3−2 賽の目

 なんとも形容しがたい不思議な空間だ。

 高貴で煌びやかな社交界とも、悪意はびこる裏の世界とも違う。

 長い時間を生きる人ならざる者が、ただ退屈をしのぐためだけに用意した遊戯場。

「盤面の魔女……は今日は不在みたいだね」

 古くから種族の垣根を越えて親しまれてきた遊戯盤を司る魔女が個人所有するこの城には、古今東西のあらゆる遊戯盤が収蔵されており、また実際に遊べるという。

 その門戸はとても広い。パートナーが以前にも訪れたことがあれば、どのような履歴を持つ者でも入ることができるのだ。ある程度この空間に慣れたあと、今度は望む者のパートナー役を買って出て小遣い稼ぎをする人間もいるのだと、来る途中にシハースィから聞いた。

「ま、いてもいなくても、変わらないけど」

 なんとも無秩序で、だからこその不自由さで。

 そういった縛りすら愉しむことのできる者だけがここで遊びに興じている。長命な生き物特有の酔狂な娯楽かと思えば、純粋な人間もちらほらいた。

(ここで遊んでみせろ、ということか)

 主ホールへ足を踏み入れたそのときからふたりに注がれている視線は、まだ・・、ただ見目のよい男女に対する好奇心。そのあえかな好意は、魔術師が遊戯の盤面に立った瞬間、鋭い牙へと変化をとげるだろう。そういう場所だと、肌でわかる。

 ぴたりと身体を寄せてくるシハースィの表情は涼やかだ。

 それでも、彼が月光の竜らしい性質でこちらの本質を暴き、それが自分を愉しませるものであるか、判断しようとしているのは明白だった。

 気を抜けばそれまで。頼れる者がいないのはいつものこと。

 目的を達成するのは大前提で、ただそれだけでは終われない。

 望むところだと、魔術師は思う。

 愉快な物語を紡ぐのだ。

 このようにうってつけな舞台、利用しない手はないではないか。

「ん、あのテーブル」

 シハースィが示したのは、目立たない端のテーブルについた二人の男。今からゲームを始めるところらしい。

 そのうちの一人へ向くシハースィの視線がすっと輪郭を持つのを、魔術師は見逃さなかった。

(あれが標的か)

 貴人であることを装いに隠さず、かといって下品な華美さはない。皺を刻んだ柔和な笑みと年月を重ねた優美な身のこなしは、国という舞台において重要な役を担う人物であると感じさせ、また実際にそうなのだろう。

 ――モノクルをかぶせた右目と、アスコットタイに包まれた首の皮膚とが、人間の持ちえない鮮やかな色をしていることを除けば。

 それは、ひたりと滲む月光の黄色に、冴え冴えとした湖面の青。

 月光の竜と、同じ色だ。


 心の奥に、シハースィに対する恐れと高揚が灯る。

 人でない者は、自分たちの要素を奪うものを決して許さないという。それでも、ただ目を細めるだけに留めた高潔さと、獲物が自ら遊戯盤に乗るのを待っていた残虐さを目の当たりにして。

 この思考を、もっと知りたい。

 あらためてそう決意し、続いてもう一人に目を向ける。

「ローブの男は」

「賽の目、だね。呼んではないけど。予感でもしたかな。面白い魔術師だよ」

 標的である初老の貴人とは打って変わり、ごたごたと装飾のついたローブをまとった、いかにも怪しげな魔術師という風貌の男だ。

 長い髭や髪に加えて深くフードをかぶっているせいで表情は見えず年の頃はわからない。異様な雰囲気を醸しながら、それを張りぼての虚勢に見せないところが、シハースィに「面白い」と言わせるだけあると感じさせる。

 ざっとこれから相手をする二人の観察を終え、魔術師はシハースィを丁寧に伴いながらテーブルへ近づいた。

「なかなか愉快そうな組み合わせだな。これから始めるところなら、混ぜてもらおうか」

「いいだろう。面白い運命がみられそうだ。あんたもいいか?」

 余裕を持つ者の寛容さで、賽の目は魔術師が加わることを歓迎した。続いて尋ねられた貴人は「そうだなあ」と人好きのする笑みでこちらをじっくりと見る。

 そこに下卑たものは混じっていない。だがこの男が娼館で狼籍をはたらいたことを考えれば、ただ心の内に隠すのがうまいというだけのこと。そのうえであえてシハースィの顔に見惚れたような凡人の真似をしてみせるのだから、なかなか厄介な相手であることは疑いようもなかった。

「お嬢さん……というのは失礼かな。貴女もいっしょに遊んでくれるなら、歓迎しよう」

 魂胆の見え透いた誘いに、しかしシハースィはやわらかく頷く。

「ん、いいよ」

「おい」

「だめ?」

「ったく……」

 魔術師としてはほぼ本心からの反応だったのだが、貴人と賽の目はそのやりとりを仲睦まじい男女の戯れと認識したらしい。生温かく、それでいて、だからこそ崩しがいがあるというふうな視線が向けられる。

 それもどうなのだと思いつつ、誤認という罠を早々に仕掛けられたのはよかったのだろうと、魔術師は考えることをやめた。


 賽の目が取り出したのは魔術具のサイコロだ。

「俺が親をつとめるゲームでは、これを使わせてもらう」

 好きに見てくれというが、このような場で隅々まで確認するのは野暮というもの。回ってきたそれに、魔術師は軽く魔術を通し、サイコロ自体がこちらを損なうものでないことだけを確認した。シハースィと貴人も、おおよそ同じような手順を踏んで確認する。

「カードのルールは変わらないのかい?」

「ああ変わらない。四人ならば、脱落者のルールも適用するとしよう」

 脱落者は、多人数で遊ぶ際に順位をつけやすくするためのルールだ。

 敗者は完成した役に応じて対価の量を調整できるが、脱落者は手持ちがどうあれ全量を支払わなければならない。貴人から月光の竜の要素を取り返すなら、狙うのは彼の役無しか脱落だ。

「それから、最初にこのサイコロへ対価を宣言してもらう。誰がなにを身の内に隠しているかわからないからな。賭け事は賭け事だという強制力を持たせるための手順だと理解してくれ」

 誰であれ、負ければ賭けたものを必ず失う。

 そういう魔術をサイコロが持っているということだ。ぼんやりした顔で説明を聞くシハースィを見ながら、なるほどと確信を深める。

(……賽の目がくることも、ある程度折り込み済みだったな)

 それぞれがサイコロに触れ、その魔術を通して賭けるものを決めていくと、最後に回された貴人が「おや」と呟いた。

「賭けられないようだ」

「対価がつりあってないんだろう。俺は常に自分の運命を賭けてるからな」

「運命……」

 貴人がわずかに見せた驚きは、どちらだろう。

 この界隈で賽の目の存在が知られているのなら、詳細までは知らずとも、生半可な対価ではいけないという認識はあったはずだ。

 ならばそれは、ぎりぎりの線を攻めきれなかった、自らの読み違いに対するものか。

 ここに参加しているのは、シハースィという月光の竜。彼が対価になにを選んだとしても、それは大きな事象となる。そうして必要な格が段違いにあがっているとは予想していなかったに違いない。

「……貴女はなにを賭けたんだい?」

 おそるおそる、貴人はシハースィに訊ねる。

 しかし返ってきたのは、あまりに簡単で、重すぎる対価。

「僕自身、だよ」

「は?」「……は?」

 魔術師と貴人の、思わずといった反応が、かぶった。

「だって、君、僕のこと欲しがったでしょ?」

 貴人に軽やかなを乗せた表情を向けるシハースィ。

 おい、とふたたび出そうになった反応は飲み込む。これ以上の誤認は不要だ。

「……ずいぶん、思い切ったことをするのだね。ならばこちらも相応のものを、か……」

「ま、そういうこと。ね、君は賭けられたよね?」

「ああ――」

 自分が対価の格を引き上げれば、人間に賭けられるのは命に近いものか、他の参加者に望まれているものくらいしかなくなると、わかっているのだろう。

 これ見よがしに赤いピアスへ触れるシハースィの指先。 

 ゆえに魔術師は、集まる興味の視線を挑戦的な笑みで弾いた。こちらとて、手ぶらで帰るつもりはない。

「だが、いま教えてやる理由はないな」

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