それだけで。

MIGIWA3

記憶。

覚えている、それは一見何の変哲もない、当たり前のことだ。

けれど、その当たり前が本当に嬉しかったんだ。



母は患った末期の脳腫瘍の影響で重度の記憶障害を起こすようになった。

家族のことや自身のことは覚えているらしいのだが、昨日起きた出来事をほとんど忘れてしまうらしい。


「それだけ?」と思うかもしれないが、それが厄介なのだ。

昨日という名の過去は蓄積していく。

母は覚えられない、知らない、わからない、理解しようとしても次の日にはわからなくなる、それが日を跨ぐごとに増えていくのだ。

それは恐怖でしかない、と少なくとも私は思う。


母は優しい人だったから、見舞いに来てくれた家族や友人を覚えていたかったし、何を話したのかも覚えていたかった。

もちろんお世話をしてくれてる看護師さんのことも覚えたかったと遺品として出てきたノートには書かれていた。

きっと覚えられない申し訳なさや、悲しさに泣いた日もあったのだろう。

母はそういう人だから。


いつしか、昨日のことだけではなく、家族のことさえ忘れてしまうのではないかと不安だったかもしれない。

母は人一倍家族想いだったから。


少しでも昨日のことを覚えていようとしたのか、母のホスピタルの自室からはノートが出てきた。

上記で出てきた遺品のノートはこれのことを指す。

途中までは母の筆記で、母が体すらまともに動かなくなってきてからは看護師さんの字で日記が綴られていた。


昨日何を食べたか、誰と会って、何をしたか。

他愛もない、大事でもない、そのささやかな情報が、記憶が、母にとってはとても大切だったのだ。


さて、そんな母が一度だけ自力で覚えていたことがあった。

その頃の母はもう余命行く場もなく、喋るのすらままならなくなってきていた。

それでも何とか命を繋いでいた。


いつものように見舞いに行き、母は覚えられないと分かりながらも、覚えていなくてもいいから、その場限りでも母に笑顔になって欲しいからと私はいろんな事を話した、

その時の話の中に「父と銀だこを食べた」という話題があった。


「銀だこ食べたいね」


微かな声だったし、途切れ途切れの言葉だった。

けれど、私の耳には届いた。

母が私の話に反応したのはその時ではすでに珍しいことになっていた。

さらに言えば、言葉を返して、何かを求めるなんて、いつぶりのことだろうと思った。


「わかった、なら今度買ってくるよ」


そう返した、でも母が覚えている事を期待してなかった。

だから次に会いに行ける時には用意していなかったのだ。

正確には忙しくて用意できなかったのだが覚えていないだろうと思った。


「ごめんね、忙しくて銀だこ用意できなかった、次までには用意するね」

「うん、楽しみにしてる」


その言葉にひどく驚いたのを覚えている。

私が先に銀だこの話題を振ったとはいえ、まるで約束を覚えているような返事に衝撃を受けたのだ。

だって、母は昨日のことが覚えられない。

少なくとも前回から三日以上は経過していたから覚えている方が不思議なのだ。

しかし、私はこの言葉を受けて、次に会う時には本当に銀だこを用意した。


看護師さん監督のもと、母は銀だこを食べた。

その穏やかな顔が、嬉しそうな顔が本当に嬉しかった。


後日、看護師さんから連絡があり、母が銀だこを完食した事を知った。

それだけ楽しみにしていたのだと、覚えてくれていたのだと気づいて嬉しくなった。


覚えている、それは一見何の変哲もない、当たり前のことだ。

けれど、その当たり前が本当に嬉しかったんだ。

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