坂口安吾『不良少年とキリスト』について

てると

坂口安吾『不良少年とキリスト』について

” 文学者、もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。

 ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。

 何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。

 芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。

 不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。理窟でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。

 ドストエフスキーとなると、不良少年でも、ガキ大将の腕ッ節があった。奴ぐらいの腕ッ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。キリストをこしらえやがる。まったく、とうとう、こしらえやがった。アリョーシャという、死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ。”


 不良少年の自殺…、なんだ。芥川、太宰が、弱虫の泣き虫小僧だった、だからキリストを引き合いに出した。安吾はよくわかってるじゃないか。

 多分、安吾が文学者よりも哲学者のほうがよほどひどいが、結局は、不良少年だと言っているのは、安吾が東洋大学のインド哲学科にいて大勢の哲学者を知っていたからだろう。少なくとも、彼は多くの言語を習得する才能があったから、わたしたちとは、少し違うことは確かだが、同様に、哲学者のなれの果てを観察していたのだろう。

 芥川の、ニーチェやショーペンハウアーを引き合いに出してからキリストを語る手つきが俺にはよくわかる。きっと、周りの「不良少年」たちとも、ニーチェだのキリストだのを語っていたのだろう。弱虫の、泣き虫小僧の不良少年は、権威を引き合いにする、つまり、弱虫だから「引用」を好む。そうして、『アテネーウム』断章でも指摘されているように(この手つき)、「引用」の切り貼りからモザイク画をこしらえて他者からの承認を欲する。

「…と聖書に書いてある」(これは誰が言った言葉だったか…)、「かく語りき」、「子曰く」、これは全て、泣き虫小僧が言うことである。

 結局それは、例えばユングが「母のNO.2に『ファウストを読め』を言われたから読んだ」と言っている手つきであって、やっていることはいい歳をして「だってお母さんがやれって言ってたもん!」という空虚な責任逃れをしていることなのだ。「お母さんが評論家は誰でもなれるからダメだって言ってたもん!」…、なにか、不良少年未満を感じる。

「俺の言ったことに反抗すると、神罰を食らうぞ」などという妄語を発して自己防衛しようとする不良少年の手つき、よくある話であるが、だからこそ大半の不良少年は自殺などしない、或いはできないことを知っている。

 つまり、「聖書に死んで、生きる」ことや、「友のために死ぬ」ことは理解できる、ドストエフスキーのこしらえたアリョーシャはそうだった。しかし、「お母さんはこうだった」と言い続ける人は、母に死んでいる、というよりも、まだ生きてすらいない。生きてすらいない人の自殺は、或いは生まれてくる前に死を選択するようなものである。

 ここで建設的な命題が立てられる。すなわち、

「まず生きなければ、死ぬことすらできない」。

 「死ね」と言う前に、まず、「生きよ」だ。だから大勢の「不良少年」たちに言いたい、まず、生きてほしい。そして、安吾も言っているように、限度を知っていてほしい。

 ドストエフスキーの偉かったところは、盛んな青年が死を選択することは、これほど容易なことはない、と見抜いていたことだ。「死ぬ」とは、自殺ではないし、本当に死んでしまうことではない。だから、第二命題も立てよう。

「生きていてこそ、死ぬことができる」。

 不良少年の「ロック」、すなわち「自由のための反逆」も、自分で獲得したからこそ様になるのであって、母親に刷り込まれてできた反逆はもはや喜劇なのか悲劇なのか見当もつかないが、少なくとも勝ち取った格好良さがない。むしろ、そういうたぐいの人が勝ち取ることができるものがあるとすれば、自由ではなくむしろ倫理である。尾崎豊も「愛」や「贖罪」を語る「不良少年」だが、この人物がいつどうやってわたしの中に入り込んできたかと言うと、母親がカラオケで歌っていたからである。尾崎は「high school rock 'n' roll」を歌う前に、「自分に与えられた総てのルールの中で、いったい何が必要で、何が必要でないのか、見分ける力を持っているのが、若さだと思う。間違ったルールというのは、人を傷つけることのみに方向が向かっている。正しいルールというのは、人を愛することだ」と言っていた。だから、「ルールありきの反逆」というのは、キリストであれ尾崎であれ、変わるところではない。当のキリストも若くして死んだということは…。

 だから、倫理への反逆として自由が、或いは「ロック」が登場したのならば、自由への反逆があってもよいと思うし、想到するのは、キリストに関係なく、人類はこの変動を繰り返してきたのではないか?ということだ。

 ともかく、自殺が自由の表現であったとするならば、わたしたちの時代にあって、自由を称揚することはむしろ「老害」になりつつあるのではないか?

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