第2話

 屋敷の中庭。


「おじさんおそいっ」


 リリムは腰に手を当てて口を尖らせている。その容姿だけは可愛らしい少女だが、中身は悪辣な貴族子女そのものだ。


「ご主人様を待たせるなんてどういうつもり? まだ躾が足りないのかなあ」


「そっちこそどういうつもりだ?」


 俺とリリムは一対一で向かい合っている。間に阻むものも縛る枷もない。少し離れたところにアイカが突っ立っているが……


 今なら数秒で首の骨を折れる。


「これは――殺してくださいってことなのか?」


「おじさん頭よわ〜い。リリムを殺せるわけないじゃん。だっておじさんは奴隷で、リリムは貴族なんだよ? しかも伯爵家。おじさんには分からないだろうけどすごく偉いんだから」


 バカなガキだ。奴隷は絶対に貴族に逆らわないと勘違いしている。きっとこの屋敷の中でさぞ丁寧に育てられたのだろう。


「今すぐにでも試してみるか? 俺がお前を殺せるかどうか」


「ご主人様に対してお前って――やっぱりお仕置きが必要みたい。あーあ。リリム、こんなことしたくないんだけどなあ。でもおじさんが生意気だからしょうがない。おじさんはリリムの一週間のお小遣いで買えるくらいの価値しかないって教えてあげる」


「はっ。俺の価値は俺が決める。ガキや奴隷商に決められるもんじゃねえ」


 リリムはニヤニヤしたままぱちんと指を鳴らした。そして口を開く。


「おいで、モプップ」


 大気が蜃気楼みたいにゆらめく。ゆらめきが裂け目になり、虹色に輝く空間の断裂から一匹の犬が這い出てきた。


 熊ほどに大きな犬。牙はナイフのように鋭く長く、白い毛の下でしなやかかつ巨大な筋肉が力を解き放つのを今か今かとと待ち望んでいる。


 それは召喚獣だ。


 精霊界から招かれし不滅の使い魔であり、物質界に生きる動物にはない不可思議の能力を操る。火炎を放ち、風を纏い、雷を落とす。まさに超常。


 召喚獣を喚び出す能力こそ貴族が貴族たる所以である。一流の術師と一流の召喚獣は軍隊にも匹敵する破壊力を持つ。彼らの鼻が伸びるのも仕方がないことといえるだろう。


 モプップ――そのサイズこそ適正であれば可愛らしい犬っころ――はリリムの足に頭を擦り付けて親愛の情を示している。


 そして俺は理解した。ここでもやはり戦闘奴隷はカブトムシなのだ。貴族のガキのお遊びに付き合わされて命を儚く散らすことになる。


 だが――俺は俺だ。俺っていうのはつまり、最強の戦闘奴隷。金色に輝く三本角の大型カブトムシである。


 ガキの召喚獣なんかに負けはしない。


「おじさん突っ立ってどうしたの? あ、分かった。怖くておしっこ漏らしそうなんでしょ。だっさぁ〜。リリムはもう何年もおねしょしてないのに。でも優しいから漏らしても許してあ・げ・る。ほら、お猿さんみたいにお庭の真ん中でズボン濡らしていいよ?」


「なあ、ガキ。ゲームをしようぜ」


 ぺらぺらとよく回るリリムの口がへの字に歪んだ。


「はあ? ゲーム? おじさんは何言ってるの?」


「俺がこのワンコに勝ったら、そうだな――」


 俺は別にこのメスガキを殺したいわけじゃない。殴りたいわけでも蹴りたいわけでもない。典型的なクズ貴族といってもまだ女の子だ。傷つけたって面白くない。だって俺はクズじゃないのだから。


 ただ理解させる。俺を舐めているのは間違っていたと理解させるのだ。


「お前は『生意気なメスガキでごめんなさい。二度と逆らいません』と言う。どうだ?」


「なにそれ。キモい〜。性癖丸出しなんですけど。そもそもそのゲーム、リリムにメリットがまったくないじゃ〜ん。だっておじさんはもともとリリムのモノで絶対服従なんだからモプップが勝っても得るものないし?」


「いいや、俺は絶対服従なんかしていない。お前が主人だと認めてないぞ。今すぐこの屋敷から歩いて出ていったっていいし、お前の鼻っ柱を叩き折って顔を真っ赤に染めたっていい」


「はあああああああ?」


 リリムは小さくて人形みたいな顔の真ん中にシワをぎゅっと寄せた。


「おじさんバカなの? 奴隷がそんなことして許されるわけないでしょ? おじさんはリリムのものなの! 逆らうのは許さないんだから!」


「ふん」


「人間が召喚獣に勝てると本気で思ってるの? 勝てないから貴族は貴族なんですけど。戦闘奴隷のくせに召喚獣を見たことないわけ? ざっこぉ〜」


「はっ」


「なによそれ! その目つき――やめなさい! 主人として命令しますぅっ! その生意気な目つきをいますぐやめなさい!」


 やめろと言われてもこれが生まれ持っての目つきなのだからやめようがない。というか生意気なのはお前の方だ。


「お前がゲームに勝ったら何でも言うことを聞いてやるよ」


「なんでもって――なんでも?」


「ああ。なんでも。望むことなんでも従ってやる」


 口に出して思った。また巷にあふれるエロ本みたいな台詞を吐いてしまったぞ。


 俺の葛藤もつゆしらず、リリムは腕を組み鼻を鳴らした。そしてモプップをわしわしと撫でる。


「さあモプップ、戦うのよ。あのキッモ〜い奴隷に、召喚獣の凄さを分からせてやりなさい。――殺すのはダメよ。さあ、行け!」


 モプップは尻尾を激しく振り回し、俺を獲物と定めるように睨みつけ――


 リリムの足元で寝転んだ。腹を空に見せてナデナデを要求している。


「ああもう! モプップ! 言うこと聞いてよ!」


 リリムは瞳を潤ませながら地団駄を踏んでモプップに呼びかけるが、犬っころは舌を出してハフハフ息を吐くだけだ。


 それを見て俺は理解した。俺が買われた理由、与えられた仕事ってやつを。


「なるほどね。そういうことか」


 このリリムというガキは召喚獣をまったく使いこなせていない。このままじゃ貴族の名折れ。同世代の貴族子弟はもっと強い召喚獣をもっと調教しているはず。


 つまり――俺を相手に戦闘訓練を積みたいのだ。物質存在である人間は召喚獣を本当の意味で殺すことはできないし、逆に俺が死んでも問題ない。


 リリムの父親、すなわち真の買主は俺が少女を傷付けるようなクズではないと正しく理解しているのだろう。今ごろ奴隷商のオヤジはホクホク顔で高級風俗にでも行ってる頃か。


「おいリリム。今日から俺がお前の先生な。戦いのイロハってもんを教えてやるよ。まずは――頭を下げて『師匠、よろしくお願いします』と言え」


 白い頬が真っ赤に染まる。羞恥ではない。憤怒だ。


「バカにして――ッ! モプップ! 腕くらいなら噛みちぎっていいわ!」


 主人の激情にあてられてモプップの目に闘志が宿った。二つの眼球が油断なく俺の一挙手一投足を観察し、毛は逆立って牙がむき出しになっている。そしてのしのし近づいてくるのだ。


 俺は両腕をだらりと下げて脱力した。剣などなくても戦いようはある。


 術師に制御されていない獣型の召喚獣など、大きくて異能を持つだけのただの獣だ。人間サマには敵わない。


 やはり犬は犬でしかなかった。駆け引きもフェイントもなく、ただ一直線に、同じペースで突進してくる。


 確かに巨体が人間の限界を超えた速度で迫ってくるのは恐ろしいが――


 俺はもっとヤバい召喚獣とも戦ってきた。


 突進に合わせてサマーソルト。鋭い蹴り上げは綺麗にモプップの鼻先を捉え、自身の速度も相まって決して軽くない衝撃を与えたはず。


 怯んでいるさなか、側頭部に回し蹴りを叩き込む。その一撃はモプップの意識を正確に刈り取った。


 白犬は白目をむいて倒れ伏せる。決着はあまりにあっけなく、あまりに一瞬だった。


 モプップはまるでガラス細工が砕けるみたいに。キラキラした水晶の破片が宙を舞う。休息のため精霊界に帰ったのだ。


「モプップ! お前っ、モプップをよくも!」


「人間は召喚獣に勝てないなんて決まりはねえ。このゲームは俺の勝ちだな」


「なによっ…… 近づいてこないでっ!」


 リリムは後退ろうとして、躓き転んだ。尻もちをついてイヤイヤと首を振るが、恐怖で足が竦んでいるのか逃げ出すことはできていない。


 熱っぽく潤んだ瞳が嗜虐心を煽る。急にしおらしくなった表情を見て、心が昂ぶるのを感じた。


 落ち着け。俺はロリコンではない。俺はサドでもない。落ち着くんだ。


 俺は勝者だ。


「お前、どうせ学校じゃ落ちこぼれなんだろ? だから屋敷で奴隷相手にストレス発散してるわけだ。家の中ではすべてが思い通りだけど、一歩出れば伯爵家の面汚し。どうりで歪むわけだ」


「は、はあ? そんなわけないじゃん。奴隷に分かるわけないでしょ」


 しかし口とは裏腹にその目は真実を語っていた。悔しそうに唇を噛み睨みつけてくる。おもちゃとしか思っていなかった奴隷に心の内を言い当てられてさぞ恥ずかしいことだろう。


 俺はメスガキの正面に仁王立ちした。


 リリムの目は俺の股間に吸い込まれる。俺の逸物は雄々しく怒張していた。これは性的興奮によるものではなく、俺は戦うとこうなってしまうのだ。


「な、なんで大きくなってるワケ……?」


「それは今は関係ない。さあ、ゲームは俺の勝ちだ。言うんだ」


「はあ? 言うわけないでしょ? そもそもリリムはやるとか言ってませんけど。お前が勝手に言いだしただけで――」


 片手でリリムの顔を掴む。


「触るなッ! は、はなせ! この変態! 変態! 誰か助けてッ!」


 聞き届けるものはいない。アイカは黙ってこちらを観察していた。彼女に聞こえないように、リリムだけに囁く。


 俺が本気だと教えてやるのだ。


「言うんだ。さもなきゃハラワタ引きずり出して鼻の穴から突っ込むぞ」


 もちろん脅しだ。俺はガキにそんなことはしない。


 しかしリリムは面白いように縮み上がった。体はピクピク震えて、瞳孔が広がっている。そして小さな唇を開き――


「生意気なメスガキでごめんなさい。二度と逆らいません」


 ほとんど聞こえないような声で呟いた。


 それが耳に入った瞬間、俺の心が浄化されていく。この戦いは俺の勝ちだ。ちっぽけな復讐を果たし、尊厳は守られた。


「今日はこのくらいにしておきましょう」


 アイカが寄ってくる。リリムの顔から手を離せば、そいつは「ひいっ」と悲鳴を漏らした。


「リリムお嬢様はお勉強の時間です。着替えてお部屋へ戻ってください。奴隷さんは――」


「ついてきなさいっ!」


 リリムが叫んだ。


 アイカが無表情のまま首を傾げる。


「ついてこい、とは?」


「こんなのでお前の勝ちだなんて思わないで。お前が奴隷で、リリムがご主人様だってことを分からせてやるんだから」


「へっ。やってみやがれ。言っとくが俺は絶対にお前なんかを主人と認めないからな」


「しかしお勉強の時間なのですが……」


「そんなの後回しよっ」


 リリムは立ち上がって目を荒く擦った。


「これは私、リリム・フォン・アーモンドの尊厳を賭けた戦いなんだから!」


 このガキにも譲れない何かがあるらしい。俺には想像もつかないが、こいつも幼いながらに矜持を背負っているのだ。


 だが俺が負けることはありえない。




▼△▼




 その日の夕方。


 俺は四つん這いになってリリムを背中に乗せ、馬の鳴き真似をしながら屋敷内を散歩させられていた。


 使用人たちの視線が痛い。


「おじさんはやっぱりざこでーす。リリムに逆らうことはできませーん。ざこざーこ。ヒヒーンって鳴きなさい。ほぅら、な、け!」


「ヒ、ヒヒーン」


「プーププププ。かっこわる〜。おじさん恥ずかしくないわけ?」


 このガキッ――クソッ!!


 俺の心の内側で激しく燃え上がるものがあった。闘志だ。戦士としての魂が告げている。「分からせよ。さもなくば死あるのみ」と。


 分からせてやるッ!

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