第15話 未来の輝きに魅せられて ④


足元にあるヘドロが、ブクブクと泡立った。


『何!?』

そう思った時には、水湖から躍り出てきた魔物の右手が、僕の襟首を掴んでいた。

ヘドロの海に引きずり込まれる前に、僕は岩場の岩にかろうじて捕まることができた。

丈夫な学生服のボタンが飛び散り、バリバリと破れた。

魔物はヘドロの水湖に沈む前に、僕のズボンを掴んでいた。

岩を掴んでいたが、とても抵抗ができるものではなかった。

このままでは、ヘドロの水湖に引きずり込まれてしまう。

僕は岩につかまりながら、なんとかベルトのバックルを緩めた。

腰にかかった抵抗がなくなったズボンを掴んだままで、魔物はヘドロの水湖に沈んでいった。

パンツもズボンと一緒に引きずり込まれていた。


ヘドロに隠れた魔物が、再び姿を現した時、僕は一切反応することすら出来ずにヘドロの水湖に叩き込まれていた。

この匂いにはすでに慣れていたはずだが、溺れながら呑み込んだヘドロが僕に吐き気をもよおさせる。

浮き上がって息を吸い込むと同時に、空気がまじりあった味と香りを、僕の鼻腔に伝えてきた。


「オエーッ」

息を吐き終わったあたりで僕の身体がヘドロに沈み、再度口いっぱいにヘドロを含み、噛みしめる。

もがきながら浮上して、息を吸ってまたこみ上げ、更に溺れていく。


『苦しい・・・。』

『苦しい!苦しい・・・ッ。』


『死ぬ・・・』

そう思った時に、ヘドロの水湖に沈んでいくにも関わらず、僕の耳に声が聞こえた。

いや、その声は女神のように僕の頭の中に直接響き、語りかけてきていた。

まだ幼かった頃に聞いたことがある、女の子の声の様な気がした。


『やっぱりクサイの?キタナイの?』

『私は、バイキン?』


間違いなく聞いたことがあった。

溺れ沈んでいく僕の眼の前で、ヘドロの魔物の二つの目が開いた。


この目と、この声ですべてが繋がった。



「あっ!〇〇さん!」

僕は、その目の下にあるだろう、〇〇さんの身体を引き寄せると、ヘドロの水面へ向けて全力で泳いだ。

自分の苦しさの為ではなく、彼女をこの汚れたヘドロの海から連れ出すために、息継ぎが出来ずにヘドロを飲んだが、苦しさよりも彼女を助けたかった。


ヘドロの中では、推進力を得るための足はゆっくりとしか動かなかったが、なんとか彼女を水面に引きずり出し、大きく息を吸い込んだ。

このヘドロを大量に飲んでいることもあり、すでに匂いは麻痺していた。

僕は自分の息を整える事もなく、彼女の身体に長年をかけて厚くへばりついた汚物を手で、腕で、体のすべてを使って拭い、こそぎ落としていく。


「私、キタナイよ・・・。」

薄く口を開いてつぶやく彼女の口の中にも、汚物が隙間なくこびりついていた。

僕は、彼女の口の中のヘドロを吸い出すために、必死で彼女の唇を引き寄せて、その口を、汚れてしまった舌を吸い、口唇と歯茎の間に僕の舌を差し込んでいく。

彼女の顔についた汚物を拭い、彼女の汚れて太くなった髪の毛を指で梳かしていく。


『〇〇さんは、こんなにも、』

『こんなにも苦しい思いをしていたのだ。』

こんなになるまで、一人で我慢を続けてきた彼女が愛おしかった。

早く陸に上がって、彼女の全身を拭き上げ清めてあげたかった。

僕の手を振り払うように、彼女はこのヘドロの中に潜っていこうとしていた。


僕は再び彼女の汚物にまみれたヌルリと滑る身体を、力強く引き寄せて、かろうじて汚れを落とした顔を僕の方に向けて、その瞳を見つめる。


「〇〇さんが綺麗にしてくれているんだろ!」

「この岩山の下から流れ出す清水は、とても綺麗で透き通る味がした。」

「この穴から流れ出し、染み込んでいくはずのこのヘドロも、水蒸気で立ち上る地下水も、なんの匂いもしなかったんだ。」


「そうだろう。君がやってくれているんだろ?」

「学校でも、皆が嫌がるところは、〇〇さんがいつも綺麗に皆んなが使いやすいようにしてくれている。」

「僕はそれを知っているんだ。それをずっと見ていたから、」

「〇〇さんが僕の知っている中で一番綺麗好きで、同じぐらいに綺麗な心を持っているって、僕は知ってるんだ。」

「僕はまだ大人になれてはいないけど、ずっと一緒に暮らしていくのは、〇〇さんのような女の子にしようって、ずっと思っているんだ。」


「あの時、バスの中で先生の拭き方がとても嫌だったけど、僕には勇気が無かったんだ。」

「〇〇さん、ごめん、ごめんなさい。」

「〇〇さんはあんなものよりも、ずっと汚れた物もいつも片付けてくれていたのに・・・」

「僕は、〇〇さんを助けてあげられなかった。」


「ごめんね、ごめんなさい・・・」

僕はあの遠足のバスの光景を思い出し、彼女の気持ちに勇気を出せなかった自分が情けなかった。

辛かったであろう彼女の気持ちを思って泣いていた。

しゃっくりが出るほどに、涙が止まらなくなっていた。


彼女は、ヘドロの水湖に浸かりながら嬉しそうに、ずっと僕を見つめて微笑みながら涙ぐんでいた。


「見ていてくれる人がいたんだね。」

「知っていてもらえるなんて、思ってもいなかったよ。」

「感謝されているなんて、私・・・まるで・・・。」

彼女の瞳から涙がとめどなく溢れていた。

僕の指先が拭き残したヘドロは、その瞳から涙が流れるに従って頬にラインを引きながらヘドロを溶かして汚れた水面に落ちた。

流れ落ちる涙が作る波紋に合わせて、ヘドロの水湖が彼女を中心に浄化されていく。

後から後から流れ落ちる涙が、水面に届くにつれて湖の透明感が増していった。

その神秘的な光景は、汚泥を注ぎ込んでいる雲の上の腐敗した城塞都市の水源まで逆流し、透明な流れとなって水湖に清水を注がせていた。


「◯◯くん。ありがとう。」

彼女の顔は誇らしげに笑っていた。

「〇〇さん、とてもキレイだ・・・」

彼女の誇らし気な笑顔は、本当に美しいと思えた。

僕の囁きに彼女は恥ずかしそうにうつむきながら、何もかもを脱ぎ捨てた輝くような素肌で、僕にピッタリと寄り添ってくれている。


「あッ、ちょっと待ってて。」

彼女は魅力的な太ももを僕に向けて、人魚のように湖の底へと泳いでいく。

浮き上がってきた彼女の手には、お皿のような丸い鏡が握られていた。


「これで毎日私がどれだけ汚いのか、少しはキレイに成れたのかを見ていたんだけど、拭っても拭っても、この鏡からヘドロが取れる事がなかったんだ。」

彼女は曇り一つないその鏡に、自分の姿を映し出した。


『他人からの視線を恐れていた。』

自分への戒めのように毎日自分を洗い磨き続けた身体が、自信をみなぎらせた笑顔と共に鏡の中で燦然と輝きを放っていた。


「これが、わたし??」

真実を映し出す鏡の中で、少女の姿は内面から滲み出した真心からつくられた、真実の姿をその鏡に映し出していた。

水面を舞うように踊る彼女は妖精のように美しい。


僕は彼女に引き寄せられるように素肌を合わせ、お互いに見つめ合った。

お互いが、少年と少女から次の段階へと進もうとしている体型であった。

同じようにうっすらと、今まで無かった部分に体毛が伸び始めていた。

水面に足が沈むこともなく、ふわりと空中に押し出されていくようであった。

おとぎ話の中のような不思議な水面の上で、僕たちは引き寄せ合い、お互いのおでこを合わせた。

鼻が触れ合い、お互いの口唇が触れた。

合わせたように求めあう舌が絡み合った。

膨らみかけた乳房が女性の柔らかさを感じさせる。

聖剣が僕と彼女の下腹部の間で、僕らの未来を予感させるように膨らみを見せていた。

ゆっくりと口唇を離した僕らから溢れた体液が、僕らの舌先から聖剣に向けて流れていく。


『多分、僕はこの子と・・・。』

聖剣に落ちた二人の体液の間に、予感のような物があった。

水面の上に二人で倒れ込みながら、再度唇を重ねた。

聖剣を、お互いのまだ春に芽吹いたばかりの薄い草原の奥へとあてがっていく。

聖剣は本来の鞘に収まるように、すんなりと収まっていく。

僕は、〇〇さんの名残を惜しむように膨らみかけた乳房を含んだ。

彼女の素肌と汗の混じった甘い香りを吸い込んだ瞬間に、聖剣が未来を紡ぐように彼女の中で大きく膨らんでいった。



「〇〇君。私を見ていてくれてありがとう。」

「私、ずっと、ずっと・・・、〇〇君を人を待っているから・・・。」

「いつかきっと、私をむ〜。」


彼女の言葉が終わる前に、光のシャボン玉は眩しく輝いてから弾け、彼女は現実の世界へと引き戻されていってしまった。



『君を、〇〇さんを必ず、迎えに行けるだけの人間になってみせる。』

僕は、彼女のシャボン玉が消えていったすぐ目の前の虚空を見つめていた。

彼女がこの世界に必要が無くなった鏡を、僕に託して置いていったように、その場に真実の鏡が水面を映していた。

僕は鏡を手に取ると、そこに映り込んだ見た目よりも美しい〇〇さんの内面の姿を思い起こしていた。

間違いなくこの鏡に映った彼女は、この世のものとは思えないほどの究極の美しさであった。


いくら見つめても、僕の姿を映し出すことのないその鏡の中で、僕は心のなかで〇〇さんを映し出しながらそっと抱きしめた。


目をつぶり、思いにふける僕を、夢が現実に送り出そうとしていた。



〜〜〜〜


全身汗まみれになった僕が、ベトベトの布団の上に横たわっていた。

下腹部には、ドロリとした液体がヘドロのような感触で、青臭い匂いを放っていた。




次回は、

見えないからこそ ① につづきます。

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