第6話 シェイド・レグナムへようこそ⑤

『いいんですか? このままだと痛い目を見ることになりますが』

「な、なんやねん! 急に話し掛けてくんな!」


 頭に直接響かせてきた声に、咄嗟に叫んでしまった。


「……どうした。もしかして、錯乱でもしたか?」

「え? ああ、ええと。聞こえてへんの?」

「何の話をしている」


 眼前に迫る色黒な禿頭の男と話しが食い違いまくる。これはおかしいと思い始めた櫛奈の脳に、再び声が掛かった。


『何をまぬけな顔をしているんです? このワタシの声はクシナさんにしか聞こえていませんよ? ちなみに念じれば会話できます』

『それを早よ言わんかい!』


 おかげで頭がおかしいやつ認定されてしまった。なんとなく背後に視線を向けてみると、やはりフワフワとフェイレスの姿が確認できる。どうせこれも櫛奈にしか見えないのだろう。


『で? この忙しい時に何の用なん? ウチ今から殴られるらしいんやけど』

『まあまあそう邪険にしないでください。貴方を救いたくて声を掛けたんですよ。もちろん、これもまた取引ですが』

『取引?』


 視線を現状に戻す。男は相変わらず哀しそうな瞳を湛えて、そして首をゆるく横に振った。


「……無抵抗な女子供を殴る趣味はないんだがな」

「じゃあお互いの為に殴らんとこ? ウチは痛くないし、アンタも心が痛まんし、ウィンウィンちゃう?」

「……これも、雇い主の命令なんでな」


 そう言って彼は拳を握りしめた。

 だめだ話が通じそうにない。助けを求めるように、櫛奈は再度フェイレスに視線を向ける。


『それでは取引です。簡単な話、ワタシから能力を買って下さい』

『買うって言っても、ウチいま手持ちないって』

『それは大丈夫です。ある時に貰えればいいので。お金の心配は今はしなくてもいいですよ。……それで、どうします? 貴方の解答はイエスかノー。このまま黙って殴られるか、それとも痛い思いをせず、なおかつこの客人有利な状況を打破するチカラを得るか』


 それを訊いている間にも、グライドから距離を詰められる。少しでも手加減してくれても良さそうなものだが、どうやら彼はそんな気はこれっぽっちも無いらしい。


『さあどうしますか? ワタシとしてはどちらでもいいのですが』

『いや、イエスかノーかって。能力買ったとしてお金の支払い方法とか、買ったとしてその使い方とか、そもそもどうやってお金を稼ぐんやってこととか、そもそも値段がナンボぐらいかって話とか、聞きたいこといっぱいあるんやけど?』

『まあ話してもいいんですが、彼は待ってくれなさそうですよ?』


 悪魔の言う通り、グライドは腕を振り上げて、そうして櫛奈の顔面ほどもある拳を彼女めがけて放った。


『あかん! ちょっ! 悪魔! 取引に応じる! イエスやイエス!』

『――取引成立ですね』


 瞬間。

 痛みはなかった。

 衝撃もなかった。

 殴られたはずの顔面には何の感覚もなく、まばたきをする間も無いままに。

 グライドの巨体は後ろに吹き飛んでいた。


「――は?」


 ここにいた全ての人たちが、そんな間の抜けた声を漏らしていた。

 殴られた当人であるはずの櫛奈も。

 殴った側のグライドも。

 何が起きたのか理解できず、ただ呆然としてしまう。

 ただ、人間では無い悪魔だけが。

 全てを把握しているようだった。


『――《咬我の蛇アンチストロフィ》。それが貴方が購入した能力ですよ、クシナさん』

『な、なんやそれ。何がどうなってんねん』


 能力を与えられたと言ってもその認識もないし、使い方も不明。櫛奈が何かをしたつもりはなかった。

『《咬我の蛇アンチストロフィ》はとんでもなくユニークな能力でして。多分貴方以外に会得している存在はいないんじゃないですかね。内容は単純明快。反転です』

『反転って……』

『あ、一回使用するごとに、使用料が支払われる仕組みなので、ご利用は計画的に。ちなみにご自身でオンオフ可能ですし、オートモードも搭載しております。良い能力ライフを』

『はあ!? なんやねんそれ――』


 悪魔と口論になりかかったところで、横やりが入る。というか、まだ事態に追い付けていない被害者から声が飛ぶ。


「おい、小娘。やってくれたな」

「…………」


 派手に吹き飛んでいた割には元気そうに立ち上がるグライド。見た目通り丈夫なのかもしれない。

 それでもその顔面からは鼻血が垂れていて、そこそこの衝撃を受けたことは見て取れる。


「どういうカラクリだ? お前は攻撃の素振りさえ見せていなかった」


 見定めるようにグライドは瞳を強める。

 さて、不意打ちとはいえ、形勢は逆転した。このまま有利を保って、この二人には帰って貰いたいのが、理想だが。

 櫛奈は誰にも聞かれないように溜め息を漏らし、余裕ぶった笑みを作った。


「……あ~。結構吹き飛んでもうたな。ウチはもうちょっと力抑えたつもりやってんけど。もしかして。グライドさん、やっけ? アンタが弱すぎたんかな~」

「……なんだと」


 明らかに、今まで見せてこなかった敵意を初めて見せたグライドは、その全身に力を籠めて、臨戦態勢に入る。


「止めた方がええって。まだウチの本来の力も見破れてへんのに、このまま暴力に訴えたところでアンタが傷つくだけやで。……まあ、それでもええならウチも吝かやないけど。アンタはそこまでアホちゃうやろ?」

「……ふん」


 グライドはしばしの思考の後、櫛奈から視線を外し、背を向ける。そしてそのまま家から出ようとした。


「――あ、なあおいどこ行くんだよ!」

「悪いな雇い主様。ろくに命令もこなせないようじゃ俺は傭兵失格だ。金はいらない。今回の依頼は無かったことにしてくれ」


 そして、誰の声も聞かずに家から出て行った。

 残されたのは、顔を青くし泣きそうな瞳のバドだけ。


「いやいやいや。お前おい、お前。俺を置いていくなよ! せめてこの場だけは無事抜けさせてくれ!」


 孤立無援。さすがにまずいと感じたのかバドは脇目もふらずにグライドに続き家から走り去っていった。

 途端に訪れる静寂。始めに声を発したのはアーラだった。


「は、ああああ。よ、良かったああ~……」


 その声で一気に空気が弛緩する。櫛奈も全身から一気に力が抜けていき、勢いよく椅子に腰掛けた。


「……ホンマに。一時はどうなることかと思ったわ」

「凄かったよクシナ! やっぱり、クシナは救世主だね!」

「お、おう……」


 そんなに嬉しそうに言われると照れるし、救世主だなんて言われても反応に困る。

 一連の騒動で安堵していると、アーラの父と母が目の前に立った。


「……本当に、ありがとうございました!」


 深く、重々しい感謝の意。


「そんな……! 頭を上げて下さい! ウチは大したことしてないんで……!」


 深々と頭を下げられた経験がないから、戸惑ってしまう。櫛奈からすれば本当に大したことはしていないつもりだった。


「……いえ。あの時、私もこの人も動けなくて、バドの言いなりになるところでした。本当に、クシナさんのおかげです」

「いやいや、お母様まで……」


 助けを求めるようにアーラの方へ顔を向けるも、彼女も彼女で嬉しそうにニコニコしているだけだ。

 ここは諦めて感謝を受け取るしかない。


「……お、お役に立てたようで、光栄です」


 そうやって伝えた、想いへの返答はぎこちなく。

 少しだけ上ずった声が、家に響いた。

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