1−2 晒す者
まずは、毒杯の騎士がひと口飲んでみせた。
それから盃を渡された魔術師が、魔術の痕跡を確認するように指で盃をなぞり、毒の気配はなさそうだと口をつける。
「ほう、これはなかなかだな」
「だろう? ――あ、おいっ!」
そこからはいっしゅんだった。
同じ盃から酒を飲んだことに目をつけた竜が、その尾で巻き取るように魔術師の手から盃を奪ったのだ。大きな口を開け、そこへ酒を流し込む。二人が止める間もなく嚥下し、ざらりとした舌で口の周りを舐め、それから、崩れるようにして倒れた。
「ぐっ……おのれっ、騙したな!?」
前脚で自分の喉を掴み、腹を左右に大きく揺らしながら苦しむ竜。
しかしそれを見下ろす二人の顔には、つい先ほどまであったはずの、不意をつかれたような驚きの色はない。
「ただの不注意だろ」
「竜の弱点をそのままつくだけだと、生命力そのものが上回る可能性も高そう、か……改良の余地があるな」
(すべての毒が、すべての生き物に等しく効くわけではない)
一人が竜殺しの毒を試作し、一人が試す場を提供しただけ。
そうして宵星の竜の命が消えていくのを、二人の人間と
月光の角度が変わる。
木々の影はかたちを変え、またその濃さを増す。
月光が、近づいてくる。
「あれは、無理そうだな……」
「おい――」そんな彼に、魔術師は倒れた宵星の竜を示す。「お前の取り分は」
「死者を殺す毒は、まだ作れてないんだ」
淡い笑みを浮かべた騎士服の男は、濃霧に紛れてすぐに見えなくなった。
「変な子だね」
唐突に声をかけられ、しかし魔術師は、宵星の竜の死体から目を離さず、あくまで世間話のように返答した。
「その場にいる者を殺せる毒を持っていないと落ち着かないんだろ」
「ふうん」
声の主は、そこに隠された緊張感に気づいただろうか。
魔術師には判断しかねる自然さで、言葉が続けられる。
「だからさっき、受け取らなかったんだ」
(やはり――)
最初から見ていたのだと、魔術師は確信する。ならば、なにも隠すことはできないと。息をひとつ吐き、声のするほうへ、
できる限り表情の変化に気をつけてもなお、その竜は美しかった。
冴え冴えと青い鱗は、月夜の湖面のよう。呼吸にあわせて動く表皮が霧の中でさざめき、神秘の森の一部と化している。そしてなにより目を惹くのは、静かに夜を照らす月光の瞳。
視線で力任せに突き刺してくるでもなく、ただ。
「僕が君につきまとったら、さっきの人間は君の前に現れなくなるかな。それとも、僕を殺す毒を作るかな」
「さあな」
戯れのような言葉選びが、この竜がひと筋縄ではいかないことを示している。
*
「で、それ。僕の獲物なんだけど」
「本来の担当はなかなか働かないと聞いたが?」
予想していなかった返事に、シハースィの瞳はひたりと魔術師を照らした。
「へえ……新入り、ではなさそうだけど。なにが欲しいのかな」
「月光を」
「誤魔化さないんだ」
「晒す者には無駄だろ」
「よく知ってるね」
月光のもとにすべては晒される。悪意に満ちたものほど、より強く。それを上手くかわせるということは、夜によく馴染む資質を持っているのだろう。
(人間と関わるのは面倒だけど、少し遊ぶくらいならいいかも)
本来の担当と言われた通り、シハースィがここにいるのは、敬愛する女王の依頼があったからだ。ある宵星の竜が星のきらめきに擬態して毒を撒き散らし、夜空を汚しているということで、それを駆除することが目的だった。「明星を削ろうとする不届き者がいるそうよ」――そんな憂いの言葉ひとつで動かされたやりとりを依頼と表現するのが正しいかどうかはさておき。
しかしシハースィは、どちらかといえば高みの見物を好む方向で享楽的な性格であり、いくら女王の望みといえど自ら進んで行動することは好まない。また、楽しいことのために面倒事をさっさと片付けてしまおうという精神も、持ち合わせていなかった。
どうせ月光のほうが強いのだから少しずつ侵食すればよいとのんびりしていたところで、あとからやってきた人間によって対象の竜は駆除された。
代わりに働いてくれた礼くらいなら、してもよいだろう。
「どれくらい?」
「混じり気のないものを三筋ほどいただこうか」
「妥当だね。いいよ。うちにおいで」
そこでいっしゅん息を詰めたようすの魔術師に、くすりと笑みを溢す。
「月光の要素、欲しいんでしょ。ぴったりな場所がある」
「……はあ、まずはこれを処理してからだな」
地面には、宵星の竜の死体が転がったままだ。
宵星。月光と同じく夜に連なる者である。ならばと、シハースィは少しばかり揺さぶってみることにする。
「夜の国――」
無駄だと知りながらも隠された人間の警戒心が、たったひと言で、瞳に浮かびあがった。
シハースィはそれをおかしく思いながら続ける。
「夜の魔女のところ、だね。だったらなおさら、うちに寄るといい」
警戒を緩めぬまま、了承のため息が返された。
魔術師も同じ街から来たのだろう。ファッセロッタの街は近い。背に乗せるでもなく、移動の魔法を使うでもなく、シハースィは出会ったばかりの人間と、歩いて戻ることにした。そうして街外れの歓楽街に着く手前で、溶けるように人のかたちをとったシハースィに、彼がどこか惜しむような気配を見せたのが愉快だった。
(大きな竜が、好きなのかな)
打算のない、むしろ警戒心よりも強く隠された憧れの視線に気づいてしまえば、シハースィとて悪い気はしないのだ。
下品にならない程度に華美な装飾を施された構えの店、その裏口から入る。一般客の目につかない部分ではあるがこちらも煌びやかに飾られた廊下をゆく。
高級店ゆえ音や気配が漏れることは決してないが、歓楽街の一等地。ここがどういった店であるか、いい歳をした男がわからないはずはあるまい。ただ異性との交わりには興味がないのか、あるいは慣れきっているのか、人間は落ち着いたようすでシハースィの後ろをついてくる。鋭く整った顔立ちや隙の少ない振る舞いからすると引く手あまたに違いないだろうが、どちらかというと、この店の商品そのものというより、店内に満ちる竜の気配に興味が向いているようだ。
とある一室に案内すると、もともと薄かった人間の気配はさらに薄まった。部屋の奥ではさらさらと砂の流れる音がしており、またそこから濃密な夜の薫りが漏れてくる。ここでは、人間の力など砂のひと粒よりも淡い。
特に説明はせず、また魔術師の反応を見ることもなかった。
さあと流れ落ち続ける砂のカーテンをくぐっていく。
「はい、到着」
「……は?」
躊躇することなくシハースィのすぐあとに続いたらしい魔術師は、流砂を抜けた先の光景に、呆けたようにわずかに口を開いた。
それはそうだろう。湿潤な気候のファッセロッタから一転、ここはもう、星の砂原に浮かぶ夜の国なのだ。
乾いた風に、星明かりや、楽しげな音楽が漂ってくる。魔術師ははっと後ろを振り返った。その黒い瞳がしっかりと
(やっぱり、ちゃんと手順を踏んでた)
今くぐってきた、流砂の扉と呼ばれる魔法具は、資格を持たざる者を通さない。彼が少しも削られることなく扉からの入国を許されたのは、一度この国を正式に訪れ、きちんと筋を通したからだ。
弱い生き物は、多少知識を身につけているほうが遊びがいがあるというもの。このようなところで躓かれてはつまらない。
(さて――)
これから彼は、どのような本音を聴かせてくれるだろうか。
「行こうか」
夜の城は目前だ。
おそらく魔術師は、夜の魔女に直接会っていない。それは、宵星の竜を駆除したという報告であれ、人間が一人で訪れる限り変わることはなかっただろう。
しかし、月光の竜であり、女王から直接指示されたシハースィが同行しているなら話は別だ。
夜という、とてつもなく大きな事象を司る魔女。
世界の半分とも言える「夜」の奔流を目の当たりにしたとき、人間の深い欲など、簡単に流れ出てくるに違いない。
ふ、と笑みがこぼれ落ちる。
(楽しみだ)
月光の竜は、夜に潜む者の真実を暴くことを生業とするのだから。
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