松ヶ崎:むかしばなし
図書館の蔵書にあった郷土史の中に、ある郷土研究家が記した口伝の話を見つけたの。その一編に『奉納の道』が記されていたから読むね。
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私は、この町に古くから伝わる言い伝えが、今もなお深く根付いていることに気がついた。特筆すべきは、この物語には具体的な地名や風景の描写が含まれている点だ。
多くの口伝は、次世代に知恵や教訓を伝えるために、比喩的に語られることが多い。しかし、この物語は違う。具体的な台詞や詳細な描写が豊富で、まるで誰かが実際に体験した出来事を忠実に再現しているような印象を受ける。そのため、私はこの伝承が単なる寓話ではなく、実際の出来事を反映しているのではないかと考えるに至った。
以下に、その不気味な物語を現代訳で記す。どうか、この謎めいた伝承の真実に触れてほしい。
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むかし、今のこの町がまだ小さな村であった頃の話。
村外れの池のほとりに、一人の男が住んでいた。村人たちは「暗い男」と呼んでいたが、その名前は今も伝わっていない。彼はいつも俯き、誰とも言葉を交わさず、黙々と仕事をしていた。裏山で畑を耕し、静かに慎ましやかに暮らしていたが、村人たちとの関係は希薄で、誰も彼に近づこうとはしなかった。彼もそれを望んでいるようだった。
だが、ある年、猛暑の日照りが続き、池が枯れるほどの酷暑が続いた日に、男は突如として変わった。それまで誰とも関わらなかった男が、村人に笑顔で挨拶をし、まるで別人のように明るくなったのだ。最初こそ、村人たちはその急激な変化を不気味に感じていたが、次第に彼を受け入れるようになった。そして男は村一番の美しい娘を妻に迎え、幸福な日々を送るようになった。
村人たちは、もはや「暗い男」のことなど思い出せないほど、彼の変化を当たり前のように受け入れていた。男は村で顔を合わせる者すべてに笑顔で「元気か?」と声をかけ、模範的な夫婦として村中から羨ましがられる存在となっていった。男と妻の生活は、およそ三年間、何一つ波風立たず、平穏に過ぎていった。
だが、運命の日は突然訪れる。
男はある晩、狩りに出かけ、山奥で獲物を追っていた。しかし、急な斜面を駆け登っている最中、足を滑らせて転げ落ちてしまった。斜面の途中で岩に打ちつけられ、体中が傷だらけとなり、骨も折れたという。だが、妻を得てからの男は精力的に働いていたため、体が鍛えられており、幸いなことに命に別状はなかった。
村に運ばれた男は、医師の手当てを受け、一命を取り留めた。妻は、命が助かったことに胸を撫で下ろし、深い安堵を感じた。
しかし、その翌日から男の様子は変わり始めた。
男は、ぼそりと「私にとどまりください」と、まるで誰かに語りかけるかのように呟くようになった。村人たちはその奇妙な言葉に、不安を感じ始めた。妻が不審に思い、夫に問いただすと、男は重々しい声でこう言った。
「お前は、憑座にはなるな」
その言葉は、以前の明るい夫のものではなく、かつての「暗い男」の声だった。妻は恐怖に震え、それ以上問い詰めることができず、ただ家を出るしかなかった。
次の日、男は村外れの裏山で、自ら腹を切って命を絶った。その遺体は、体中に新たな傷があり、まるで自らを引きずったような跡が残されていた。男は骨が折れていたにもかかわらず、裏山の誰も寄り付かない一角まで、自らを引きずりながらたどり着いたのだという。村人たちが発見した時、男の頬は涙で濡れていた。その姿に、村人たちは得体の知れない恐怖を感じざるを得なかった。
その死は、ただの不運や気の迷いによるものではなく、何か異常な力が働いたのではないかと、村中に噂が広まった。村人たちは「名もない厄災」が男に取り憑いたのではないかと恐れ、彼の霊を鎮めるために、山の一角に祠を建てた。そしてその道を『奉納の道』と呼び、村人たちはそこを通る時に「とどまりください」と唱えるようになったという。
それから、村では不思議な自殺が何度も起きるようになった。どれもが、あの「暗い男」がたどった道を歩んだように、急に性格が変わり、その後自ら命を絶つという不気味な変化だった。村人たちは「災厄がまだこの地に根深く残っているのではないか」と恐れている。
――以上が、この「名前のない昔話」という物語だ。
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ねえ、これ、深山くんに似てない?私も最初にこの話を読んだ時、あまりに似ていて鳥肌が立ったの。
あれ? 筧くんから電話……。ちょっと待って、一旦終わらせるね。
グループ通話が終了しました。
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