第一章 帰ってきた耕平

     一


 次の週の日曜日、山本徹は自分の目の前から消えてしまった、耕平のことが気にかかり、何か手がかりになるようなものないかと、ひとりで公園に来てあちこち散策していた。あの日以来、会社に行ってもろくすっぽ仕事が手につかず、悶々とした毎日を送っていたのだった。

 先週、耕平と出逢ったベンチからブランコの横を通って、耕平が消えた公園の裏口あたりを、幾度となく行き来してみたが、手がかりらしいものは何ひとつとして、見つけることはできなかった。山本はブランコのところまで戻ってくると、ふと立ち止まり懐かしそうに近づき、子供の頃に耕平たちと遊んでいたことを思い出していた。

 山本はブランコに腰を下ろした。前後に二・三回反動をつけてやるとブランコはゆっくりと動き出した。半円を描いて揺られているうちに、中学生の頃好きだった中原中也の『サーカス』という詩の中に出てくるブランコのことを思い出した。

 その中の、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよーん」と、揺れているブランコの擬音がことのほか気に入っていた。

 山本はブランコに揺られながら、必死になって耕平のことを考えていた。

 この二十一世紀の科学万能の時代に、まるで神隠しみたいに人間ひとりが消えていなくなるなんて絶対あり得ない。それにオレの見間違えなんかじゃないし、あいつ本当にどこに行っちまったんだろう。と、考えれば考えるほど山本徹の迷宮は深まるばかりだった。いくら考えても答えは見つからず残ったものはいえば、どうしようもない虚しさと二度と浮かび上がることが出来ないほどの倦怠感だけだった。

 帰ろうとしてブランコから降りて歩き出そうとした時だった。

「おい、山本。お前、まだいたのか?」

 急に声をかけられたので、ギクリとして振り向いた。

「こ、耕平! お、お前…」

 一体いままでどこに行ってたんだ。と、言おうとしたが、驚きのあまり声が出なかった。

「花見は、もう終わったのかい。みんなはいないようだけど…」

 耕平が聞いた。

「な、何を云ってんだよ。耕平、花見なんか一週間も前の話だぞ。それよりお前こそ、どこに行ってたんた。一週間も…」

 こんどは山本が聞き返すと、耕平は少し驚いたように、

「一週間…。じゃあ、今日は四月九日じゃないのか…」

「当たり前だろう。バカ、今日は四月十六日に決まってんだろう」

「ほんとだ…。おかしいな…、ちゃんと合わせたんだけどなぁ…」

 耕平は袖をまくって時計を見ると、山本のいうとおり四月十六日を示していた。

 でも、何故だろうと考えながら、真面目な顔で話しだした。

「実は、お前に話があるんだが…」

「ん、何だい。話しって…」

「実はオレ、えらい拾い物をしたらしいんだ…」

「何だ。その拾い物って…」

 耕平は腕をまくると、腕時計をみせた。

「何だ。腕時計じゃないか。で、それが、どうしたんだ」

「お前は信じないかも知れないけど、これタイムマシンらしい…、いや、タイムマシンなんだ」

 それを聞いた山本は、大きな声で笑いだした。しばらく笑ったあとで、ようやく笑いも収まったのか、こう切り出してきた。

「おい、耕平。冗談も休み休みいえよ。タイムマシンだなんて…、第一エープリルフールはとっくに過ぎてるんだぞ。それにタイムマシンなんてものは、SF小説や映画の中に出てくる空想上の機械だぜ。それにどう見たって、それはただの腕時計じゃないか」

山本にそう言われて、しばらく考え込んでいたが、意を決したように話しだした。

「実は、オレ過去に行ってきたんだ…。嘘じゃないよ。これを見てくれ」

 耕平は、手に持っていた新聞を山本に渡した。それは一九九〇年四月九日付の真新しい朝日新聞だった。

「マ、マジかよ…」

 山本が口を挟もうとするのを止めるように耕平は続けた。

「一九九〇年。ちょうど、オレが生まれた年だった。あの日、いや、先週の日曜日か…? この時計をあのブランコの側で拾ったんだ。それから、本屋に行こうとして公園の裏を出ようとしたら、横から出てきた自転車に乗った子供にぶつかったんだ。時計は大丈夫かとポケットから取り出してみたら、妙に低い音を出しはじめて、周りの風景が一瞬ゆらっと揺らいだんで、オレはてっきり目眩かなとも思ったんたが、すぐ何ともなくなったんで本屋に行こうと…」

「それだ!」

山本が大きな声を張り上げた。

「オレが見たのは、それだ。あの時、お前に用があるのを思い出して、ブランコのところまで来たら、お前を見つけたんで急いで走って行って声をかけようとした時、まるで陽炎みたいにゆらっと揺れたと思ったら、あとは見えなくなってしまったんだ…」

 ふたりは同時刻に同じような体験をしたことを確認しあった。

 また、耕平は続ける。

「とにかく…、本屋に行ったんだよ。本屋そのものは変わっていなかったんだが、何故だかわからないけど、何か、こう雰囲気が少し違ったんだ…。違和感を感じたんでよく見ると、いつも店番をしている七十くらいの爺さんじゃなくて、もっと若い…、うーん…。五十歳くらいかな。顔が似てるんで親父さん用事でも出来て、親戚の人でも頼んだのかなと思っていると、「いらっしゃいィー」と、いう、独特の声はいつも聞き慣れている、親父さんの声だったんで、あれっと思って見るとはなしに、店にかけてあった日めくりカレンダーを見たら、一九九〇年四月八日になってたんで、オレ驚いちゃって「ま、また来ます」つって、慌てて店を飛び出して時計を見ると、確かに一九九〇年四月八日と表示されていたんだ…」

 ここまで話すと、耕平はふーっとため息ついてまた続けた。

「ここは過去の世界…か。いや、過去の世界なんて、タイムマシンでもない限り来れるわけがない……。タ・イ・ム・マ・シ・ン…。……この時計が…、そんなバカな…。そんなことを考えているうちに、頭の中がごっちゃになってしまって、何がなんだかわらなくなって、どうしようかと考えていたら、あることに気がついたんだ。一九九〇年といえば、オレの生まれた年だ。しかも四月。まだ生まれてから二ヶ月も経っていない頃じゃないか。おふくろが二十三歳の時に生まれたと云っていたから、おふくろはまだ現在のオレよりも若いはずだ。逢ってみようかな。それに生まれたばかりの自分も見てみたいし…」

 そこまで黙って聞いていた山本が口を挟んできた。

「よし、わかった。まんざら嘘ではないみたいだし、お前のことを一応信じよう。しかしだな。いまお前は自分の母親と、生まれたばかりの自分に逢ってみたいと云ったが、いかんよ。いかん、いかん。それだけは絶対にやるなよ。もし、そんなことをしたら、未来である現在に悪影響を及ぼす恐れがあるんだから、それだけは絶対やるなよ。それにいつどこに、どんな落とし穴があるかわからないんだからな。まさか…、もう逢ってきたなんてことはないだろうな」

 さすが、高校時代SF狂いしていただけはあって、山本のやつ乗ってきたぞ。と、耕平は思った。

「いや、まだだ……。オレは山本みたいにSFはあんまり詳しくないし、それにお前がよく云ってた、タイムパラドックスなんて、チンプンカンプンで全然だし、だからお前に相談しようと帰ってきたんだ。それにいろいろ準備するものもあるからな…」

「準備……? 何を…。お前まさか、また戻る気なのか?」

「ああ、ちょっと気になることがあってな。あとで話すよ」

「まあ、いいか。それより、こんなところで立ち話しするような内容でもないし、どうだ家こないか。かみさんたちもみんな出払ってて、いまオレひとりなんだ。夜遅くならないと、帰ってこないからちょうどいいや。行こ、行こ」

「そうかい。それじゃあ、ちょっとお邪魔しようかな.…。一週間もずれるとは思わなかったんで、母親になんて弁解しようか考えてたところだったんだ。いやあ、助かるよ」

「そうか…。お前んところは、おふくろさんだけだったなあ…」

 山本に促されて、耕平は山本と並んで歩き出した。もうすぐ夕暮れ時とみえて、カラスが群れをなして、山のほうに飛び去って行くのが見えた。


      二


 家につくと山本は、耕平を自分の部屋へ招き入れた。

「へーえ、変わってないな。昔のまんまだ。変わったと言えばパソコンが増えたぐらいで、昔とちっとも変わってない。いやー、懐かしいなー。ホントに」

 珍しそうに耕平が、部屋の中をキョロキョロ見ていると、山本が煙草に火を付けながら喋りだした。

「結婚してからずっと使ってなかったんだけど、もったいないから書斎代わりに使ってんだ。それより、そのタイムマシンとやら云う、時計を早く見せてくれ…」

 ふーっと、煙を吐きながら急かすように言った。耕平は腕時計を外すと黙って渡した。

「うーん…、なるほど普通のヤツよりも確かに少し重いな…。ふーむ、時空間を移動するには相当のエネルギーを必要とするはずだが、これの動力源はなんだろうな…。うーん」

 耕平は自分でも、気にも止めなかっことを山本に言われて、

『やっぱりコイツは、オレなんかと違って物を見る観点が違うな…』と、心の中で舌を巻いた。

「なるほど、年代と日付けと時刻だな。たしかに…。しかし、本当にこれの動力は何なんだぁ…。それにしても、よく帰れたもんだよなぁ。よく操作の仕方がわかったな。お前に…」

「うん。いじくってるうちに何となくな。左側に付いている、三つのボタンのうち上のほうがオンつまり、開始だ。下のはオフだろうと思うんだが、三番目と右側の下についてる、ふたつのボタンについてはまだわからない」

 それからふたりは、ああでもないこうでないと議論を交わしたが、結局のところ確信に迫るところまでは行かなかった。

「ちょっと聞くけど、さっき云ってたタイムパラドックスのことを、もう少し詳しく教えてくれないか。オレ、そういうのにとんとは疎くてさ…。もっとSF読んどきゃ良かったよな…。オレもっぱらミステリーばかりだったから」

 耕平がいうと、山本はうなずきながら煙草を置くと、かなり真面目な顔で話しだした。

「うーん…と、あ、例えばだよ…。例えば、お前の親父さんが生まれる前の時代に行って、結婚する前の爺さんを殺したらどうなると思う? 爺さんを殺せば親父さんもお前も生まれてこないことになるから、当然爺さんを殺せない。爺さんは生きているから、そのうち婆さんになる女性と逢って、結婚をして親父さんが生まれ、やがてお前も生まれて来るから、また過去に行って爺さんを殺そうとする…。つまり、堂々巡りになるんだ。これが有名な『親殺しのパラドックス』だ。とどのつまりが、ニワトリが先か卵が先かというあれだよ…」

 そこまで話すと山本は、また新しい煙草に火をつけた。

「大体わかったけど、いまの話を聞いた限りじゃ、未来に与える悪影響なんか、あんまり関係ないような気がするんだが…」

「うん。実は、オレもそう思うんだよ。但し安全のために、未来に影響を残すようなことにだけは、あんまり触れないほうがいいと思うぞ。第一いままで誰も経験したことがないんだから、過去に対して無茶な干渉だけはしないのに越したことはないよ。あ、そうそう、こういう説もあったな…。タイムパラドックスを回避させるために、考え出された説らしいんだが、われわれの棲んでる世界は、ここだけではなく目には見えないが、地層みたいに重なり合った世界で、何かが少しづつ違う世界が無限大に続いていて…、例えば…、オレが存在しない世界とか、お前が存在しない世界とか、オレもお前も存在しない世界なんてのもあるかも知れない…」

「ああ、それなら知ってるよ。数年前にテレビでやってたな。パラレルワールドっていうんだろう。それ」

「だから、一回確定された歴史はどんなことをしても、変えることが出来ないという説もあるんだ。もし、仮に熱狂的な坂本龍馬のファンがいたとして、龍馬が暗殺される少し前の時間まで、遡って行って暗殺を阻止したとしても、それは現在われわれのいる時間線ではなく、まったく違う時間線での出来事になってしまうんだ。これはあくまでも仮説の域を出ない話なんだが、とにかく一度確定された歴史は、どこまでも動かすことは出来ないという話だ。ただの仮説なんだけど、いままで誰もそれを証明した者がいないんで、実際はどうなのかというと、ほとんど雲をつかむような話なんだなあ。これが…」

ふたりはお互いに顔を見合わせると、はあーっとため息をついた。

「もし、オレが若い頃の母親と赤ちゃんの自分と会ったらどうなるのかな…。当然母親は、オレがその赤ん坊の成人した姿だなんて考えもしないだろうし、なんだか妙な感じだな…」

「そうだ。思い出した。同じ時間帯には同一人物は存在できないって、何かの本で読んだことがあるぞ。だから、そういう場合は何らかの力が働いて、どうしてもお前は赤ちゃん時代の自分には、会えないような仕組みになっているのかも知れないな」

 そういうと、山本は何かを考えるように黙り込んだ。

「あ、ちょっとパソコン借りてもいいかな」

 山本は黙って頷いた。耕平は、早速何かを調べ始め、ふたりの間に沈黙が続いた。すると、しばらく考え込んでいた山本が喋りだした。

「なあ、耕平。やっぱり過去に戻るのは止したほうがいいよ。いくら歴史は変わらないとしても、何が待ち構えているかわからないし、それに何よりも気になるのはタイムマシンの動力源だ。こいつがわからない以上、いつ何時エネルギーが切れて、現在に帰って来れなくなってしまうかも知れないし、そんなことにでもなったら、お前どうするつもりなんだ」

 山本にそう言われて少し考えてから、

「いや、やっぱり行って見るよ。どうなるか自分でもわからないけど、もし動力源が切れたころで、たかだか二十六年だろう? オレが五十三歳になった頃にまた会えるから、そう心配するなって。そんなことにならないよう充分注意するからさ。心配しなくていいって…」

「お前が、それほど云うのならオレはもう止めないけど、でも会社のほうはどうするんだ?」

「あ…、そのこと…。実はオレ、いま失業中なんだ。ちょっとヘマを遣らかしっちまってさ。会社にも居づらくなったんで、十二月いっぱいで辞めたんだ…」

 山本に聞かれて、耕平は照れ笑いを浮かべながら言った。

「ところで、いまパソコン借りて調べてみたんだけど、一九九〇年に使える紙幣は、百円以下の硬貨だけなんだ。一万円から五百円までのものは、二〇〇四年に発行されたもので、あの頃にはまだ使えないから、どうしようかと考えてたんだ。何かいい手はないかな…」

「ないこともないけど、少し時間がかかるかも知れない。ちょっとした当てはあるから聞いてみるよ。どうせ、しばらくは戻らないんだろう」

「うん。まだ、もう少し調べたいことがあるんだ。じゃあ、頼むよ…。もう、こんな時間か。家族が帰ってくる頃じゃないのか。オレもそろそろ帰って見るか。あ、それから明日また会えるかな…」

 山本に約束を取りつけると、耕平は立ち上がると部屋を出て玄関へ向かった。

 外に出ると日中の暖かさとは裏腹に、空気がひんやりと冷たく感じられる夜だった。耕平は母親にどんないい訳をしようかと、ひとり思い悩みなから家路に就いた。


       三


 耕平は夕べ遅く家に戻ると、母親から一週間も無断で家を開けたことについて、根掘り葉掘り聞きたださられたが、適当な口実を付けて誤魔化してしまった。自分ではわずか半日くらいの感覚なのに、この世界に留まって生活を送っている者にとって、一週間にはやはり一週間なりの重みがあるのだろうと耕平は思った。

 母親に心配をかけるということは、子供としてはこの上もない親不孝なことなのだろう。ましてや、女手ひとつで耕平を育て上げくれた母にしてみれば、自分が留守にしていた一週間という空白の時間が、母にどんな寂しい思いをさせたか、察するに余りあるものを耕平は感じていた。

 午後になると、耕平は図書館へ出かけて行った。新聞の縮刷版で過去のことを、いろいろ調べてみようと思ったからだった。九〇年を中心にして、その前後の出来事や物価の状況、流行等さまざまな事象を調べ上げ、必要に応じてコピーなども取った。そうこうしているうち、あっという間に時間が経過して、山本との約束の時間が迫っていた。耕平は図書館を出ると桜もすっかり散った並木通りを公園へと急いだ。

 公園につくと山本がベンチに座り、新聞を読みながら待っていた。

「すまん、すまん。待たせたかな。意外と手間取っちゃって、遅くなってしまった」

「いや、オレもいま来たばかりなんだけど、それよりお前何してたんだ。今日は…」

「ちょっと図書館に行って、いろいろと調べ物をしてきた」

 ベンチに腰を下ろしながら耕平がいうと、山本はスーツの内ポケットから封筒を取り出して耕平に渡した。

「何だい。これ…」

 耕平が封筒を開けると中には、いま使われている紙幣の一時代前の、少しヨレヨレになった、古い紙幣がぎっしり詰まっていた。

「どうしたんた。これ…、しかも、こんなにいっぱい。お前、まさかどこかから盗んできたんじゃないだろうな」

「おい、おい、人聞きの悪いこというなよ。オレの友達に古銭や、古い紙幣を収集してるのがいるんだ。ちょうど、この当たりのは時代が新しいから、値段的に見てもあんまり価値がないらしいんだ。それで、そいつが『興味があるんだったら、原価で分けてやってもいいよ』なんていうから、いまは持ち合わせがないから、貸してくれって云って分けてもらって来たんだ」

「でも、すごいなぁ。これ…。この五百円札なんか、子供の頃に使ってたんだけど、懐かしいよなー。ホント」

 やたらに懐かしがっている耕平に、山本はこうつけ加えた

「これなら、一九九〇年でも間違いなく使えるから持っていけ。ただし、これはやるんじゃないぞ。貸すんだからな。必ず返せよ。耕平」

 それからふたりは耕平が奢るということで、行き付けの居酒屋に向かった。公園からさほど遠くないところにその店はあった。

「へえー、お前こんなところで呑んでたのか…」

 店に入ると、白髪交じりの初老の男性とおかみさんらしい女性が出迎えた。

「おふたり様ですか。耕平さん」

 マスターが聞いた。

「ご無沙汰しています。何しろ失業中なもので…。すみません」

 耕平はおしぼりで手を拭きながら言った。

「ああ、それからマスター。こっちの小上がり借りてもいいですか。少しふたりで話があるもので…」

 ふたりが小上がりに移ると、おかみがお通しとおしぼりを運んできた。

「ほんと、お久しぶりですね。耕平さん。何にいたしましょうか」

「オレは日本酒お願いします。あ、それから、お刺身と焼き鳥を見繕ってください。お前は何にする…」

「あ、ぼくはビールをお願いします。生で…」

 おかみが行ってしまうと、耕平は山本のほうに向き直った。

「午後から図書館に行って、いろいろと調べてきたんだが、オレの生まれた一九九〇年は、バブル景気の真っただ中だったらしい…。物価は上がるは電化製品や高級車がじゃんじゃん売れるは、ものすごい時代だったらしい」

 耕平はさっき調べてきた縮刷版のコピーを見せた。

「それなら、オレも知ってるよ。ベンツやフェラーリやロールスロイス、ランボルギーニ・カウンタックなんかの、一億円前後の高級車が飛ぶように売れたって話だろ。それにゴッホやルノワールの有名な絵画が、オークションで日本円にして数十億の値が付いたっていうじゃないか」

 そこまで話した時、おかみが酒を運んできた。

「はい、お待ちどうさまでした。お肴のほうも、間もなく上ると思いますので、いましばらくお待ちください。あ、いらっしゃいませー」

 新しい客が来たらしく、おかみは行ってしまった。

「それじゃあ、お前と呑むのもしばらくぶりだから、乾杯といこうか」

「よし、オレが音頭を取ってやろう。それでは、耕平の前途を…、じゃないな。なんて云うんだろう。こんな場合…。まあ、いいや。とにかく、耕平の過去に幸あらんことを祈って、カ・ン・パ・イ」

「乾杯」

「なんか変だな。やっぱり…。でも、失業中のお前に奢らせちゃって悪いなー。ホントに」

「いいんだよ。そんなこと気にするなって、山本らしくもない。そんなことより、もし、もしもだよ。何らかの事故か事情によって、こっちの世界に戻って来れなくなったら、どうすればいい…。何かアドバイスしてくれよ」

 耕平は、急に弱気になったのか山本に助けを求めてきた。

「なんだ、お前、怖気づいたのか。いきなり…。どうしたんだよ」

「そうじゃないけど、もしそうなった場合、おふくろはたったひとりで、どうするんだろうと思って…」

 そういうと、耕平はコップの酒を呑み干した。つられて山本もビールをひと口呑んだ。

「うーん…。お前んとこは母ひとり子ひとりだからなあ。そりゃあ、心配するのもわかるんだけど、アドバイスといわれてもなあ…。オレもタイムトラベルなんてやったこともないし、困ったな…。そんなにおふくろさんのことが心配だったら、やっぱり止したほうがいいよ。行くの…」

「そうはいかないよ。あ、マスター、おかわりください。お酒ー。すみません」

 耕平は、新しく酒を注文すると、また続けた。

「なぜオレが、もう一度一九九〇年に行きたいのか知らないから、そんなことが云えるんだ。実はな、お前にもまだ話してなかったけど、オレの親父のことなんだ。親父のことはオレも詳しく知らないんだ。おふくろに聞いてみたんだけど、若い時に死んだとしか云ってくれないし、親父の写真はおろかおふくろと、ふたりで取った写真すら残ってないんだ。だから、オレは親父の顔もわからないんだ。おかしいと思わないかい。第一死んだと云うう親父の位牌もないんだぜ。おふくろは、そのことを聞かれるといつも、黙って哀しそうな顔をするだけなんだ。だからオレは、せっかくタイムマシンが手に入ったんだから、なぜオレの父親がいなくなったのか、この目でしっかり確かめてこようと思ってるんだ…」

 そこまで話すと耕平は、またコップを煽った。なるほど、そういうことがあったのか。耕平のヤツも、きっと子供頃はつらい想いをしたんだろうな。と、山本は改めて思った。

 それからふたりは、しばらく酒を呑みなから、今後の予測を含めて話し合った。しかし、所詮予測は予測であって、結論には至らなかった。

「もう、だいぶ遅くなったからぼちぼち帰ろうか。お前も明日は会社があるんだろう」

「うん。そろそろ帰るか。しかし、耕平。お前はいつ向こうに、行く気でいるか知らないけど、行く時は必ずオレに連絡するんだぞ」

 山本は念を押すように耕平に言った。

「わかった。もう少し調べることが残っているから、うーん。今週いっぱいはかかると思うし、来週の日曜日くらいになるかな…。そうだ。お前、立会人というか見届人になってくれ。頼む」

「よし、わかった。それで、場所はどこだ。あの公園か」

「この時計もあの場所で拾ったんだから、あそこしかないだろう…。それじゃあ、帰えるか」

 ふたりは立ち上がると勘定を済ませ店を出た。外に出ると、春の夜風が酔った頬に心地よく感じられた。人影もまばらになった街中を行くふたりには、明日待ち受けているかも知れない、不安など微塵も感じられなかった。


       四


 日曜日の午後、耕平は山本と約束した時間に合わせて公園に向かっていた。そろそろ街路樹の若葉も芽吹き始める時期であり、間もなくハナミズキの花も一斉に花開く時期でもあった。耕平は背中にナップザック、手には肩掛け式のショルダーバッグを持っていた。公園に到着すると、山本の姿を探したがどこにも見当らなかった。仕方がないのでベンチで待つことにした。しかし、小一時間経っても山本はまったく現れる様子もなく、耕平は徐々に焦りを感じ始めていた。かと言って、このまま黙って行くわけにもいかなかった。気忙しくベンチから立ったり座ったりしている時だった。遠くのほうから、「おーい、耕平」という声が聞こえてきた。見ると、山本がチャリンコを飛ばして、やって来るのが見えた。その凄まじい速さは、そこいらの暴走族でさえ驚くようなスピードだった。急ブレーキをかけると、その音がまたもの凄く、キキキキキィー、キキィーという、耳の中を掻きむしられるような、全身から力が抜けてしまうような音を立てて止まった。

「すまん、すまん。遅れちまって。だいぶ待ったか?」

 必死にペダルを漕いできたらしく、山本はゼイゼイ息を切らしていた。

「ん、一時間ちょっとぐらいかな…」

 と、は言ったが、実際には二時間は有に過ぎていた。

「どこに行ってたんだ。お前」

「すまん。本当に、すまん。実は、これをお前に持たせてやろうと思って探してたんだ」

 山本から手渡されたのは、『一九九〇年度版市街地図』と、印刷された一冊の古ぼけた地図帳だった。

「この手のものは、毎年出版されるから古い物は汚れたり破れたりして、みんな捨ててしまうらしくって、あんまり出回らないって古本屋の親父が云ってたな」

「へーえ、お前わざわざこんなの探してたのか。でも、わざわざ探してきてくれてもこんなの役に立つかなあー」

「何云ってんだよ。たかだか二十六年つったって、区画整備だの何だのかんだので街の中はどんどん変わってんだぞ。いいか。よく見てみろ、ここを。ここには、いまは国道が走ってるんだけど、この頃はまだここの国道も橋も出来てないんだ。ほら、ここだ」

 山本はあるページの一点を指した。そこには、確かに国道も橋もなく国道のできる部分に点線が引かれており、国道建設予定地と書かれていた。

「あ、ホントだ…」

「これはきっと役に立つと思うから持っていけ。そうかさ張るものでもないだろう」

「うん、わかった。ありがとう。じゃあ、貰って行くよ」

 耕平が受け取るのを見ると、山本は満足そうに笑った。

「さてと、準備とか全部済ませたのか。耕平」

「うん。まあな。まだ、少しわからないこともあったけど、まあ、これくらいでいいかと思ってな。お前ともしばらく会えなくなるが、元気でな。ただ…、ひとつ心配なことがあるんだ」

「何だ」

「おふくろのことさ。どれくらいの時間がかかるかわからないし、また今日のこの時間に戻れればいいけど、前みたいに日付けとか時間がずれるかも知れないし、もしオレがなかなか戻ってこれない時は悪いんだけど、お前おふくろのところに顔出してやってもらえないか。おふくろには友達と旅行に行くって云ってあるから、頼むよ。山本」

 耕平の母親を想う心が、山本にも痛いほど感じ取ることができた。その耕平が、自分の父親不在の真相を探求するために、二十七年前の世界に旅立とうとしているのだ。出来るものなら、自分も一緒について行ってやりたいとさえ思ったほどだった。しかし、山本はそれを言い出すことが出来なかった。それを口にすれば、もちろん耕平はいやとは言わないだろう。むしろ力強く思ってくれるに違いなかったが、それは耕平にとってプラスになるのか、それともマイナスになるのかは、いささか疑問が残るところでもあった。

 例えば、耕平の父親不在の真相が解明したとしても、その結果が悲劇的なものであった場合、いくら友人とは言えども他人である山本には、つらい姿は見せたくないだろうと思ったからだった。

「ああ、そうだ。よかったら、このチャリを持って行け。コイツがあれば何かと便利だぞ。それに、考えてみたんだけど、たぶんそのマシンはお前が触れているものなら、みんな一緒に飛んで行くんじゃないかと想うんだ。だから、試しに持って行け」

「ホントにいいのか…。悪いな。何から何まで心配かけちゃって…。でも、大丈夫かな。チャリンコなんて…」

「大丈夫、大丈夫。もし、ダメな時は残るだろう。いいから心配しないで持っていけ」

 それからふたりは、耕平がタイムマシンを拾った、ブランコのところまで歩いて行き、耕平は腕時計の文字盤を、一九九〇年四月十日に合わせた。

「それじゃ、そろそろ行ってみるよ。お前にはいろいろ世話になったな」

 耕平はタイムマシンのスタートボタンを押しながら、山本に向かって「さよなら」と言った。フィィーンという低い音がして、シューンという音に変わった時、耕平の姿は自転車とともに、一瞬揺らいでから山本の前から見えなくなっていた。

 取り残された山本はシューンという音の余韻の中、込み上げてくる寂しさに打ち拉がれたまま、ひとりぽつんと立っていた。


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