@yureru_higasa

第一話 7月21日

1か月も持たずにバイトを辞めたのはこれが7回目だった。昼にレタスのサンドイッチと煙草とコーヒーを買ったあと、僕はそのバイトに行かずに公園の方向に向かって歩いていた。


そもそも、その状況では辞めたという表現は不適切なのかもしれない。

バイトから失踪という形を取って逃げ出している、と言った方が正しいのかもしれない。



人間には、失敗から何かを学ぶ人間と、その失敗をより高度な失敗へと昇華させる人間がいる。


以前バイト先で同僚だった同い歳くらいの平沢という男は、どちらかというと後者の人間だった。


彼はきっと彼なりに、失敗する度にそこから何かを学ぼうとしてはいたのだろうけれど、そのせいでかえって何もかもが上手くいかない。そんな風にみえた。


脳の器質の問題なのかも知れないと、彼は一度だけ僕に漏らしたことがある。他人と脳の器質が根本的に違うのかも知れない。或いは劣っているのかもしれない、と。


僕は平沢と喫煙スペースでたまに話す程度だったが、それでも誰も知らない人といるよりは平沢がいてくれた方がありがたかった。



試しに数えてみただけでも、彼は1週間のうち3回、客に渡す釣り銭を間違え店長にそれを精算してから報告していた。

そして、彼とシフトの重なる日は1週間のうち3日だった。つまりそういうことだった。

それにミスをそれだけのこととして忘れられればいいのだが、彼は何かをさっぱりと忘れることはなかった。


そして、レジを交代する時に、釣りの勘定が合わないのはいつもの事だったが、最近その間違い方が以前より酷くなっているようだった。


店長は気にするなとなだめていたが、段々と苛立ちを隠さないようになり、最終的には平沢くんには緊張が足りないと説教をした。


寧ろ、彼に足りないのは緊張より落ち着きのような気もしたが、彼はそう言われて少し震えながら、すみませんと小さく返事をして、タイムカードを差し込むと部屋を後にした。


喫煙スペースに居合わせた時、彼はこういっていた。


「よく、自分がミスをすると、そばに居合わせたある人は困ったような顔をし、ある人は仕方ないから気にすんなという顔をする。でも、ミスをずっと続けると誰もが困ったような顔をするんだ」


ふーん、と僕は言ってみた。


「まぁ、いつも何も無かったみたいな顔をしてるけど、きっと気を使ってくれてるんだよな」と彼は云った。


僕は曖昧に頷いたが、自分でもどうなのかよく分からなかった。話を誤魔化すために煙草に火をつけると、少しだけそうかも知れないという気もした。


もしかしたら、平沢は関係ないのかもしれない。いつからか、何も存在しなかったというような考え方をする癖が、自分の仕草に染み付いているような気がしてきた。


そして、僕はライターを忘れた彼に、ポケットから青いライターを渡した。


「お前、良い奴だよな」と笑いながら零すと彼は煙草に火をつけてどこか遠くを見ていた。



一度なにかに傷つくと、その傷を庇おうとして他の部分が少しずつ損なわれる。

そして、その傷ついた記憶が無意味に増幅されることによって、真っ当な判断や認識能力が段々と薄れて存在を消していく。


本当のことは分からない。けど、僕と平沢は結局の所、似たもの同士なのだろう。そんな気がした。



僕は彼に返す言葉がみつからずに、煙草を消してぼんやりと壁にもたれてため息をついた。


傷跡が額に残っているいつもの黒猫がのそのそと歪な歩きかたをして、こちらへとやってくる。そして、何をするでもなくそこに座り込むと動かなくなった。


平沢はその猫にそっと近づいて頭を撫でようとした。しかし猫にとっては、平沢の少し仕草が不審に思えたのだろう。


黒猫は威嚇のような声を出して、平沢から逃げるように近くに止めてあった車の下に隠れてしまった。


頭に傷からみるに、他の猫か人間にやられたのだろう。野良猫として生きるのも案外大変なのかもしれない。


僕はそう平沢に話しかけてみた。すると、彼は頭を掻きながら


「なんで俺は、何もかもこんなに上手くいかないんだろうな」


小さくそう零すと、ふと我に返ったように彼らこちらを振り向いて「ほんと、なんでなんだろうな」と苦しく笑った。


それが、彼が僕に残した最後の言葉だった。

いつも見かけだけ気丈な平沢は、その日を最後に僕と店長の前から姿を消した。そして、彼の母親の言葉を借りれば、平沢は行方不明になった。



何もかもはすり減り減ることに対して抗うことは出来ない。肉体は否応なしに衰える。そのことから逃げることは出来ない。


死者だけはすり減ることがない。寧ろ、こちらがすり減る度にその輪郭を浮き上がらせてこちらへと1歩ずつ近づいてくる。


その進行の速度の問題だと小さな頃通った歯科医は言っていた。

僕はなぜかその言葉を鮮明に覚えている。


「上手く行けば、その進行を遅らせることはできます。けれど、虫歯ができる前に戻るって訳にはいかないんです。もちろん、削れば虫歯はなくなりますが歯はもろくなるし、そうなったら以前よりしっかりとケアしないと虫歯にかかりやすくなるんです。」


そして付け加えるようにこう云った。


だから、が大切なんです。


しかし、その歯科はいつまでも治療が終わらないということで有名になり、とうとう一昨年に潰れてしまったらしい。


いまでは、その哲学を残したことだけがその歯科のレーゾンデートルだったようにすら思える。


1度削られた歯は、完全に元に戻ることは無い。



立ち直れなくなった彼のことを思いながら、僕は一人きりの喫煙スペースで煙草を吸った。


なにもかもうまく行かないのは、何も彼だけではないのだ。


ふと視線を下に向けると、いつもの黒猫の傷がさらに増えている。不健康な生活を送っているのか、目やにも以前より増しているようだった。


目が合ったので、僕はその猫に無言で語りかけた。


なぁ、俺らはなにがしたくてここまで生きてきたんだろう。


黒猫はこちらを見るともなく眺めていた。

もしかしたら、逆なのかもしれない。死ぬ理由がないから、ここまでどうにか生き伸びたのかもしれない。


生きている理由などもはや生まれた時から無いのだろう。そんな気がした。


そんな消極的な生き方を誰が肯定してくれるんだろう。


平沢なら、俺も全く同じだと笑ってくれるかもしれない。その平沢が居なくなったいま、ここに残る理由がもう残っていない気がした。




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