とどまりなさい

「なぜ羽田を殺した?」


 俺は絞り出すように声を発した。喉を締め付けるような怒りがこみ上げるが、それ以上に、身体をぎゅっと締め付けるような恐怖が勝っている。


「新しい憑座なんて必要ないもの」峯田は平然と答えた。


 俺は眉をひそめ、彼女の動きを追う。峯田はナイフをちらりと見せつけるように持ち直し、その口元には歪んだ笑みが浮かんでいる。


「私はね、ずっと一緒にいたいの。この『子』を愛してるのよ。他の誰かに渡すわけにはいかないの」


 彼女の言葉は狂気に満ちていたが、その裏には深い執着が見えていた。まるでかつて深山が「とどまりください」と祈ったように、峯田もまた何かを失うことに怯えている――だが、彼女の場合は死への恐怖ではなく、この『子』への病的な愛情が駆り立てている。


「憑座になりそうなものは、みんな排除してきた。この『子』はもう誰かのものにはならない。私がすべてよ」


 峯田のナイフが冷たく光り、俺の胸を射抜くように輝いていた。背中に嫌な汗が伝い落ちるのがわかる。


「グループチャットの奴らは元から身体がダメだった。ここまでやる必要はなかったかもしれないわね……」


 彼女は視線で羽田を示し、薄笑いを浮かべた。筧も、松ヶ崎も、彼女の狂気に巻き込まれ、命を落としたのだろう。峯田はすでに幾度も殺しを繰り返していた。


「お前は狂ってる。こんなことやめるんだ」

俺は叫んだが、峯田には届かない。彼女は自分の腹を撫で、愛おしそうに続ける。


「この子は瀬文くんの身体が欲しいみたいね。でも、私が先に殺さないと……」


 峯田の声は冷たく、心の奥底まで響いてくる。


 俺は後ずさりし、羽田の死体を横目に見た。どうする? 逃げ切れるのか? 胸が早鐘のように打ち鳴り、心臓が破裂しそうだった。


――今しかない。生き延びるには、今、動くしかない。


 冷や汗が背中を伝う。峯田がナイフを振り上げ、俺に勢いよく襲いかかってきた。恐怖で体が凍りつきそうになるが、本能的に身をかわした。鋭い刃が空を切り、鈍い音を立てて壁に突き刺さる。


「やめろ、峯田!」


 叫んでも、峯田は笑みを浮かべたまま、ナイフを再び構え直す。俺は荒い息をつきながら後退したが、彼女は一歩も引かずに迫ってくる。ナイフの刃が肩をかすめ、鋭い痛みが全身を襲った。俺は彼女の腕を掴み、押さえ込もうとしたが、その力は異常に強かった。まるでリミッターが外れているかのようだった。


「こんなことしても無駄だ。お前だってわかってるだろう?」


 俺は必死に問いかけたが、峯田は冷笑を浮かべたままだった。


「この世に意味のあることなんてないわ。ただ、この『子』を誰にも渡さない。それだけ」


 峯田の顔には喜びと狂気が混ざり合っていた。羽田の血がナイフから垂れ、俺の額に滴り落ちる。俺の力ももう限界だ。――ここまでなんだろうか……。


 その時、峯田の力が突然抜けた。彼女は咳き込みながら、俺から距離を取った。


「この『子』……少しずつ私から出てきちゃうのよ」


 彼女が手で口を押さえた。その指の間からは細長い虫が蠢いていた。それは、まるでミミズのようにぬらぬらとしていて鼠色の体表を持ち、のたうちまわりながら前へ進んでいた。


「なんだ、これは……」


 俺は言葉を失った。数匹の虫が地面を這い回っている。峯田はその虫を見下ろし、無造作に踏み潰した。


「あなたは、この『子』を災厄だと思っているでしょう?でも、それは違うのよ」


峯田は潰れた虫を愛おしそうに靴裏で撫でた。かつての深山もこの虫に操られたのだろうか。


――ハリガネムシという寄生生物がいる。それは食べ物を通じて宿主に寄生し、脳神経系を操作して自らを水辺に誘導し、死へと導く……。俺の目の前にいるこの虫も、それと同じ寄生生物だ。この騒動の元凶は、この虫だったのだ。


 峯田に殺されるか、それとも新しい宿主になるか。全く意味を成さない二択だったが、その二つの道しか残されていないのならば……人として死にたい。俺はそう思いながら目を瞑った。


 しかし峯田の体が急に震え始めた。そして口から血と共に無数の虫が湧き出した。


「……ダメ……私に……とどまりなさい……」


 無数の虫が俺に向かって這い寄ってくる。峯田は地べたに這いつくばり、必死で虫をかき集めていた。虫たちが溢れ出し、彼女の体が限界に達していることを告げているようだった。


「この子……誰にも渡さない……絶対に……」


 峯田の言葉は断片的になり、彼女の体から次々と吐き出される虫が、決壊したダムのようだった。


「もう私も限界のようね……」


 峯田は震える手でポケットからライターを取り出した。俺は、家に入ったときに感じた違和感を思い出す。鼻を突いたガソリンの匂い……彼女はすでに家全体にガソリンを撒いていたのだ。


「やめろ、峯田!そんなことをしたら――」


「私は、もう誰にも置いてかれたくないの」


 彼女は安らぎに満ちた表情でライターをかざし、火を灯した。


「これで終わりよ……」


 その声は震えていたが、どこか満足げだった。虫たちは次々に炎に包まれ、身を捩りながら炭と化していった。


「ボッ」という音と共に、火の塊が爆発的に広がり、部屋全体が炎に包まれた。


 熱気が肌を焼くように襲いかかってくる。俺は反射的に襖を蹴飛ばし、和室へと飛び込む。羽田の遺体が目に入ったが、運び出すことはもうできない。心の中で詫びながら、駆け抜ける。


 煙がじわじわと俺の肺に押し寄せてくる。

俺は姿勢を低くし、窓へと駆け寄った。窓を開け放ち、冷たい外の空気が吹き込んだ瞬間、俺は思いっきりその空気を吸い込んだ。


 羽田邸の中はすでに灼熱の地獄と化していた。黒い煙が天井を覆い、足元に熱が迫ってくる。


 振り返ると、峯田は炎に包まれながら、まるで我が子を抱きしめるように自らを抱きしめ、祈りの言葉を呟いているようだった。彼女は、業火の中にあっても、長いしがらみから解放されたかのように穏やかだった。


 俺はその姿を見送り、外へ這い出した。羽田邸が燃え上がる音が耳の中で鳴り続けていた。玄関の炎はすでに手の届かない高さまで迫り、家全体が火に包まれていた。


 俺は、それをただ眺めることしかできなかった。


 何人もの命を奪い、宿主を操ってきた寄生虫――しかし、それすらも凌駕し、自らの運命を選び取った人間がここにいた。崩れゆく家屋の前で立ち尽くす俺の耳に、遠くからサイレンの音がじわじわと届く。


 その音は、ここ数日の出来事や、犠牲者たちの顔を思い起こさせる。これから、新たな憑座が生まれることはもうないはずだ。


 燃え盛る炎の中で聞こえた、微かな祈りの言葉だけは忘れることはないだろう。

彼女は祈っていた。「とどまりなさい」と。

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