第1話 邂逅
ずばり
食事の後片付けを済ませた後、リビングルームでだらりとしながらスマートフォンをいじる。弟は自室で塾の復習をしているようで、この空間には櫛奈一人。手に持つ端末で見ている内容は、ずばり内職の求人募集のページだった。
「中々ないな~……、うん?」
ついつい、と。スマートフォンを操作する指が止まる。検索結果に表示された文字列に目が留まった。
「……貴方の願い、叶えますぅ?」
サイトを表示してみると、眠りが精神を正しい方向へと誘うだの、欲が強い人間にこそ願いは訪れるだの、何やらスピリチュアルじみたことが書いてある。
「アホらし……」
そのままスマートフォンをソファに投げて、枕に頭を埋めた。
もし、そんなことで願いが叶うのならば。
もし、想うだけで誰かが聞き届けてくれるのならば。
――なんでもする。だから、お金が欲しい。
思いとも願いとも望みともならないそれは、頭の中で溶けていく。願いに呼応するように、スマートフォンが震えたような気がしたけど、その思いはやがて微睡みと共に混ざり合っていくのだった。
■
目を覚ますと、青黒い空間だった。
真っ暗ではない。窓ガラスにカーテンでも降ろしたように、微かに周囲が見渡せる。それでも、自分以外の存在は視界に映らない。
そもそも、何もいないのかもしれなかった。
「なんや、ここ……?」
確か少し前までリビングでスマートフォンをいじっていたはずだ。寝落ちしてしまったのか?
だとすればこれは夢?
一応頬を叩いたり、腕をつねったりしてみるが、しっかり痛い。
「まさか夢遊病ってやつなんか? ヤバイな~、部屋着で外出歩いてるとかメッチャ恥ずかしいわ」
思い切り独り言を呟いた。どうせ誰もいないだろう。そう思っての行動だったが、どうやらそうじゃないらしい。
クスリ、と。馬鹿にしたような一笑が、櫛奈の耳に届いた。
「誰や?」
笑い声の主を探す。
青黒い空間。ろくに光も差さない、風一つ感じ取れないこの場所に、一つの人影が生まれていた。
それは、先ほどまでいなかった。
文字通り突然、現れたように見えた。
『これは、失礼。随分と、賑やかなお客様が来られたと思いましてね』
重々しい声だった。男性、それも年季の入った声音で、しかしどうにも人間らしくないような。
言葉として理解できるし、脳が音としてそれを判断しているのだが、その声から姿かたちが明瞭に想像できないのだ。
いよいよ夢か現実かの境が不明瞭になってきた。
櫛奈はその人影に、臆せず一歩踏み出す。
『おや、怖くないのですか』
「当たり前やろ。別に、アンタからは敵意とか嫌悪感みたいなんは感じへんし」
『そうですか。なるほどなるほど』
くつくつと笑う人影を、櫛奈はついにその瞳に捉え、息を呑む。
黒のジャケットに白いシャツ、首元からはタイがぶら下がっており、一目見て燕尾服姿だと分かった。下半身も、上のジャケットに合うようなグレーのパンツスタイルで、紳士然としている。
そこまではいい。まだ現実世界の産物として理解ができる。
しかし首元よりも上。
頭部。
人間であれば必須パーツであるそれが、視認できなかった。
「……え、あれ? ……アンタ、首は……?」
恐る恐る、尋ねる。最早解答も待ちたくはなかったが、反射的に尋ねてしまった以上は待つのが道理だろう。
『ふっ……、やはり驚きましたか。無理もありませんね。人間とワタシとでは、そもそも構造が異なる。……頭部は、まあ無くしましたよ』
櫛奈の問いに、僅かに頷いているかのような仕草を取り、その人物(?)は答えた。
いや、どうやって声を出しているのかとか、言葉は届いているのかとか、そもそも頷くように見えたのは幻覚なのかとか、その他諸々。ツッコミたいことは山ほどある。
が、それで色々と察しがついた。
「なんや、やっぱり夢なんやな」
頭部がない人間なんてありえないし、何もないこの空間だって現実には存在し得ない。
櫛奈は確信を持って夢であると判断する。
『夢……、たしかにそういう言葉でも言い表せるかもしれません』
「なんや、ここが夢じゃないみたいな言い方やな」
夢だと分かってしまえば、目の前の不審な男性も怖くない。普通に話して、夢を楽しもう。
「普通、こんな世界ありえへんやろ。青と黒でできた、よう分からん空間なんて。夢以外になんて言えばいいん?」
『そうですね……。呼称は様々ありますが、もっとも知れた言い方だと、『異世界』と。そう呼ぶのが相応しいのではないでしょうか』
「は? なんて? 異世界……?」
聞きなれないその単語を反芻する。何か、昔見た漫画かアニメかでそんなワードを聞いたようなないような。
首を捻っていると、紳士が言葉を繋げる。
『おや、聞き覚えはないですか。貴方の住む世界が現実世界。丁度、その世界の裏に存在するのが、異世界です。コインに裏表が存在するように、世界にも裏と表があるのですよ』
「うーん、そんなこと言われてもピンとけーへんなあ」
『まあ、ここは厳密に言えば異世界空間ではありませんからね。ワタシの住むプライベートな空間です。……どうでしょうか、ここで一つ取引をしませんか?』
「取引ぃ?」
きな臭くなってきた。と言ってもここは夢の空間。現実世界には関係ない、はず。あくまでも紳士がウソを吐いている場合だが。
それなら取引の一つや二つ、応じても良い気がしてきた。
「取引って何をやり取りするん? 悪いけど、ウチお金は無いで?」
今はその為にバイトやらをしているのだ。お金が増えるとかそういうウマい話で無い限り、取引には応じられないだろう。
『いえいえ。この取引にお金は必要ありません。ただ関係を結ぶだけですから』
「関係? なんの?」
『……そうですね。言ってしまいますが、実はワタシ、悪魔なのです』
「は~、そうなんや」
『反応薄いですね』
「どうせ夢のことやからなあ。ほんで?」
『悪魔と言えば取引ではありませんか?』
「あ~、そうかもなあ。そんで人間を騙すんやろ?」
そういう作品を何度か読んだことがある。普段アニメとか漫画とかは観ないから、具体例は出てこなかったが。
『騙すだなんてとんでもない。納得をしてもらって、契約をしてほしいと思っていますから』
「ホンマに~? まあ、どうせ夢やし、内容聞くけど」
『内容は至ってシンプルです。貴方は好きなタイミングでワタシから能力を買うことができます』
「……え? どういうこと?」
『そうですね。例えば貴方が火を点けたいと思います。しかし周りには火を点ける道具がありません。そういう時に、ワタシから能力を買うのです。炎を灯す能力をね』
「んん……? なんかよく分からへんな」
『それでは実際に能力を授けましょう。それなら多少の信憑性も生まれるはずです』
言うが早いか、紳士は腕を伸ばし、櫛奈へと手をかざす。
身構える櫛奈だが、紳士にそれ以上の動きはない。
『はい、終わりました』
「え? もう?」
『はい。試しに手から火を出すイメージをしてください。フィクション作品で、一度は見覚えがあるでしょう。貴方はその能力を身に着けているはずですから』
「そ、そんなこと言われてもな……」
自分の手をじっと見る。いつもと変わらない普通の手。炎とかが燃え立つようには見えない。
ただ、どうせ夢だしと、チャレンジはしてみる。確かに、手から炎を生み出すシーンは観たことがあったので、すぐにイメージは湧いた。
手から――、炎――。
イメージ、というよりは念じると、空気が爆ぜた音が鳴る。
「きゃっ――!?」
思わず目を瞑ってしまったが、恐る恐る瞼を開いてみると、手のひらにはメラメラと輝く、赤白い炎が立っていた。
「えっ? ちょっ? ええっ!?」
反射的に手を振ってしまった。すると炎は消え、傷一つない、先ほどと変わらない手だけが残される。
『それがワタシが貴方に授けた能力です。【初等神術―カエン―】。ただ火を点けるだけの能力ですが、回数制限もないお得な能力となっております』
まるでテレビ通販さながらに説明する紳士。それに櫛奈は睨んで返す。
「ちょっと! こうなるなら初めに教えといてや!」
『すみません。悪魔とは、心が捻じ曲がっている存在でして。まあ、それも今宵限りとしましょう。ビジネスの話です。貴方には、ワタシと契約して、一つの異世界に赴いてほしいのです』
紳士の声音が、少し張り詰める。それだけで場の雰囲気は厳かなものになって、櫛奈も自然と心が引き締まった。
『異世界の名はコスモス。そこで神となってほしいのです』
「は? カミ?」
『はい。実のところ、貴方がお金が入用なのは、とあるサイトから分かっておりましてね。先ほど、ここに来る前に願いを叶えるというサイトを見ていましたね』
「見てたけど……。まさか――」
『ええ。アレはワタシが作成した、いわば偵察機のようなものでして。悪魔ともなれば、自らの分身として電子空間に入り込むことも容易なんです。……と、まあそうした経緯もあって、貴女の願いをワタシが聞いて、そうしてここに招待した次第です』
まるでパフォーマーさながらに、紳士は腕を広げてこの世界を説明する。
どうせ夢だからと、ここに連れてこられた経緯はどうだって良かったりする。
大事なのはその先。ここに連れてきた目的の部分。
仮に、その願いが聞き届けられたとするのなら。
「……なあ、つまりどういうことや? 稼げるってことなんか?」
『そういうことです。貴方の妹さんについても、不自由しないほどには』
「……何を知ってんねん」
『ふふ、何も知りませんよ。まあ正直、稼げるか稼げないかは貴方の異世界での活躍によりますが。貴方ならば大丈夫でしょう』
「なんで大丈夫なんて言い切れるん?」
『勘ですよ。悪魔にも、そういう精神が大事なのです』
やけに人間臭いことを言う悪魔だと、櫛奈は笑う。
まあ、どうせ夢だろうが、この誘いに乗ってみるのも悪くはないかもしれない。櫛奈は紳士の目、があるであろう何もない空間を見つめて言い放つ。
「その取引、乗るわ。よろしくな、えーと……」
『ああ、申し遅れました。ワタシ、悪魔のフェイレスと申します』
「よろしくな、フェイレス。ウチは櫛奈。圓富 櫛奈」
『よろしくお願いします、クシナさん。それでは早速異世界へと参りましょう』
そう言うと同時に、背後で扉が開く音がした。振り返ると、青黒い空間にぽっかりと穴が開いたように、真っ白な四角い空間が出来上がっている。
「アレが異世界の入り口なん?」
『そうです。あの空間をくぐればすぐに異世界がクシナさんを待っていますよ』
どうせ、あれをくぐると夢から醒めるのがオチなんだろう。そう思い、気軽に白い空間へと入り込む。
果たして、櫛奈の目の前に広がった光景は。
ローブを着た大勢の人達がいる、豪奢で荒れた教会だった。
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