第一部 使者焼失

ボスリムの城塞都市(1)


 その地はボスリムと呼ばれていた。

 ボスリムの歴史は古い。歴史書を紐解けば、少なくとも四百年前にはブドウの産地として有名だったらしい。それに加えて、その場所は誰もが認める交易と戦略の要衝であった。それゆえ太古よりボスリムを欲する侵略者には事欠かなかった。

 その歴史は侵略と略奪の歴史だった。やがてボスリムの中心は巨大な城塞都市となった。

 城塞都市は長い海崖と連山に囲まれた盆地に建てられていた。海崖とその上に建てられた城壁が船の揚陸を不可能にし、険しい山々と山道を塞ぐ砦が攻城兵器の運用を不可能にしていた。いわばもともと天然の要害となっていた土地に、さらに人工の要害を加えることで、ここを難攻不落の要塞としたのである。

 帰還命令が出る前、メナスが攻略を試みていた「ボスリム」とはこのような場所である。

 再び戦場に戻ったメナスの第九軍団は予定通り、山側と海側からボスリムの都市を包囲することに成功した。もちろん侵略者の包囲などボスリムにとっては日常茶飯事であって、都市の中に入れない敵など恐れるに足らず。

 第九軍団の海軍は陸軍に比べれば貧弱で、とても城壁を破れるものではない。であれば必然的に攻勢は山側からとなるが、険しい山道が大軍の行軍を難しくしていた。

 メナスの指示で力押しの侵攻が三度行われ、そのすべてが失敗した。

 こうして戦線は膠着した。




 包囲が始まってひと月が経った――。

 アリアスタ王国という強大な侵略者の包囲下にあっても、城塞都市の市民の顔に、絶望の色は浮かんでいなかった。

 それは必ずしも根拠のない楽観というわけではなかった。つい数ヵ月前にも同じ軍団に都市が包囲されていたが、あのときはろくに戦闘も起きないままなぜか敵は撤退した。そのさらに一つ前の戦争を思い出せば、七年前にもアリアスタによる侵攻があったが、このときは多数の犠牲を出しつつもボスリムは独立を守り切った。だから今回もどうにかなるだろう――という、経験に基づいた楽観が街を支配していた。

 さらに別の理由を挙げるとすれば、今回の包囲が「できそこない」の包囲である、という点であった。陸路の封鎖は蟻の這い出る隙もない様相だったが、一方で海路の封鎖は今一つ徹底を欠いていた。さすがに軍事物資の大量輸送を見逃すほどの「間抜け」ではなかったが、夜間や悪天候の日は小型の商船の出入りを見逃す程度にはアリアスタの海軍は怠惰であった。


 大通りを、少女が馬で進んでいく。

 後ろで編み込まれた髪は眩い金色で、肌は透き通るほど白い。身にまとった赤いマントには金や銀の糸で複雑な刺繍が施してあり、少女には大きすぎるのか、足元にずいぶん布が余っていた。

 少女の前後を衛兵がしっかりと固めていた。一団を遠巻きに眺めている市民たちが、少女を見てひそひそと会話を交わしていた。少女の凛々しく整った容貌と、マントでも隠しきれない豊かな胸も相まって、彼らの中には密かに少女に懸想する者も多かった。

 少女の名はハルネという。ボスリムの領主となってから二度目の冬だった。

 ハルネの一団は大通りを抜けて、そのまま市街の中心部にある領主の館へと入っていった。

 門を過ぎたところで、初老の男が館から飛び出してきてハルネを迎えた。家宰のニーデだった。

 ハルネは下馬して馬を従僕に任せた。

「……いつも思うんだけど、これじゃあ領主というより見世物ね」

「お勤めご苦労様でした。しかし領民あっての領主、今は一人でも多くの領民に顔を覚えてもらうのが大切です」

「こんなときに、ねえ」

「このようなときだからこそ、です。領主が日課を変えれば領民が動揺します」

 この「見世物」はハルネが領主の座を継いでからずっと続けている日課だった。やらなかったのはよほどの緊急事態があったときか、風邪をひいて体調を崩したときだけだ。

 つまりこのような日課を続けることで「敵の包囲などこのハルネの風邪にも劣る些事である」……と領民を勇気づける効果があるのだ。

 それはニーデに言われて分かっていた。分かってはいたが、今は軍事的な非常事態であれば、じれったさに文句の一つも言いたくなる。

「父上はこんなことしてなかったのに、なんでわたしだけ――」

「お父上が領主になられたのは今のハルネ様よりもずっと大人でしたし、そのころには戦場で手柄も立てておりまして、それはそれは民衆から敬愛されておりました。それに、お父上は顔が……」

「顔? 父上は別に不細工じゃなかったと思うけど?」

「逆です。お父上はそれはそれはお顔がよろしく、若い娘に人気がありましてな。街を歩けば人が押し合いへし合い大混乱で……」

「あー、なるほどね……」

 父が存命の頃は幼いハルネには知らされていなかったが、男女関係のトラブルには事欠かなかったという。

「ハルネ様は街に出ても混乱がなく良うございますな」

「あっはっは。不敬」

「せっかくお父上譲りのお顔であらせられるのに、いつも不機嫌な表情をされておられるから人が寄り付かないのです。……あ、いや、しかしその不機嫌で意地悪そうなところが良いという物好きもいると聞きますのでご安心くだされ」

「何を安心しろというのよ」

「爺はすっかり耳が遠くなりまして」

 そもそも、不機嫌なのは自分は領主なのに見世物ばかりさせられるからだ。

 戦場で手柄を立てて、その凱旋とかで歩くんだったら、わたしだって笑顔を見せるし、そうなったら父上に負けないくらいモテるんだから――。

「領主が領主であるためには民衆のご機嫌取りが必要だということ? 領主が領主である根拠は、民衆からの好感度?」

「民衆によって追い出された領主の昔話には枚挙に暇がありませぬ。民衆や家臣の支持を意に介さず、力で押さえつける領主も過去にはおりましたが……大抵はろくな死に方はしておりませぬ」

「父上は民衆に愛されていたと思うけど、穏やかには死ななかったわ」

「またそのようなことを……。お父上はこの国を守るために立派に戦われたのです」

「民衆の支持があっても戦争には勝てないわ」

「しかしあの敗戦の後、亡き父の名の下にボスリムが一丸となったおかげで、今日の独立があるのです」

「それは、そうだけど。でも領主という存在が、民衆の同意の上に成立しているのだとして、民衆が求めていることは見世物ではないはずよ。それは目くらましで、無知な民衆を騙しているのと同じだわ」

「ハルネ様はいつも細かいところを気になさいますな」

「父上にはいつも鬱陶しいと言われていたわ」

「疑問をそのままにしないのはハルネ様の美点でもあります」

「そうかしら。ニーデにも何度か鬱陶しいと言われたと思うけど」

「探求心があるのは良いことです。為政者に向いていますな。しかしもう少し時と場所を選べれば……」

 父は普段はハルネの「何故?」に辛抱強く付き合ってくれたが、戦中や政治の重大な局面では、ハルネはしばしば遠ざけられた。

 ハルネとしては、父やその臣下たちが、どうしてそんな不合理なことをするのか、一度気になると夜も眠れなくなってしまい、ハルネ自身もどうしようもない衝動に襲われて、父に助けを求めたのであるが……。

 そんなとき、父の代わりにハルネの何故何故攻撃を受けて立ち、はぐらかしていたのはニーデの役割だった。

「今思うとニーデはいつもわたしに嘘を吐いていたわね」

「爺はすっかり物覚えが悪くなりまして……」

 それはいつも、ニーデが話を打ち切るときの合図だった。

 ハルネは粘ることなく、疑問の追求を諦めた。

「……。ところで、包囲軍の様子は?」

「その前にお召し物を」

 ニーデが指図して、従僕が駆け寄ってハルネのマントを受け取った。このマントはボスリムの領主が代々受け継いでいるもので、少女が着ることを想定していないサイズだった。ハルネには大きすぎて、下馬して歩くと引きずることになってしまう。

 館に戻り、廊下を歩きながら、ハルネはニーデからの報告を聞いた。

「陸路ではアリアスタ軍に新しい動きはありません。引き続き都市防衛隊が警戒を続けています。海側の状況も変わりありませんな。海からの増援を警戒して丘から監視させておりますが新しい動きはありません。相変わらず海の封鎖は穴だらけで、必要とあらばこちらから他の都市に使節を送ることも可能だそうです。それと、頼んでもいないのに港には相変わらず商船がやってくるそうです」

「都市の備蓄は?」

「次の夏までは余裕をもって耐えられますが、その先となると節制が必要になるそうです」

 領民の動揺を誘わないために、食料を統制するような命令は出していなかった。この包囲がいつまで続くかは相手次第であるし、楽観視するよりは今のうちから統制を始めた方が良いのではないか……?

「次の夏かぁ……。それまでには終わってほしいわ」

 ハルネは誰にともなく言ったが、ニーデはそれに頷いた。

 廊下を抜けて大広間に入ると、すでにテーブルについていた一同が立ち上がって若き領主を迎えた。領主の館でこの大広間がもっとも金のかかった部屋だとハルネは思っている。大広間の赤い絨毯は上を歩くと足が沈んで歩きにくいし、古典的な趣味の調度は夜に見ると幽霊が出そうで恐ろしい。

 ハルネは片手を挙げて家臣たちに応え、一堂に頷き返してから自分の席へとつく。

 大広間のテーブルにはボスリムの重臣たち、忠臣たち、有力者たちが勢ぞろいしていた。一緒に部屋に入ってきたニーデはハルネの隣に着席した。彼は先代の領主からハルネの一族に仕えている重臣の一人であり、会議の席次も特別だった。

 このような会議が、包囲が始まってからほぼ毎日のペースで開催されていた。この会議のことを『軍議』と呼ぶ者もいた。

 まず最初に都市防衛隊の隊長、レプティスが発言を求めた。

「すでにお聞きのことと思いますが――」

 レプティスが戦況について語ったことは、おおよそはニーデから聞いた話と同じだった。

 そこに、彼独自の提案を付け加えた。

「しばらく戦闘は起きていませんし、敵に攻勢の気配もありません。そこで、長期戦を見越して、前線に張り付けている兵士を交代で下げることを提案いたします。敵がこちらに攻めかかる気配を見せてからでも、十分に対応は間に合います」

 レプティスはここでいったん言葉を切った。ここまでの提案に、重臣たちからは特に異論はなさそうだった。ハルネも内心で賛成していた。

「それよりも、気がかりなのは海側の包囲が妙に緩いことです。……つい先日の戦いでは、敵は陸も海も完璧な包囲網を作って見せました。それなのに今回は早々に海の包囲だけが緩むというのは、小官は作為の匂いを感じざるを得ません」

「ではその狙いは何だというのだ」

 ニーデが問う。

「……包囲戦の最中にありながら、この街の港には未だに商船が出入りしています。その中に敵のスパイが紛れ込んでいるのではないかと危惧いたします。力押しでボスリムを落とせないことは敵も学んでいるはずですから」

「なるほど。……ハルネ様、レプティス殿の提案には一理あります。かつ港に出入りする商人の臨検を行いたく存じます」

「待てニーデ。なぜ貴様の一存で決めるのだ」

 異を唱えたのは重臣の一人、アンギムだった。ハルネの父の義理の弟、つまり叔父にあたる人物だ。

「わしの一存で決めたわけではない。決めるのはあくまでハルネ様の――」

「ハルネ様に裁決を仰ぐ前に、まずは皆に意見を聞くべきであろう。家臣一同が顔を並べているのは、貴様の命令を受けるためではないぞ」

 アンギムがじろりとニーデを睨んだ。アンギムの近くに座っている家臣たちの何人かがそれに同調していた。

「ほう……アンギム殿は異論がおありのようですな」

 ニーデが涼しい顔をして問い返した。

 アンギムはニーデではなく、ハルネの目を見て答えた。

「ハルネ様、包囲下にありながらそれでもわざわざボスリムを訪問した商人たちを疑うようなことをすれば、ボスリムの名声を汚すだけでなく商人たちの支持を失うことになります。そうなれば都市の結束は崩れ敵の圧力を支えることもできなくなりますぞ」

 アンギムは発言を終えると頭を下げた。

 それに対して、ニーデは大広間の天井に視線を合わせたまま言った。

「アンギム殿は小さな心配事を大きく考えるあまり、目の前の危険を見落としておいでのようです。都市の内部に敵の手先が入り込むことを許せば、そのときこそ敵の工作でボスリムの結束も揺らぐことになりましょう」

「レプティス殿の話はもっともらしいがただの推測であります。確たる証拠もなく臨検などすれば浮薄のそしりをまぬがれませぬ」

 アンギムがやり返す。

「ハルネ様、臨検を実施するということで、よろしいですかな?」

 ニーデがアンギムの進言を無視してハルネに裁決を仰いだ。

 ――アンギムが顔を上げた。ハルネと目が合う。

 ハルネはそちらを見ないようにして、ニーデの方に頷いた。大広間にわずかなざわめきが起きた。ニーデがニンマリと老獪に笑った。


 会議が終わり、大広間から出ていくとき、ハルネはアンギムの表情を横目で盗み見た。父が死んでから、アンギムの笑ったところを目にすることがなくなった。当時は今のような髭面ではなかったし、もう少し話しやすい雰囲気だった。

 ハルネとアンギムは親戚であったが、今となっては二人の関係は微妙だった。先代領主、つまりハルネの父がアリアスタの侵攻によって命を落としたとき、次の領主となるハルネはまだ幼かった。そこで彼女が十五になるまでの六年間、領主代理としてボスリムを治めていたのがアンギムだった。

 解釈によってはアンギムが領主の座をハルネに譲ったとも言えるし、あるいはハルネが領主の座をアンギムから奪ったとも言える。

 ハルネは、領民たちが自分に下す評価は、アンギムの治世との比較という形で行われていることに気づいていた。そしてその評価が芳しくないことも。戦時下であればなおのこと、領主には経験と実績が求められる。

 大広間を出たハルネに、後ろからニーデが追いついた。

 ニーデは先代の頃から仕えている家宰で、父の生前は教育係として、死後は親代わりとしてハルネを育ててきた。それもあって、ハルネはニーデの判断に頼りがちなところがあることを自覚していたし、そのことを家臣たちが不愉快に思っていることも理解しているつもりだった。

「会議が終わるたびに自分がやせ細っていくような気がするわ」

 ハルネが小声で漏らすと、老練な教育係は「領主は軽口を叩きません」とそれをたしなめた。

 月が昇るころ、ハルネの一日の職務が終わり、彼女はやっと「領主」という肩書から解放される。

 とはいえハルネの自由は寝室の十平方メートルの範囲にしかない。戦時下の今、部屋の外には夜通しで衛兵が立っている。

 ベッドの上でハルネは体を丸めた。このベッドは自分には大きすぎる。孤独を感じる。

 ハルネの手が太ももの間に滑り込んだ。目を閉じる、息をひそめる、世界のことなんかどうでもいい、この瞬間は自分の中の暗闇だけを、温かい暗闇だけど感じていればいい。

「んっ……んっ……」

 領主の寝室に、幼い声が漏れる。指先が下着の上でゆっくりと動く。十分な粘り気を手に入れてからは、指を奥まで潜り込ませる。

 この時間だけ、ハルネは世界のすべてから――否、世界のすべてを切断することができた。




 翌日の軍議は朝早くに開かれた。

 広間に集まった面子に、まず最初にレプティス隊長が召集の理由を説明した。

「メウリトリア同盟の使者を名乗る男が来ました」

 レプティスは書状を衛兵に手渡した。衛兵がハルネの元へそれを運ぶ。列席者たちがざわついた。

 メウリトリア同盟とは、ボスリムより北方にある都市国家の連合である。メウリトリア同盟はハルネが生まれるよりずっと昔からアリアスタと軍事衝突を繰り返していた。

 ハルネが書状の内容に目を走らせている間、ニーデがレプティスに質問した。

「その使者というのは船で来たのか?」

「それが、陸から敵の包囲を抜けて入ってきたとのことです。たった一人で。今は城壁の外の駐屯地に留めおいておりますが……」

「なんと無礼な! 同盟からの使者をそのように遇するとは礼を欠くではないか!」

 声を上げるアンギムをニーデは鬱陶しそうに見た。

「その使者とやらが、本当にメウリトリア同盟から送られてきたのであれば、そうですな」

「偽物と疑う根拠は?」

「海路ならばともかく、陸の包囲を使者一人が抜けられるとは思えぬ。敵の策略を疑うのは当然であろう」

「ハッ! ニーデ殿にかかれば、この世の森羅万象はすべてアリアスタの策略ということにされてしまいそうだ!」

「ハルネ様、書状には何と?」

 ニーデはアンギムを露骨に無視してハルネに催促した。一同の視線がハルネに集中した。

「……我々にも同盟に加わるよう提案しています。すでに同盟はこちらに援軍を向かわせているようです。こちらが申し出を受諾するのであれば、ただちにアリアスタ軍の後背を突くと言っています。……それから、同盟に加わるにあたっての条件も」

 ハルネは押し付けるようにニーデに書状を渡した。こういった外交文書を読むのは経験が必要だ。待ちきれないとばかりに、アンギムも書状を見せるように要求した。主要な面々が書状を読み終わるまでの間、ハルネは自分の考えを頭の中で整理していた。

 書状の内容が伝わるにつれて、列席者たちは次々に自分の意見を述べ始めた。


「同盟に参加できるのであれば、敵の包囲を破るどころか、アリアスタに逆侵攻することだって夢ではないぞ」

「それは希望的観測が過ぎる。今回はそれで凌げたとして、我々の安全を未来永劫保障するには同盟の都市は遠すぎる」

「それに、もし同盟に加わればアリアスタとの和睦の目はなくなる。我々とアリアスタは七年前から争っているが、その前は長い平和があったのだし……」

「しかし同盟の援軍なしにアリアスタ軍を撃破できるのか!?」

「そうだ! アリアスタは外征を続けている。この先もボスリムのみの力で独立を守り切るのは不可能だ! 和平などそれこそ夢物語だ!」

「わがボスリムはこれまで中立を保ってきた。同盟に参加してみろ、強力な味方と引き換えに、同盟の敵が我々の敵にもなるのだぞ!」

 ――主にはこのような意見が出た。


「――ここを超えれば、もう引き返せなくなるな」

 アンギムのぼやきは小さな声だったが、それで一同が静まった。

 ハルネもその点に関してはアンギムと同意見だった。

 もし同盟に参加すれば、国際上のボスリムの立ち位置は、不可逆的に変化せざるを得なくなるだろう。

「待て待て、それは使者が本物だった場合の話であろう!」黙考を始めた一堂を老臣ニーデが止めた。「使者がアリアスタの策略だったらどうするのですかな?」

 ニーデの物言いにアンギムがむっと眉を寄せて反論した。

「ニーデ殿は敵を買いかぶりすぎているのではないか。この世の森羅万象が敵の手によるものではあるまい。それに使者が策略だったとして、その目的は何だ。我々が偽の使者に返事をすることで、王国軍にどのような利益がもたらされる?」

「それは……わしにも分からぬが……」

 珍しくニーデが言葉を濁らせた。

 ここだとばかりにアンギムが追撃する。

「理屈になっていないのはニーデ殿ではないか。仮に使者が偽物であったとしても、我々の失うものがあるとは思えぬし、とりあえずは本物と信じて扱うのが良いと思うのだが」

 アンギムの反論に、ニーデは幾分か声を落としつつも、それでも食い下がった。

「……城塞内の様子を探るためかもしれませぬな」

「いやさ、仮にも他国の使者を名乗る者であれば礼節をもって遇するべきだろう。それがアリアスタの策略だったとして名を落とすのは奴らの方だ」

 アンギムがハルネの方を見た。「ハルネ様、まずは使者の取り扱いだけはすぐに決めていただかなければ」

「ええ……そうですね……ゴホン、その使者は、本物の――外国の来賓と同じようにもてなすことにします。ただし身辺には厳重に見張りをつけます。市内を自由に歩かせないように」

 レプティス隊長が手を挙げて発言を求めた。

 ニーデが発言を促した。

「イリリア通りを上ったところの、岸壁のそばに空き家があります。去年までカブロンの一家が住んでいましたが、戦争が始まる前に街を出てしまいました。そこに滞在していただきましょう。この館からは少し遠いですが、その方がこちらの事情を探られずにすみます。見張りは、うちの隊から腕の立つ者を出します。護衛ということにして」

「そうするように。――それで、同盟の申し出はどうします?」

 棚上げされていた話題をハルネが掘り返すと、再び火山のごとく各々の意見が噴き出した。


 ハルネは議論には加わらずに、誰が何を主張しているのかを頭に入れた。重要なことは、家臣団が同盟と独立のどちらを選ぶかということだった。

 アンギムは強固に同盟を主張した。彼が領主代理だったころに重用されていた連中もおおむね同盟を主張している。

 同盟反対派の筆頭は老臣ニーデだ。現在ハルネに近しい家臣たちもそれに追従している。


 議論が回転し、同じ論点を繰り返し始めたころ。

「今日この場ですぐに結論を出すのは難しそうですな」

 ニーデが言った。結論はどうあれ、問題の重大さに関しては誰も異論はないようだった。

「日を改めて議論を続けます」

 そう締めくくってハルネは立ち上がった。家臣一同も慌てて起立した。


 いつもより長引いた軍議が終わり、ハルネは疲労困憊だった。

 もちろんそれを表に出さないことに努めた。

 父が死に、自分が次の領主になると決めたときから、ニーデから真っ先に習ったのが「自分の内面をみだりに表に出すな」ということだった。

「難しいところですな」大広間を退出するハルネにニーデが追いついてきた。「ハルネ様のお考えは?」

「ニーデは使者が間者だと思っているみたいだけど、確信はあるの?」

 ハルネは質問の答えをぼかした。

 ニーデは唸った。

「爺の耳は遠くなりましたがボケてはおりませぬ。『使者である』という確信がないことが問題なのです。確信が持てない者の話に国の命運を託してはなりませぬな」

「それを見極めるためにも、ともかくその使者に会ってみる方が良さそうね……。外交上の礼儀としても、領主のわたしが会わないと示しがつかないし」

「それは……もうしばらく身元を吟味してからでもよいのではありませぬか」

「だったらレプティス隊長にも同席してもらうわ。このままわたしたちだけで籠城を続けても援軍は来ないもの。使者殿には今晩はゆっくり休んでもらって、明日早くに館に呼び出すように。その間にこちらも交渉の準備をしておきましょ」

 務めて明るく言って、ニーデの肩を叩いて別れた。

 教育係の困り顔を久しぶりに見れたので気分が晴れた。

 執務を終えて、自分の部屋に戻ってからも、ハルネは自分の考えをまとめようと必死だった。

 領主である自分は領民のことを第一に考える責務がある。個人的な復讐心を、そこに混ぜてはいけない。

 あるいは自分の出した結論が、本当に私怨と無縁であることに、ハルネは自分自身でも確信が持てないでいた。

「――奴らは父上を殺した」

 言葉にすると、ぞっとするほどの怒りが沸き起こってくる。それを抜きにして今回のことを考えるのは難しかった。

 七年前の戦争で、ハルネの父を殺したのは、間違いなく奴らなのだ。《アリアスタのリリッサ》――。当時の最高司令官の名を、父の仇の名を、ハルネは忘れることができないでいる。


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