第2話 ミケーレ・バルダッサーレ
葉月は震えながらネックレスを首に近づけてみた。そんな事をしてどうなる確証も無かったが、とにかくそうしてみた。ネックレスのチェーンは細い。引っ張れば簡単に切れてしまいそうなほど脆そうに見える。だが、買った後で試してみたが、強めに引いてもチェーンは切れなかった。何度試しても切れなかったのだ。「意外に丈夫だ」と、その時は軽く思った葉月だったが、考えてみれば妙な話だ。そんな丈夫な鎖で、しかも着脱する仕組みも無しに何故ネックレスなのか――と。誰もつけられないではないか、という疑問が当然の如く浮かんだ。そんな丈夫なものを首に当てたからといって何も起きるはずはないと葉月は思った。
だが、それが葉月の首に触れた時、不意に首の周囲が温かくなるのを感じた。恐ろしさで葉月は目を閉じたが、それ以上何も起きないので恐る恐る目を開けてみた。手のひらに、ネックレスは無かった。
「あ…あれ?」
慌てて床を見回したが何処にも無い。テーブルに有った鏡を手にし、自分を映してみた。
「……!」
息を呑んだ。チョーカーと呼べるほど短いそれは、葉月の首でコインを揺らしていた。ペンダントトップがあってもチョーカーと呼べるかを葉月は知らないが。
触れてみても、やはり鎖に継ぎ目は無い。
「いやだぁ!」
恐ろしくなった葉月は叫び、鎖と首の隙間に指を滑り込ませるや思いきり引いてみた。首の皮に痛みが走った。切れそうな気配など微塵も無かった。
「やだぁ!取って!取って!誰か取ってよぉ!」
両手で引いても鎖は切れない。気が動転し、ベッドに飛び乗り壁に背を押し付けて叫んだ。
「いやー!なにこれ!」
「なにって、お前が一番詳しいんだろうが?」
「え?」
声は、さっきまで聞こえていたのとは別のものだった。もしも黄金が話すなら、そんな声ではないか?と思わせるような威厳に満ちたさっきまでの声とは違う。それは、もっと荒々しく重い男の声だった。
「だ、誰?ほかにもまだ何か居るの?どこ?人の部屋でなに集まっちゃってるのよ!」
葉月は部屋を見回した。十二畳のワンルームに隠れる場など無い。その隠れる場所の無い部屋の何処かから、笑い声が聞こえてきた。
「呆れたな。なんだよ、全然別人じゃないか。ホントにこいつがアラディアなのか?」
同じ名だった。先刻の声も〈アラディア〉と言っていた。名の様だが、葉月に覚えはない。
「お願いします…。出てきてくださーい…。もうやだぁ…」
ベッドの上でへたり込んだ葉月は、目を瞬いた。奇妙だった。なぜ今まで気付かなかったろう――と思った。〈それ〉は、六十センチ四方の小さなテーブルの向こう側に座っていた。正確には座っていたというよりも伏せていた。その姿は――。
「い……犬?」
〈それ〉の目は、見たことも無いほど深い黒を見せている。それも、眼球全体に。闇を宝石に変えた様な眼球が葉月を見つめて動かない。目だけでも異様だが、室内で風も無いというのに微かに戦ぐ豊かなタテガミはプラチナの輝きを持っている。表情は波の無い海ほどに静かだが、途方もない深さをを感じさせた。そして何より葉月が目を奪われたのは、それの脚だった。左右それぞれ三本ずつある脚が器用に折りたたまれていた。
「何でもいいがアラディア、時が惜しいんじゃないのか?憑代を受け入れたコインの気配は連中にも気づかれるんだろう?おい?アラディア、お前何を震えてるんだ?」
「い…い…」
「?」
「犬が喋ってるー」
「誰が犬だ!お前、本当にアラディアなのか?いや、そうだな、アラディアに違いない。その首輪がそうだと言っているのだから」
葉月はクッションを抱き締めて防御に使いながら〈それ〉を凝視した。〈それ〉は、困った様に葉月を見つめ、ファサリ…と一つ、三本ある尾を振った。
[ ミケーレ・バルダッサーレ ]
イタリア北部最大の街・ミラノ。
ファッションの一大発信地として夙に名を馳せる大都市には古い建造物たちに混ざってハイテックな近代的ビルも多い。
何気なさの中にも一様にファッショナブルな若者達は、それぞれの個性を謳い、古い石畳を闊歩し、街に溶け込むことで全体を作り上げている。
ミラノにはそんな現代と近代、そして古代が混ざり合う独特の雰囲気がある。
そのミラノと、そこから東に二百五十㎞ほど行った先に広がるアドリア海に面する水の都市・ヴェネチア。この二つを結ぶ主要道路が高速道路トリノ~トリエステ線だ。二都市の中間に位置する街ヴェローナは文豪ウィリアム・シェークスピアの書いた戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台となった場所としても名高い。
この街に高速道路が差し掛かると、巨大なジャンクションが見えてくる。進路を北に向かう高速『デル・ブレンネロ』に乗り換え、イタリアでも一二を争う巨大湖の『ガルダ湖』沿いに進むと、右はオーストリア国境へと進み、左は自然豊かな観光地テクセル・グルッペ自然公園に辿り着いて行き止まる。
遠くにエッツタールアルプスを頂くその行き止まりの街メラノの警察署に勤務するミケーレ・バルダッサーレは浮かない顔で自分の机周りを片付けていた。
小太りで口髭をはやし、銀髪をオールバックにした眼鏡のこの初老の刑事に、巡回から戻った同僚刑事ガブリエッラ・ヴィスコンティが背後からハグをした。齢はミケーレの半分にも満たない。
「なによ、ミケーレったらもう店じまい?幾ら定年が来週だからって、もうちょっと仕事してもバチは当たらないわよ」
振り返ると、この三十路手前の女刑事は豊かな肢体を窮屈そうに革ジャンに包んでチュッパチャプスを咥え、笑っていた。
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