第4話 おれのかち
夜になった。
俺は暗くてじめっとした地下室に戻され、藁のベッドの上で横になっている。
嵐のような一日だった。新しい主人に買われるとだいたいこんなことになる。最初からうまくいった試しなんてほとんどない。
だが最後に勝つのはいつも俺だ。なぜか? 奴隷が敗北すれば即ち死だから。負けた瞬間俺は死ぬ。まだ死んでないなら俺が勝者というわけ。
あのガキにどうにか分からせないといけない。俺を舐めたままでいさせちゃいけない。だが殴るのも犯すのもダメだ。そんな獣のやり方では人間は屈服しない。
どうしてやるべきか――
唐突に扉が開く。
きょろきょろ首を振りながら忍び足で入ってくるフードの少女。よく手入れされた金髪と碧眼がちらりと見えた。
リリムだ。
「こんな時間に何しにきたんだ」
「しーっ。黙ってついてきなさい」
チッ。寝ようと思ってたのに、なんだってんだ? だがいい。今は従ってやろう。戦士にはじっと耐えるべきときもある。
リリムは俺が立ち上がったのを確認し、壁を沿うようにして歩き始めた。
その背中を追う。夜の屋敷は静まり返っていた。リリムは慣れた様子で暗影を歩き、誰にも発見されないまま厩舎に辿り着いた。
そして一匹の馬のくつわを引いて出てくる。ミルクコーヒー色の立派な雌馬は小さく嘶いた。
「馬? もう一度お馬さんをやれって言うのか? それとも競争しろってか?」
「違うけどぉ。そんなに気持ちかったわけ? よわよわおじさんは質問なんかせずに黙って従えばいいの」
リリムはそう言って、壁をよじ登るようにして馬の背中に乗り込んだ。足先があぶみに届いておらず不安定に揺れる。
「はやく乗りなさい、おじさん」
「はあ? 夜中にコソコソ何するつもりだ?」
リリムは不愉快そうに俺を睨みつけた。
「いい? お前はリリムの専属奴隷で、リリムのものなの。お前の主人はお父様でもお母様でもなく、リリムただ一人。だから今からのことは誰にも言わないこと。――言ったら殺すから」
やはり生意気なガキだ。書面上どうなってるかは知らないが、金を出しているのは親だろうに奴隷を占有とは。貴族のお嬢様らしい考えだな。
「けっ。秘密はかまわねえが……どこに行くかって聞いてんだよ」
リリムは吐き捨てるように言った。
「つよつよ精霊と契約しに行くのよ。みんなを驚かせて見返してやるんだから」
▽▲▽
暗い山道を駆ける。
俺は馬が好きだ。乗馬も好きだ。こいつらは大半の人間よりもずっと素直で賢く、心を通じ合わせてくれる。
だが一つ、乗馬に際しての特記事項がある。俺は命をかけた戦いになると激しく勃起してしまうのだが、全速で馬を飛ばすと同じように勃起する。
恥ずかしいこととは思っていない。極度の集中状態にあり、寿命を削るような身体の使い方をするからこうなるのだろう。
だがこいつは――
「おじさんざっこぉ。リリムと二人乗りしただけで大きくしちゃうの? ザコすぎてくさ〜。絶対童貞じゃん」
「黙ってろ。舌噛むぞ」
とはいえ、俺は比較的平常心でいられた。この勃起は乗馬によるものなのだから。別に言い訳ではない。なんかいい匂いがするなとか思ってない。尻が当たって気持ちいいとかも――思ってないッ!
「クソッ!」
「その癖きも〜い。急に怒鳴るのやめてくれない? リリムびっくりしちゃうんですけど?」
落ち着け。馬と心を一つにするんだ。風を切る感覚と、躍動する馬の筋肉。こいつも久々に疾走できて嬉しいに違いない。
「このお馬さんのほうが、変態おじさん馬よりずっと早いね。やっぱりお前はざこざこだったんだあ。ざーこ、ざーアガッ!」
「舌を噛むって言っただろ」
リリムは黙って鼻を鳴らし、俺の太ももを強く殴りつけた。
そして数分。
「見えてきた」
広がる巨大な森。夜にも関わらずほんのりと明るく、木々草花は意思があるかのように揺らめいていた。遠くから何かの唸り声が聞こえる。超常渦巻く奇跡の空間。
通称精霊の白樹海だ。物質界にふらっと遊びにきた精霊たちが集う場所である。世界にはこういうスポットがいくつもあって、ここはその中でもわりと大きい方に分類される。
手綱を軽く引いて速度を落とす。
リリムは待ってましたとばかりに口を開いて捲し立てた。
「おじさんが揺らすせいでベロまだ痛いんですけどお。どうしてくれるわけ? ばーかばーか。おじさんのばーか。おじさんも舌噛んじゃえ。――ッキャアアッ!」
巨大な影が俺たちを覆い隠した。見上げれば、空の端から端まで届くような広大な翼を持つ生物が頭上をゆったりと飛行していく。ドラゴンだ。
「どうする? あれと契約しにいくか?」
「はああ? おじさんバカなの? ドラゴンなんて契約できるわけないでしょ? 奴隷だから世の中のことなーんにも知らないんだね」
「皮肉に決まってるだろ。お前が契約できるのはせいぜい犬っころだ」
「はあああああ? うっざ。女の子相手に大の男が顔真っ赤にして『皮肉だ』とかキモい通り越してウケるんですけど。ざーこざこ」
森の中を進んでいく。精霊たちは滅多なことでは人間に危害を与えようとはしない。問題なのは、傷つけようという意図がなくてもじゃれつきやほんの弾みで人間が死んじゃうことだ。
「ストップ。手頃なよわよわ精霊はっけーん。まずはこいつからね」
俺が馬を止めると、リリムはひらりと軽く飛び降りた。スカートがふわりと広がって着地。風で乱れた前髪を直しながら、木々の間を恐れなくずんずん進んでいく。
そこにはまんまるなウサギがいた。手のひらサイズの小さなピンク毛玉で、りんごに齧りついているが食事はまったく進んでいない。りんごがころりと転がってウサギは下敷きになり、すぐに這い出てまた食事に戻る。
名前は……なんと言うのだったか。当然のことながら平民と奴隷は召喚獣の名前を覚える機会なんてそうない。
戦闘奴隷である俺は比較的詳しいが、このミニウサギは精霊の中でもかなり低等級だったはず。つまり性質や戦い方を覚えるにも値しない雑魚ということ。
「この子可愛いじゃん。リリム決めた、ペットにする」
たしかにこのガキの好きそうな見た目だ。部屋にはこんなぬいぐるみがたくさんあってことを思い出す。
リリムがそいつを摘み上げ、手のひらに乗せる。つぶらな瞳がうるうるリリムを見上げていた。
「いい子ね、ざこざこうさぎちゃん。あなたの名前は――ポップルちゃん」
モプップやらポップルやら、破裂音ばかりで耳が痛くなりそうだ。俺に名前をつけさせろ。ゴンザレウルスか、ギルガメシオン。好きな方をくれてやるのに。
暫定ポップルちゃんは、しかし首を横に振った。どうやら納得していないらしい。
名付けこそが契約である。人が名を与え精霊が受け取る。擬似的な親子関係が成立し、世界を越えた絆が生まれる。そういうことだ。
リリムは唇をとんがらせて首を捻った。
「よわよわウサギのくせに生意気なんですけどっ。リリムの考えた名前が気に食わないとか、身の程しらずなんですけどっ」
「オスかもしれねえぜ。かっこいい名前を試してみろよ」
「……おじさんのくせにやるじゃん。じゃあそうだなあ――キママくん。あなたはキママくんよ」
暫定キママくんは首を振る。
「じゃあヨタカ」
「……」
「ニコビー・デビー」
「……」
「ババババーナ」
「……」
「もうっ! なんだったらいいのよ!」
リリムが叫んだ瞬間、ウサギの耳がピンと伸びて毛が逆立った。赤い目玉が強烈に輝き、超常の気配が舞い降りてくる。
「なによっ! 怒ったの? よわよわウサギが怒ったの? そんな小さくてリリムに勝てるはずありませーん」
「やめとけよ」
言い終わる前に、ウサギの体が膨らんでいく。風船に空気を入れるみたいに巨大化し、筋肉がピンク色の肌の下で隆起する。あっという間にゴリラじみた化物が完成した。
「ウギュー! ウギューギュー!」
死にかけの鳥みたいな鳴き声。一歩一歩リリムに迫ってくる。しかしリリムは叱られた子どもみたいに縮こまるだけだった。内股で膝をガクガク震わせて、猫背になって目蓋をぎゅっと閉じている。
「ごめんなさいごめんなさいリリムが悪かったですごめんなさい」
しかし精霊に謝罪の言葉など通じるはずもなく、ゴリラウサギは真っ赤な口を大きく開き――俺はそこでリリムの首根っこを引き寄せて――鋭い牙の隙間から青色の炎が噴出した。
「イヤアッ!」
リリムが俺に縋り付く。涙がぼろぼろこぼれ落ちていた。
「許してくださいもうしません生意気でごめんなさいごめんなさい」
業火はリリムの金髪の毛先をチロチロと炙り、少しだけ焦げ跡を残していく。
火焔放射がやんだと思ったらゴリラウサギはもとのミニウサギに戻っていた。ぴょんぴょこ草むらの向こうへ跳ねて姿を消してしまう。
「おい泣くなって。汚いだろ」
リリムは俺の服をティシュみたいにして涙やら鼻水やらを擦り付けてくる。
「こわかったんですけど。リリム怖かったんですけど。もっと早くに助けなさいよ、このざこ奴隷。かっこよく慰めるとかもできないわけ? ザコおじにはできないか。バーカ」
泣きじゃくりながらも減らず口をやめないその表情が示すのは恐怖だけではない。悔しさ、劣等感、無力感、そういうものも含まれている。
伯爵家の娘が最低等級の精霊とも契約できないというのは、確かによろしくない。強い精霊を従えてこそ貴族は貴族なのだ。
そしてリリムもそんなことは分かっている。だからこうして屋敷を抜け出して来たのだ。
散々煽ってきた生意気なメスガキの泣き顔を見てちょっぴり復讐心が満たされて、ちょっぴり嗜虐心が持ち上がってくる。いい気味だ。
「あ、ウサギが戻ってきた」
「ごめんなさいメスガキでごめんなさい許してくださいなんでもします生意気でごめんなさい。うう〜許じで〜」
「はは、嘘だって。もうどっか行った」
「――はあああ? おじさんのくせにリリムを揶揄うなんて……許せないっ!」
鋭い膝蹴りが金的に炸裂する。眩む視界の中で俺は崩れ落ちた。
なんとか目を開くと、俺を見下すリリムがいる。
それから白いパンツもあった。そのパンツはびしょびしょに濡れていて、液体はふとももまで垂れてストッキングさえも濡らしていた。アンモニア臭がつんと鼻をつく。
「――ッ! パンツ見るな変態っ!」
「オゲッ」
「もう帰る! 早く馬に乗れ変態おじさんっ! ――今日のことはぜんぶ秘密だから。泣いたこともお漏らししたことも、屋敷で言いふらしたら処刑だから」
リリムは涙を拭い、肩を怒らせて歩き出す。俺はなんとか立ち上がって追従した。
今夜は俺の勝ちのようだ。蹴られた痛みなんてすぐ引くが、精神的弱みを暴かれた痛みはそうそう消えない。
このガキを徹底的に分からせる日も近い。月明かりに照らされるリリムの後ろ姿を見て俺は確信するのだった。
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