Passage of time -時の流れ-

憑座よりましだったんだ――って」


 羽田がそう言った直後、通話が唐突に途切れた。


 一瞬、俺は戸惑った。数秒間、スマートフォンの画面を見つめたまま、頭が止まる。ついさっきまで話していた羽田との連絡が、突然途絶えたのだ。何度かかけ直してみても、応答はない。胸の奥でじわじわと焦燥感が広がっていく。


 目の前には、琥珀色のアイラモルトが入ったグラス。俺はそれを手に取り、氷が控えめに揺れる音を聞きながら一口流し込んだ。スモーキーな香りが鼻腔をくすぐり、ピートの風味が広がるが、それでも胸のざわめきは消えない。ふっとため息をつき、重い視線を宙に向けた。現実がじわじわと崩れていくような感覚に包まれていた。


 もう一度グラスを口に運ぶ。


「もうそれ、空っぽだよ、瀬文くん」


 不意に声がして顔を上げると、五十嵐義京がアイラモルトの瓶を手に持って立っていた。にやけた表情はいつも通りだ。確かに、グラスには氷しか残っていなかった。


「その件、深入りしない方がいいんじゃないか」


 五十嵐はゆっくりとグラスにアイラモルトを注ぎながら言った。「そのグループチャットも、退会した方がいい」


「都市伝説じみた話があんたの好物だろ?」軽く皮肉を込めて返す。


「さすがにね、人が死にそうな案件は趣味じゃないんだよ。それに、これ以上ここの客が減るのは困るしさ」五十嵐は肩をすくめ、冗談めかして笑った。


「羽田くんだろ?今の通話、彼だったんだろ?」


「ああ、突然切れた。峯田が憑座だとか言ってたんだ。」俺は先ほどの会話を思い返しながら答えた。筧、松ヶ崎、そして羽田。次々に連絡が途絶え、しかも羽田は通話中に突然、音信不通になった。


「他の奴らも、やばいかもしれない……」自分でも信じられないぐらい小さな声で呟いた。


「瀬文くんも、ね」五十嵐はさりげなく言い放った。


 無意識にグラスを握り締めた。心臓が早鐘のように鳴る一方で、頭の中は急速に冷静さを取り戻していく。今、やるべきことは一つ――情報を整理することだ。


 深山の自殺、筧から聞いた加藤陽介の話、そして羽田が語った峯田紗希の異様な言動。それらすべてが、何かしらの形で繋がっている――松ヶ崎が話していた「奉納の道」にまつわる昔話――それこそが、この謎を解く鍵だ。


憑座よりましになるな……」


 その呟きを聞いた五十嵐は、軽い口調で説明を続ける。


「憑座とは、神様の依代になる人間のこと。または、物怪や悪霊を追い出すための生贄。そして今回は、おそらく後者だね」


 頭にもう一つの言葉が浮かび上がる。筧が話していた「よしまいにする」という布方のじいさんの言葉だ。何かが繋がった。


憑座よりまし……『よしまい』か……」


 この二つの言葉が、単なる別物ではなく、時間と共に変化したものだと気づいた。古い言葉は、忌まわしいものを直接表現することを避けるために変形されることがある。「よしまい」という言葉も、その過程を経たものだ。


「布方のじいさんも、加藤も、深山も……」


 声が次第に小さくなっていく。彼らは表向きには事故や自殺とされているが、やはり実際にはもっと根深い、得体の知れない力に絡め取られていた。「奉納の道」に記された昔話――名もなき『厄災』――彼らは、それに取り憑かれていたのかもしれない。


 忘れ去られたはずの何かが再び甦り、人々を次々に蝕んでいる。もしかしたら今は峯田紗希に取り憑いているのかもしれない。次に狙われるのは誰なのか――その不安が胸の中でじわじわと広がっていく。


「憑座とよしまいね。確かに、言葉が変化していったものかもしれないな」五十嵐は俺の言葉を察したように頷いた。


「じゃあ『とどまりください』ってのはどういうことだろうね?」


 五十嵐はグラスを磨きながらぼんやりと続けて言った。「とどまらなかったら、どうなるんだろうね」


――何かがとどまらなかったから、死んだのか?


 頭にある考えが浮かぶ。もし「厄災」のような存在がいて、誰かを憑座に選び、新たな憑座に移るときに元の人間が死ぬとすると――その時、死を目前にした人間は「とどまりください」と願うのではないだろうか?


 再び深山のことが思い出される。焦点の定まらない目、額に滲んだ冷や汗――そして「とどまりください」と呟いていた。あれはたしかに、死を目前にした男の最後の祈りだった。そして、その願いは届かなかった。深山は、ビルの下で潰れて死んだ。首も手も足も不自然に曲がり、まるで真っ赤なちりがみのようにぐちゃぐちゃに潰れた姿で。


 その時、スマートフォンが振動した。素早く手に取る。羽田からのチャット通知がポップアップされていた。彼の実家と思われる位置情報が添付されている。そこへ行けと、俺に告げている。羽田だろうか。それともそれ以外の誰か。どちらにせよ次こそは――助けられるかもしれない。


「どこ行くんだい、瀬文くん?」席を立った俺を見て五十嵐が尋ねる。


 財布から2000円を取り出し、テーブルに叩きつけた。


「釣りはいらない。羽田のところに行く。」


 言い捨てるように言い、裏通りへと続くドアを開けて外へ出た。


「……代金、足りないんだけどな。」五十嵐は微笑みながらぽつりと呟いた声が微かに聞こえた。

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