第7話 覚悟

 その日の夕方。


 残飯でも貰いに行こうかと庭をうろついていたのだが、数人の使用人が遠巻きになってコソコソ話をしているのを見つけた。


 彼女らと目が合い、話しかけてくる。


「奴隷さん、こっち来てみてよ」


「どうしたどうした」


 指差す先にいたのはリリム。そして貴族然とした服装の初めて目にする中年女性。二人は庭の端で向かい合うように会話していた。


 いや、会話していたというより、中年女性側が一方的に話しているというべきか。リリムはしゅんとして俯いている。


「あれは誰だ?」


「アーモンド伯爵夫人――リリムお嬢様のお母様よ。義理だけど。実母はお亡くなりになられてて、後妻ってこと」


 なるほどね。貴族にありがちな家族間でのいざこざってわけだ。娯楽に飢えた使用人たちの好みそうな話題である。


 俺は他人の家のことに口を挟むつもりなどないが、すぐにその場を離れることはできなかった。なぜならば――リリムの横顔が泣いているように見えたからだ。


 幾度か見た突発的な恐怖や悔しさから表情とは違い、長年積み重ねてきた悲しさから生まれるようなしとしととした涙。水滴が頬を伝うのが、今度ははっきりと視認できた。


「チッ」


 奴が泣いていれば俺はせいせいするはずだ。そのはずなのに、もやもやとしたわだかまりが胸に溜まって消えない。


 俺が奴を悲しませたくないと思っているとでもいうのだろうか。そんなわけはない。あいつは憎たらしいガキだ。親に説教されて当然のクソガキである。


 渦巻く思いに名前を与えられないまま、俺の足は釘で打たれたように動かなかった。


 使用人たちのヒソヒソ話は続く。


「リリムお嬢様は可愛らしいお方だけど、召喚獣の扱いは苦手らしくて……」

「だけど一人娘よ? 伯爵様はよく可愛がっておられるし、お家騒動なんて起こるはずもないし」

「ギスギスして胃が痛くなるのは私らなんだから、仲良くしてほしいけど」


 パチンと乾いた音が響いた。


 リリムの頬が打たれた音だ。白い頬がほんのり赤くなっていて、夫人は魔女みたいに笑っていた。


 それで会話が終わったらしい。夫人はリリムに背を向け、リリムは頭を下げる。「もっと頑張ります」という震える声が耳に届いた。


 使用人たちは慌てて散っていく。夫人は奴隷の俺に目をやることもなく、足早に馬車に乗り込み屋敷を去っていった。


 庭に残されたのはリリム、そしていまだに動けない俺。


 いい気味だなと笑うべきだろうか。優しく慰めるべきだろうか。普段通りに接するべきだろうか。


 そのどれもできないまま鼓動だけが速くなっていく。夕方の焼けたような空は、瞬きごとに暗さを増していくように思えた。


 ふいにリリムが顔をあげる。


「おじ……」


 いつもと違う。いつもなら語尾を上げたきゃぴきゃぴした口調のくせに、唇をほとんど開かない漏れ出すような呼びかけ。


 涙が拭われることもなくポタポタと落ちていく。ついに金縛りは解け、俺はリリムに駆け寄ってその頬を拭っていた。


「なによ、おじ……」


「お前らしくないぜ」


 リリムが俺の手を叩き落とした。そして睨みつけてくる。


「はあああ? らしくないってなによ。リリムのこと何にも知らないくせに。ばーかばか。ばかおじ」


「戦闘技術ならこれからどうとでもなるさ。俺はいつでも教えられるし、お前はまだまだ子どもなんだ」


「……子どもじゃないし。リリム、タツの年生まれなんですけど。明日が誕生日なんですけど」


 耳を疑った。その体格で? その口調で? まあ子どもと大人の境界線ぐらいの歳だが、ってことは俺といくつ離れてんだ?


 驚きが表情に出ていたのか、リリムは目尻に怒りを滲ませた。そして胸をポカリと叩く。


「やっぱり何にも知らないじゃん。あたまよわよわ、ばかおじ」


「……とにかく、誕生日おめでとう」


「はああああ? 今そんな話してないのだが? 空気読めないにもほどがあるのだが? そんなんだから非モテなのだが?」


「……何を言われたかしらねえし、興味もないが、俺に言えるのは戦い続けろってことだけだ」


「わけわかんないし。てか興味ないってなに? 興味持ちなさいっ! ご主人様のことを知ろうとしなさいッ!」


 少女の声音が上ずって鼓膜を叩く。


 いよいよ困り果てて頭を搔いた。俺は戦士であってホストじゃない。女の慰め方など覚えていない。わけもわからないまま口を開く。


「なら教えてくれないか。なんで泣いてるんだ?」


「知りたいの?」


「ああ。聞かせてくれ」 


「……家名をこれ以上貶めるなって𠮟られたの。学校での成績が悪すぎるって。伯爵家にふさわしくないって」


 再び頭を掻く。俺は両親に売られて以来、"家"なんてものに属さず獣のように生きてきた。学校も行ったことがない。成績で悩んだこともない。


「やっぱり聞いても分かんねえよ。住む世界が違い過ぎて……慰めてやりてえが、どう慰めたらいいのか分からねえ」


「……なら、口下手なおじはもう話さなくていいから」


 リリムが半歩だけ距離を詰めてくる。手を伸ばせばすぐ触れる位置、お互いのパーソナルスペースの内側。空気が一変した。幼さのなかに艶やかさを仄めかし、かかる息の甘さがなにより思いを伝えてくる。


 薄くて小さい唇が息を吸い込んで、吐き出す。リリムは「抱きしめて」と囁いた。


 だが……それは……


 その一線を越えれば、俺は俺でなくなってしまう気がする。俺は戦士だ。ロリコンではない。この抱擁は泣きじゃくる子どもを慰める以上の意味を持っているように思える。そして一度超えた境界線を戻ることはできない。


「命令よ。抱きしめて。――抱きしめなさいッ!」


 だが俺は再び金縛りにあっていた。呼吸さえもできない。胸がきつく締めつけられているように感じる。経験のない苦しみだった。


 青い瞳が揺れて、瞬きをした瞬間に目じりから涙がこぼれていく。それを眺めていることしかできなかった。


 つまるところ、覚悟がなかったのだ。




 永遠にも思える時間が過ぎて、リリムはいつの間にか視界から消えていた。最後の言葉だけがまだ耳の奥で響きを残している。「二度と話しかけてこないで」。やつはそう言い残していった。


 ふと、後ろの気配に気づく。アイカだ。


「もうすぐ夜です。部屋に戻りなさい」


 このメイドはいつも影から現れて影へと消えていく。


「分かった」


 去り際、アイカの黒曜石みたいな目が剣呑な光を宿したように見えて、俺は振り返った。だが彼女はすでに翻って歩き出していた。


 思う。


 今日はどうも屋敷の様子がおかしい。見慣れぬ男たちが出入りしていたし、外でこちらを窺うような人影があった。


 第六感とでもいうべきか、チリチリとした緊張感が首の後ろの毛を炙っている。


 大戦前夜と同じだ。何かが起こる予感がする。

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