白川浩介は変化を望まない

煤季春利

日常の終わり

 バイトも終わり、男は鈴虫の声が部屋の中にまでよく聞こえる、風呂がついていることだけが長所と言えるようなアパートに帰ってきた。風呂には起きてすぐお湯を入れておいたので、疲れた体を無理やり動かし浴場に向かう。風呂に入ると、なぜ入りたくなかったのか理由がわからなくなるほどの満足感に包まれる。そうしてこの常に浮き足立つような腐りかけの日常で唯一の幸せを感じていると、ふと男は、そういえば外は暗かった、0時は過ぎてしまっているのだろうかなどと自分以外の現状に思いを馳せるのだった。この街の大半の人間が真っ当に生きて、既に寝るかテレビにを見て娯楽を傍受するやらして時間に有意義さを見出している。なのにも関わらず、風呂に入った時のことしか記憶に残っていない自分は…と視点が廃退的な自らの日常に戻ってきたことに気づき男は、考えが常に同じことを巡り続けるこの現状に、一種の悟りのような自己満足を感じ、その現実からの逃走とも取れる思考に身を委ね続けるのを男はここ数日繰り返している。


 風呂から上がり、下着だけ着ると、疲れからか半ば夢を見た状態でソファーに寝ころぶ。初めはうるさかった鈴虫の声ももう慣れた様子だ。そうして男が完全な眠りにつくと、彼は決まって学生時代の夢を見る。

学生時代ほど人生の記憶の大半を占める時間はないだろう。少なくとも男はそう考えている。眠っている時だけは人生で最も充実感を感じていたあの日が蘇ってくるのであった。


「うぅん。」

と、背も小さくネズミのように前歯の出た、見るからに弱々しい少年が困った様子で声を上げる。

そうそう、今村だ、こいつはちょっと強気に話すだけですぐに反抗心がなくてってしまう、何かと便利なヤツだった。なんて思っていると、つい昔の調子で口から言葉が漏れ出てくる。

「ちょっと奢ってくれたっていいじゃないか。なぁ、頼むよ。」

そう言っていつも高校からすこし離れた自販機まで今村を走らせて、当時気に入っていた缶ジュースを学校のある日は毎回飲むのが日課だった。

「どんな味だったっけな…今村!さっさとこっちに来い!」

こうしてすこし怒鳴ると今村は、本当にネズミのような低い体勢でチョロチョロと走ってくるのも思い出す。

なんだかそれがおかしくて、いつ見てもゲラゲラと下品な笑いが口から飛び出すのだった。

そうしてジュースを今村の手から取り上げて飲む頃には、味も思い出さぬまま場面はかわって、部活動だったりの将来のことなんか気にせず自分中心で世界が回っていた記憶が頭を流れていった。


(しまった)

男は起きて時計に目を配ると、自分が犯した失態に気がついた。時計の針は10時を指している。疲れのあまり気にも留めなかったが、彼が帰ってくる時にはもう午前2時は過ぎていて、自分の想像よりも早く時間は流れていたのだと今知ることとなったのだった。

まずは朝食を食べるべきか。いや、もう昼食の時間だったか。などとすこし目が覚めてきた頭で考えを巡らせていくうちに、今日のバイトの遅刻は確定してしまった。

だが、不思議と男にはそれに対する罪悪感が浮かばずにいた。それどころか、自分がいなくても社会は回るという信頼をたかだかコンビニごときに寄せ安心してしまっている。彼は心底社会を舐め腐った、人間のクズなのだった。


(どうするべきか…いや、俺は十分に今まで頑張ってきた。なのにこんな生活を送っていることがおかしいんだ。)

と、そんな言い訳を心の中で30分ほど繰り返す。

こうして彼、白川浩介はバイトをバックれることを決めたのであった。

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白川浩介は変化を望まない 煤季春利 @harutoshi_suzuki1812

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