第二章 愛には躾を
2−0 ルファイのレストランにて
「紅葉鮭のムニエル、燻製仕立てでございます」
給仕がガラス製のクローシュを持ち上げると、煙がそろりと流れた。
「たしかに紅葉鮭だな」
「紅葉鮭だね」
夜の魔術師と月光の竜のふたりは、自分の目でそれぞれ皿の上のムニエルを見てそう評する。
給仕を疑っているわけではない。この鮭は高慢ちきで、一般の鮭と間違えられることをとにかく嫌う。食べる前にきちんと断言しておかなければ口の中で爆発してしまうのだ。
名前の通り、紅葉色の鮭なのだが、そもそも鮭というのはおおよそ同じような色だ。さらには凶暴なので生食ではほとんど出されず、調理すると香りすら一般の鮭と変わりなくなる。見分けはつきにくく、かといってむやみやたらとすべての鮭を食す前に宣言していると魚卵の呪いをかけられてしまう。
そのような不便があるにもかかわらず料理に使われるのは、非常に美味であり、また祝福に富んでいるからだ。
なかでも燻製仕立ては、煙を使った魔術を展開することで食べる本人がその場で祝福の質を調整できるのでよい。さっそく魔術師も、手にしたカトラリーのわずかな角度によって煙に魔術を引き、込められた要素の取捨選択を行っている。
魔術に関しては人間や妖精向きであるため、シハースィはとくに自分の手を加えることなく紅葉鮭にナイフを入れる。口へ運べば、煙に紛れてバターのふくよかな香りが鼻腔をくすぐった。咀嚼するたびに広がる、鮭らしいからりとした旨味。そのままでも十分に良質な祝福が含まれていることに感嘆しながら、流麗な所作で魔術の扱いと食事を同時進行させる魔術師を眺めた。
(さすが、手慣れてる)
それもそうだろう。嗜好品としてではないが、彼は喫煙者で、普段から人ではない者の要素を扱う際にはさまざまな煙草をふかし調整しているのだ。
そうした土台があるからこそ、複雑な魔術をそうと感じさせない表情でこなし、純粋に料理を味わうことができる。
「紅葉の色づきは悪いと聞いているが、しょせん鮭は鮭ということか」
「さすがに本物の紅葉に影響はされない――って、そんなこと言って怒られないかな」
遠回しの褒め言葉ではあったが、なんといっても自尊心の高い鮭である。調理されてもなお食べる者を呪う力を残しているのだ。聞き耳を立てていやしないかとシハースィが手をとめると、目の前の人間は嚥下したばかりの喉をくつりと鳴らした。
「宣言という条件を達成した時点でこちらに害なす力は削いである。食事の会話も好きにできないようでは、意味ないからな」
「……君、そういうところ雑だよね」
「言ってろ」
この人間の愉快なところは、なんでもそつなくこなし、また高尚なものしか嗜まないように見えて、その実、俗っぽいことや泥臭いことにも平気で手を出す柔軟さだ。目的のために手段を選ばない人間は大勢いるが、彼の場合はそのバランスが絶妙なのだとシハースィは思う。
(それに、つまり今は、僕との食事を楽しみたいってこと)
ささやかに向けられた好意。本当にこの男は、ひとを悦ばせるのが上手いものだ。
とにかく器用で、他人の好意を簡単に転がしてみせ、隙あらば手札を増やすような人間だと理解していても。
夜の魔術師が心底大事にするものは、その内側に入ってしまえば、案外わかりやすい。
「そういえば、うちの子たちに『最近来てくれない』って嘆かれるんだけど」
「用がないからな」
「だよね。でもシャーラェは、用がなくても大歓迎だって」
「用がないなら用はないだろ」
「伝えとくよ。たぶんいつまでも待ってると思うけど」
まるで躾けられた獣だな――そう嗤う魔術師に、シハースィは「いまだに信じられないよね」と自分の従妹の従順っぷりに慄きながらも同意する。
夜の魔術師の持つ手札には、策略的に得たものもあれば、思わぬところから降ってきたものもある。それらを吟味し、必要ならば手もとに置き、不要ならば記憶にだけ残しあとは切り捨てて。
その線引きの鮮やかさは、面白い。
最初に見たのは忘れもしない、宵星の竜を始末した対価として月光の要素を与えることになったとき。
晒す側にいるはずの月光の竜が、本人も知らぬ欲を暴かれたあの夜。
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