1−3 魔女とは
なぜこうなったのだと、魔術師は心のうちで嘆息する。
彼が跪いているのは、女王の間。
ただの人間が簡単に入れるような場所ではない。じっさい前回、宵星の竜の噂を聞きつけてやってきた魔術師に対応したのは、事務仕事の妖精だった。
今回はいちおう依頼達成の報告というかたちになるので、もう少し上の者のところへ通されるだろうとは予想していたが、それがまさか女王と対面することになるとは、想定外だ。
空間のなかで、夜がしぶいていた。
常に夜であるというこの国においても、もっとも深く夜の満ちる場所。魔術を展開し続けなければすぐに押し潰されてしまいそうな圧力で、夜があった。
(……またとない機会では、あるが)
本来の依頼を受けたのが月光の竜であることの意味を、もう少し深く考えるべきであった。他の要素と混じらない、純粋な月光なのだ。夜空を彩るひと柱ともいえる一族の者が、夜の女王と接点を持たないはずがない。
夜の女王。
夜のすべてを司る、強大な力を持つ魔女。
幾重にも重なる星砂の垂れ幕は安らかに揺れ――その向こうに、彼女がいる。
夜が帳を下ろすように、星の流れるように、淡く光る垂れ幕が少しずつ取り除かれていった。
「……シハースィか?」
「うん。あと、人間もいる」
念入りに準備をし、万全の状態でことに臨むのが人間の魔術師のやりかただ。
しかし今の彼に、夜の魔女とやりあうだけの手札はない。
「そう」
それでもこの機会を無駄にすることはできない。
繊細で大胆。静かで、賑やかで。闇であり、また光でもある。
夜ほどに、相反する側面を多く持つ事象はないだろう。
そのすべてを持つ夜の魔女もまた、多面的な女であった。そう、一目見ただけで魔術師は感じた。
(……これが、真に力を持つ魔女か)
イブニングドレスに身を包み、革張りの椅子にしどけなく沈む女。
長い髪は、夜空の流れるように背もたれを伝い、星を埋め込んだような銀色の瞳には、欲望のままに背徳を知りたいと思わせるような妖艶さと、触れてはならぬもののような神聖さが同時に浮かんでいる。
ああ、
余計な緊張をまとわぬよう、魔術師は腹を使って声を出した。張り上げるわけではないそれは、ただ夜にしんと響く。
「明星の憂いは取り払われた」
「ふうん? 人間の手には余ると思ったが、上手くやったのね」
まるで失敗するのが当然だったというような言葉に苛立ちはしない。長命な魔女にとっては、人間一人の生き死になど些末なこと。
魔術師は、大袈裟に見えない程度に軽く目を伏せ、それを褒め言葉として受け取った。
ふ、と隣から息の溢れる音がする。
「かしこまる必要はないよ」
早々に臣下の礼を解いていたシハースィが、魔術師の考えを見透かすように笑ったのだ。
彼は「ね、チェサニャ?」と首を傾げながら夜の魔女のもとへ近づいていく。その歩みには気軽さすらあり、あらためて、魔術師は人のかたちをした竜を観察した。
毛先の波打つ青い髪に、簡素なシャツ姿。やわらかな声。魔術師が警戒を緩めたことはないが、シハースィの持つ雰囲気は、人間に近い親しみやすさを感じさせるものだ。だが、こうして夜の魔女と並べばよくわかる。
これもまた、人間の理解など及ばないところで生きる者なのだと。
(とりあえず、今の俺に可能なこと……すべきことは)
魔術具のピアスから宵星の竜の亡骸を掴み、差し出す。紫がかった瞳は光を失ってもなお美しさを損なわず、また茶金の鱗もくすむことなく艷やかなままだが、尾の先端が一部切り取られており、それは魔術師の手に残されていた。
「こちらの取り分だ」
「ほお……それだけを?」
「残りは月光からいただく」
夜の魔女は、確認するようにシハースィへと目を向けた。ひとりとした夜の視線を、月明かりが肯定の意でもって受けとめる。
「……そう」今度は納得したらしく、彼女は黒い爪をかつりと鳴らした。「
しかし、その言葉は、もうすでに魔術師へは向けられていなかった。
とうぜんそうあるように、答えるのは竜だ。
「もう知ってるんじゃないかな」
「そなたはすぐにそう面倒がるのね」
(……間違えは、しなかった)
置き去りにされた魔術師は、自分自身に舌打ちをしたい気持ちをなんとか抑えた。
今はとにかく、考え続けなければと。
対価をふんだくろうとしても、逆に謙遜して少なく見積もっても、夜の頂点に立つこの魔女は機嫌を損ねたに違いない。だから、間違いではないなずだ。
ただ、それだけだった。
慎重な人間が、人ならざる者との関わりかたを心得、正しく向き合っただけ。
そのようなものに魔女が興味を持つはずがない。
(俺が立ち入ろうとしているのは、こういう世界なのか)
とうぜん、
自分が少年だった頃を思う。周囲に流されるしかなかった当時を。あの頃とは違う、こうして魔術師として這い上がってきた自負はあるが、まだ、足りていなかった。
人と、そうでない者とのあいだには、それだけの隔たりが存在していた。
(いや……だからこそ、人間としてあの魔女の物語に跡を残せたなら)
ルールで縛れば、竜にも手が届くことはわかった。しかしその中で動かすことができるのは、けっきょく、ある程度のものまでなのだ。特等の生き物を動かしたいと願うなら、ルールの中でありながら、常識をとっぱらう必要がある。
「あまり夜の子を虐めないことね」
「そんな面倒なことしないよ。遊ぶだけ」
チェサニャと会話するシハースィの横顔を見る。
まずはこの竜だ。気まぐれそうな彼の興味が少しでもこちらへ向けられているうちに、その思考に触れておきたい。幸い、どうやらこれから自分は、遊ばれるらしいのだから。
思えば、前回は季節ひとつぶんかかった夜の国への道のりが、娼館にあった扉ひとつで済んだ時点で不自然だった。ただの人間が大きな力を手に入れるとき、そこには支払うべき対価が発生する。それを月光の竜はわかっていて、こちらを試したに違いない。
間違えはしなかった。最初の、大事な一歩だ。
ならば今後も間違えないことは前提として、たとえば、シハースィを飽きさせない存在になれたなら。
そして。
(……この魔女の興味すら引けないようではな)
口の端を歪めるように、魔術師は笑った。
夜の魔女は、あれから一度もこちらへ視線を寄越さない。
長らく魔術師が抱えてきた目標。それを叶えるための力が未だ圧倒的に不足していることを知り、彼の腹の底で、「魔女の物語に登場する」ということの意味が、価値が、ずしりと明確な質量を持ちはじめる。
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