われた者が。そしてそれまで、私はその者を待つ店主となるのだ。


タイムリミットは、終わりのない輪廻の中にあった。

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