峯田:憑座になる

 タクシーが揺れるたびに、胸のざわめきは大きくなっていく。市の郊外に向かう道は、やけに静かで、どこか重苦しい雰囲気をまとっていた。スマートフォンに表示された地図の位置に到着した頃には、午後の12時を過ぎていた。目の前に、木造の二階建ての一軒家が建っている。表札には「羽田」と書かれていた。


 羽田は無事だろうか。何か、ただならぬことが起きているのだろう。


 不安と警戒が混じる胸の内を押し殺し、ゆっくりと玄関へ歩み寄った。引き戸に手をかけると、鍵はかかっていない。ガラガラと立て付けの悪い音を立てて扉が開いた。息を詰めながら、家の中へ足を踏み入れる。


 家の中は薄暗く、異様なほど静かだ。足音だけが響く。鼻を突く異様な匂いが漂ってきて、俺は思わず鼻を押さえる。嗅ぎ覚えのある匂いだが、今は気にしていられないと廊下をまっすぐ進んだ。心臓が鼓動を早める。奥の部屋の襖が少し開いている。その隙間からそっと中を覗くと、俺はその場で凍りついた。


 羽田とその父親が倒れている――片手には、俺とのチャットが表示されたスマートフォンを握ったまま。父と子の二人暮らしだったのだろう。


 羽田の姿はどこか儚げで、それがなおさら現実感を遠ざけていた。俺は息を呑む。そこに横たわる彼らは、もう二度と動くことはないだろう。


「瀬文くん、元気?」


 静かな声が背後から聞こえた。


 凍りついた体が、今度は恐怖で震え出す。振り返ると、そこには玄関を背に峯田が立っていた。手には、鈍く光る血染めのナイフが握られている。俺は息を詰めた。


「久しぶり、瀬文くん」


 峯田はにっこりと笑っている。その顔立ちは、アルバムで見た過去の彼女の面影を残してはいるものの、何かが明らかに違っていた。天井の裸電球が明滅して峯田のその表情を照らし出す。明らかに獲物を追い詰める生き物の目だ。


「お前は、もう昔の峯田じゃない……憑座になったんだろう?」


 俺の声は震えていたが、同時に確信に満ちていた。しかし、峯田は小さく笑って首を振った。


「よく知ってるね。でも、少し違う」


 彼女は楽しげに言葉を続けた。「私は私のまま。この『子』と一緒に生きているだけ」そう言ってお腹を撫でた。そこに膨らみはない。しかし、その瞳の奥には炎が宿っていた。それは強い意志の炎だと直感した。羽田、筧、松ヶ崎――すべてが、峯田の意志で巻き込まれていたのだ。


「深山くんと私の『子』よ。」


 その言葉で、俺は気づいた。深山の自殺のニュースでコメントをしていた恋人が、峯田だったのだと。なぜこれまで気づかなかったのか。生前、深山は恋人のことを話したことはなかった。


「深山くんが死んだ日、出社する前に最期のキスをしてくれたの」峯田は一歩、間合いを詰めてくる。表情は変わらない。


「その日から、私も深山くんみたいに、すごく明るくなれたの。そしてわかっちゃったの」羽田の返り血を浴びた彼女は、闇の中に浮かぶ亡霊のようだった。その亡霊の赤い唇が、静かに言葉を紡ぎ出す。


「ああ、私の中に愛するものが宿ったんだなって」


 俺は息を呑んだ。


「深山は三年前に死んだ。君の体に何が宿っているのかは知らないが、子供ではないことは確かだ」


 峯田は狂ったように笑い声を上げた。「子供?私がそんなこと言った?バカにしないで!」峯田は表情を歪め、怒りに満ちた顔に変わった。


「その災厄は、人に取り憑き殺して生きているんだ。君の愛した深山だって、そいつに殺されたんだ」


 俺は必死に言葉を紡ぎ出した。


「私ね、深山くんを愛していたの。でも、亡くなってからわかった。あの深山くんの性格も、表情も、愛情もすべて――深山くんのものじゃなくて、深山くんを操っていたこの子のものだったんだって」


「つまり、愛していたのは深山じゃなくて、そいつだと?」


「ええ……」赤い唇が静かに微笑む。


「そんなの、狂ってる」


「幸せになるために狂う必要があるのなら、私は喜んで狂うわ」


 峯田のは静かに笑う。その言葉の響きには揺るぎない決意が感じられた。


「この子はずっと生き続けるの。深山くんよりも前から、ずっと。そしてこれからも。私の中で生き続けるのよ」


 彼女は、自分の体に宿る何かが人間ではないことを理解しているのだろう。それでも、それを愛しているのだ。彼女はまたお腹を撫でた。


 薄暗い木造の一室に浮かぶ亡霊――峯田は、狂気の輪郭をより鮮明にしていく。

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