第2話 7月30日

そして、僕はそのバイトを辞めた。というか、失踪をした。


綿毛が目の前を通過した時、僕は歩きながらふと我に返った。

いつからか、視界を必要としない無の中へと歩き続けている。そんな気がした。



一体いつからだろう。僕に分かることは何一つ分からないということしか無くなっていった。


3年前に居なくなった彼女はよく耳鳴りが鳴り止まないといっていた。

「分からないの。でも、最近なんかさ、鳴り止まない耳鳴りみたいな、それにぼんやりとする感覚っていうのかな。なんか、全てに現実感がさ、そう、希薄、なんだよね。死んでるみたいでさ、不思議だよね。」


彼女も平沢ももう僕の手には届かないような遠くへ行っていってしまったのだろうか。


インターネットから完全に消された、知らない誰かの文章はもう、何があっても見ることはできない。その書いた本人と連絡が取れなければ。或いは本人ですらそれを忘れているかもしれない。むしろその方が多いのかもしれない。


彼女は、「葉」と呼ばれるハンドルネームを使った、ネット上の誰かが書いた日記を僕が読んでいた時、ふと目の前に現れた。


そして、その1ヶ月後に音も立てずに消えていった。完璧な消え方だったから、その事がどうしても忘れられなかった。本当に消えてしまったのかも分からないくらいに、何も残さずに。


僕は一度だけ彼女の顔をレシートの裏に描いた。もちろん、暇つぶしに描いたボールペンの肖像画だ。それでも、今では記憶以外にそれしか確かに彼女がいた痕跡はそんざいしない。


彼女は名前を、小林ユメといった。

ユメ、の漢字の部分がどうしても思い出せなかった。むしろ、名前なんて思い出したところでどうにもならない気がした。彼女ならそんなヘマはしないだろう。煙のように完璧に消えてしまったのだ。



ポールモールという煙草が無くなってから、何年がたったのだろう。


ただ、好きだった叔父がそれを吸っていた。吸っていた理由はそれだけだった。


別に特段美味しいという訳でもない。

以前、ラッキーストライクがいちばん美味しい煙草だと僕に語った人がいる。そして、彼のいつも吸っている煙草はマルボロだった。そういうものだ。



なにか文章を書くことについて、僕の叔父はこう言っていた。


何も無いような人間が文章を書くには、とにかく浴びる様に本を読むしかない、と。

シンプルだが叔父に言わせればそういうことらしい。


叔父の言う言葉はシンプルだが何故か小さかった僕の心に残り続けている。


彼は、10数年前から匿名で文章を書いては投稿していた。もちろん、出版社関係の誰からも目には止まらなかったが、それでも僕は叔父の書く文章が好きだった。


叔父は、両切りの煙草を吸っていたが、死ぬまで肺は元気なままだった。よく晴れた日の午後3時に、酔っ払って階段の二階から落ちて頭を打ち死んだらしい。


叔父が本当に親切だったのかは怪しい部分もあったが、その言葉自体は何故か心に残っている。


「人には親切にしろ」


叔父の書いた文章を一度だけ読んだことがある。

それは、小説といっていいのかよく分からなかったが、それでもそれが叔父にしか書けないものであったことは確かだった。



解決不能な問題は存在しない、と叔父はよくいっていた。

なぜなら、それはもはや問題ですらないからだ。

確かそういう理屈だったと思う。


あくまで、解決不能ならそれはそういう仕方ないものとして受け止めるほかない。


きのこの山とたけのこ里、と試しに言ってみた。あれは問題だと思う?

あれは歴史上の未解決問題だ。叔父は真面目な顔をしてそういった。


今になってやっと叔父が世界をどういう目で捉えていたか、少しわかるような気がする。



公園のベンチに座ると、靴の裏が酷く磨り減っていた。買ったのが何時かも思い出せないようなコンバースだった。

それは、純粋な消耗だった。


もしかしたら、彼女は純粋に消耗したのかもしれない。きっと考えすぎなのだろう。

一体、1人の人間が純粋に消耗してきえるというのがどういう事なのか上手く想像ができなかった。彼女は見掛け倒しのように存在していて、最後の消耗と共にその姿をこの世界に映し出すのを辞めたのかもしれない。


でも、もしそうだとして、それは僕にとって問題なのだろうか?


レシートの裏に残されたまま、どこかへ消え居た1人の少女の純粋な消耗について、何をとえばいいのかも分からない。

何一つ分からないということしか分からない、とはこういうことなのかもしれない。



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