ボスリムの女領主には探偵癖がある

叶あぞ

第一部 使者焼失

泣き虫の将軍


 誰かの気配を感じて、メナスの意識がまどろみの底から急浮上すると同時に、腰に吊るした短剣に手が伸びた。ここは王国軍の天幕の中、そして自分は密偵からの報告を読んでいる最中に居眠りをしていたのだと思い出して緊張を解いた。

 密偵に探らせていたのは、ボスリムの城塞都市についてだった。あれは未だ難攻不落だが、付け入る隙はあるはずだ――。そうして攻略の策を練っているうちに、長旅の疲れからついうとうとしてしまったのだ。

 気配の主が外からメナスに声をかけた。メナスの副官だ。

「リリッサ将軍がお見えになりました」

「うん。通して」

 幕をめくってリリッサが顔を覗かせた。メナスと違って鎧は身に着けていない。体のラインがはっきりと浮き出るくらい薄着だった。ここに来るまで、軍団の兵士たちの視線にいくつも晒されているはずだが。また悪い噂が広がりそうだ、とメナスは呆れた。

「やあやあメナス。久しぶりだねぇ」

 美女はニタニタといつもの笑みを浮かべていた。

「久しぶりというほどでもないでしょう。遠征に出発する前に王都でお会いしましたが」

「じゃあ久しぶりだ」

 リリッサはずけずけとメナスに近づいた。リリッサが上機嫌に見えるということは何か厄介な事情が起きているということだ。この女は混沌を何よりも愛する。

 椅子に座っているメナスの太ももの上に、リリッサはことわりもなく腰かけた。

 ちょうど目の前にリリッサの後頭部があった。彼女の栗色の髪からは爽やかな香りがした。どこぞの市場で買った舶来品か、または彼女の軍団が遠征していた西方の略奪品か……。

 リリッサがさらに体重をこちら側に傾けてきたので、メナスは彼女の腰に腕を回した。メナスの顔面がリリッサの後頭部にうずまる形になった。

「ん……後ろから抱かれるのは悪くない」

「私の抱擁を求めて夜遅くにやってきたわけではないでしょう」

「ふふ……それは目的の半分さ」

 リリッサは首を後ろに曲げて、メナスの肩にぴたりと体を密着させた。

「ねえ……王様のこと、聞いたかい? もう死んだって」

「何?」

 《王様》といえばカッシアノ王のことだ。アリアスタ王国を統治する王――つまりメナスたちの主君である。

「その噂は正確に言うと――」

「なんだ、噂ですか」

 リリッサは色っぽい声で会話を続けようとする。とりあえず彼女を足の上からどかそうと両手で腰を掴んだら、彼女はその手をパシンと叩いた。

「王様はもう死んでいて、そのことを王宮が隠してるって話だよ。だから遠征中のわたしたちが急遽引き戻されたってわけさ」

 半月前までメナスの軍団は東方の城塞都市を攻略中であったが、戦線が膠着してほどなく本国から緊急の帰還命令が出た。敵の追撃を振り切り撤退し、途中からは海路に切り替えてこの都市の港までたどり着いた。都市の内部には軍団の兵士全員を駐留させられる場所がないため、都市の城壁から少し離れた丘に野営をさせられていた。

「それで?」

「無感動な男だなあ。もし噂が本当なら、カッシアノ王の跡継ぎが王位を継ぐということになろうが、さてその王子は三人いるときた。これは嵐が起きる。間違いなく……」

 リリッサは熱い息を吐いた。メナスの上でリリッサの体がもぞもぞと動く。リリッサはメナスの首に腕を回した。

「それで、お前はどの王子につく?」

「……その発言はあらぬ誤解を招きかねませんよ」

「なあに、ここにはわたしとメナスしかいないよ」

「私の答えを聞いて、どうするんです?」

「ふふ、泣き虫な弟子が、ちゃんと人生を楽しめるよう導いてあげるのが師匠の役目だからねえ」

 メナスを王国軍に引き立てたのはリリッサだった。リリッサの部下としてメナスはすぐに頭角を現し、今はもはやリリッサと同等の「将軍」という地位にまで出世した。

 それでもリリッサはメナスのことを未だに「弟子」として扱うときがある。

 軍歴の長さは大きく違うが、リリッサの年齢はメナスとは一回りも違わないはずだ。それでなくとも長命族であるリリッサの容貌は若く美しい。無徴族であるメナスが老いて死ぬころ、この女師匠はまだ若さを保っているはずだ。

「では答えますがリリッサ将軍――私に野心はありませんよ。王位をどうするかは三人の王子の話し合いによって決めるべきでしょう。それと昔のことをいつまでも持ち出さないでいただきたい」

「それはどうだろうねえ」

 どちらに対する返事だろうか。まあどちらでも同じことだ。

「こんなまたとない機会に、君とあろう男が無関係でいられるとは思えないなあ」

 リリッサはさらに体の向きを変えて、メナスと向かい合う形になった。太ももでメナスの腰を挟む。リリッサの豊満な胸が、メナスの体に押しつけられた。

 リリッサがメナスの耳元にささやく。

「ねえ、わたしと組まないか? 王子三人を殺せば、王国はわたしたちのものだ」

 話にならない、とメナスは思った。王子三人を殺したところで、こちらに「正統性」がなければただの反逆者だ。もちろんそんなことが分からないリリッサではない。

 冗談にしては危険すぎる、とメナスは警戒を続けた。

 リリッサは服越しにメナスの股間を撫でた。

 リリッサがメナスの首元に唇を寄せてちろりりろりと舐め始める。

「やめてください。天幕のすぐ外に護衛がいるんだ」

「ん……ちゅ……だったら……はむっ……静かに……しないと……ふふ……」

「将軍――」

「リリッサと呼びたまえ」

 リリッサが唇でメナスの言葉を塞いだ。舌を絡ませながら、リリッサは鼻息荒く自分の服のボタンを外していく。

 リリッサの手がメナスの服にかかった直後、メナスは彼女の肩を掴んで強引に引きはがした。

「……せっかくいいところなのに」

 リリッサが不満を漏らしたそのとき、

「メナス将軍に申し上げます! エラスモ将軍がお見えです!」

 聞き覚えのない兵士の声に、リリッサが舌打ちした。

「いつも間の悪いこと」

 リリッサは自分の服を戻しながら、メナスの上から尻をどけた。来客用の長椅子にどしんと音を立てて座る。

 まさにそのエラスモ将軍こそ、たった今噂をしていた現王の三人の息子の一人である。公的な地位はメナスと同じく将軍ではあるが、王国における身分は天と地ほどの差がある。

「入ってよし」

 メナスが返事を返すと、おそらくエラスモお付きの護衛が、威張り散らすような面持ちでエラスモを先導して天幕に入ってきた。エラスモが入ったのを見届けて、護衛は一人でまた外に戻った。

 エラスモは、長椅子で不貞腐れていたリリッサを見て意外そうな表情をした。

「リリッサ将軍もいたのか!」

「いえ、リリッサ将軍の話は終わりました。もう帰られるところです」

 とメナスは答えた。

「ああそうかい、君たちは忙しそうだからね、暇人は自分の宿営地に戻るとするよ。……それではエラスモ将軍、ごきげんよう」

 リリッサは形ばかりの挨拶をすると、メナスを恨めしそうに睨んでから出て行った。

 さて、とメナスはエラスモに椅子を勧めた。

「それにしてもエラスモ将軍はどうしてこちらに? 閣下の第二軍団に何か勅命が?」

「いや、俺の軍は残してある。ここには護衛だけ連れてきた」

 メナスは机の引き出しの中から、葡萄酒の瓶と杯を取り出してエラスモにふるまった。

 杯の葡萄酒が幾分も減らないうちにエラスモは本題を切り出した。

「ところで王都に流れている噂について、メナス将軍はご存じかな」

「知っているはずがないでしょう。ついさっきまで遠征に行っていたのですから」

「父上が亡くなったという話だ」

「……滅多なことは言わないことです」

「お、その反応だと知ってたな? さすがメナス将軍だ!」

「なるほど、その噂とやらを私に聞かせるためにわざわざいらっしゃったのですね」

「そんなわけないだろう。重要なのはここからだ」

 嫌な感じがした。メナスは酒を飲む手を完全に止めた。

「なあメナス将軍、三人の王子のうち、誰が一番王に相応しいと思う?」

「私には分かりかねますね」

「だったら俺が言ってやろう。まずレオンテ長兄上あにうえ。王宮で宰相をやっている。しかし病弱な上に自分の軍を持っていない。王宮の文官どもの後押しはあるが、それだけで王国全体を掌握はできないだろう」

 エラスモはどこか楽しそうに語りながら葡萄酒を口に含んだ。よく味わってから嚥下する。

「次は弟のアンドロア、こいつは俺と同じく将軍位と軍を持っている。ダッタリウム戦争のときはでかい武勲を立てて英雄とまで呼ばれた。あいつに心酔する軍人は多い。王国の貴族たちも、まあだいたいはアンドロア支持だろうな。そして――」

 エラスモは自分を指さす。

「この俺だ。アンドロアに顎で使われて外征ばかり、と思えば最近は首都防衛などと言って飼い殺しだ。俺が声をかけて立ち上がる将軍は……まあ少なく見積もって三軍団くらいか」

 三軍団? とメナスは思った。この人は自分の人望のなさを理解できていないのか?

「しかし!」エラスモはメナスの方に杯を突き出した。「この俺にはメナス将軍がいる! だろう!」

 メナスは黙ったまま、彼の杯に次の酒を注いだ。

 このまま前後不覚になるまで酔わせて帰らせるのが一番無難だろうと思った。

「おいメナス将軍、お前は俺を王にするつもりはないか?」

 メナスにその問いを一蹴することはできなかった。

 エラスモには恩があった。メナスが軍でここまで出世できたのに、エラスモの後ろ盾が無関係だったとはとても言えなかった。

「エラスモ様は、ご自分が王に相応しいと思いますか?」

「分からん!」

 と、王子は気持ちよく即答した。

「そんなこと俺には分からん。俺に分かることなどほとんどない。だが俺にはやりたいことがある。だから王になる。メナス将軍よ、俺の側に立って、一緒に戦ってくれるだろうな?」

 酒の匂いをさせながら、しかし真剣な目でエラスモは言った。

 その夜、メナスは何度も何度も繰り返される質問をはぐらかしながら、王子の杯に酒を足し続けた。




 エラスモが赤ら顔で帰ってから、メナスはやっと一人の時間を取り戻した。

 と思った途端に幕の外から声がかかった。

「閣下、よろしいでしょうか」

「もちろん」と、メナスはなるべく陽気に返事をした。

 入ってきたのは部下のエウレアだ。リリッサを取り次いでいたのも彼女だった。

「あの、閣下は、もうお休みになられますか?」

「ああそうだね、これ以上の突然の来客がなければね――」

 エウレアは上官を前に、何か言いたげな表情を見せた。

「どうしたの?」

「あの……閣下が……お疲れであれば……」

「ああ」

 意味が分かった、というニュアンスを込めて頷く。

 ネメスは椅子から立ち上がってエウレアに近づいた。ためらうことなく、彼女の腰に手を回して抱き寄せる。

「あっ……っ」

「欲しいのは、君の方だろ?」

 エウレアは真っ赤になって頷いた。

 メナスはエウレアの体を抱き上げると、そのままベッドまで運んで放り投げた。

 ベッドに机に長椅子に、将軍ともあれば天幕と一緒に家具まで戦場に運ばれる。

 メナスがエウレアに覆いかぶさると、彼女は強張っていた両腕から力を抜いた。不安そうにメナスの顔を見上げる。

「閣下……あまり大きな声を出すと、周りの兵士たちが何事かとやって来ますので……」

「分かった。今日は優しくする」

「っ……はい……」

 エウレアは目を閉じた。


 実際のところ、どれだけ声を押し殺したとしても、天幕の周囲で警戒にあたる兵士たちの耳にも、その営みははっきりと届いていた。しかし今さらそんなことで、彼らが上官を見る目が変わることもなかった。




「閣下、エラスモ将軍がお呼びです」

 エウレアの声でメナスは目を覚ました。メナスはベッドの上で裸のままだったが、エウレアはすでに軍装に着替えた後だった。もはや昨夜の余韻は何も残っていない。

「エラスモ将軍がァ……?」

「はい。我が軍団に朝食の差し入れだそうです」

「で、我が軍団はそれをありがたく頂戴しちゃってるわけね」

「はい。……拙かったでしょうか?」

 もちろん、王子の好意を気安く断るわけにもいかないから、この場合は頂戴する以外の選択肢はないのだが。高い朝食代を払わされなきゃいいけど、とぼやいてメナスは体を起こした。


 メナスは身支度を済ませてから、エウレアを伴ってエラスモの元へ向かった。メナスの兵たちが、それぞれの天幕の前で旨そうな焼き魚やパンやスープにかぶりついていた。メナスを見つけると朝食を中断して起立する。部下の食事を邪魔しては悪いと、メナスは早足で兵士たちの前を通り過ぎた。

 軍団の天幕が並ぶ中に、一つだけ見覚えのない派手な天幕が立っていた。エラスモが建てさせたものだろう。入口であの護衛が目を光らせている。

 護衛に取り次ぎを頼み、エウレアを外に残してメナスは一人で天幕の中に入った。

 そこにはエラスモだけでなく、リリッサも待っていた。二人の前には朝食の皿があった。

「おはようメナス将軍! 昨日はいささか飲みすぎて失礼した!」

 すぐにメナスの朝食も運ばれてきた。メナスはコップに注がれた熱い茶をすすりながら、エラスモが本題を切り出すのを待った。

「さて、昨日の答えを聞かせてもらえないだろうか。つまり二人とも、俺に仕える気はないか? これは今すぐに返事が欲しい」

 エラスモは昨晩のうちにリリッサにも声をかけていたのか? メナスがリリッサの顔を見ると、

「わたしはメナス将軍に従うよ」

 と、逃げ場を封じるようにリリッサが答えた。

 メナスはしばし黙った。自分の返事が、本当に正しいのかを検算していた。

「……いや? そうか、帰還命令」メナスは顔をエラスモに向けた。「あの命令、もしかして――」

「……ふふ、さすがだメナス将軍」

「どういうことだい?」

「つまりですね」メナスはリリッサに説明した。「王宮は長兄のレオンテ様が押さえています。そして王様の死を秘匿できるのは王宮を押さえているレオンテ様だけです。もしそれが公になれば王座をめぐる争いが起きます。そうなったとき、レオンテ様が真っ先に狙うのは、王都にいる他のライバル――つまりエラスモ様です」

「で、それと帰還命令がどう関係するんだい?」

「本来、私たちに命令を出せるのは王都のカッシアノ王だけです。しかしもし王様がすでに亡くなっているのであればレオンテ様が命じたということになるはず。しかし私たちの軍団が王都に戻れば、レオンテ様にとってはエラスモ様を排除する絶好の機会を失うことになります。レオンテ様がそんな、自分が不利になることをわざわざするはずがない。ということは、推測――命令を出したのはレオンテ様ではないということになります」

「つまり、身の危険を感じたエラスモ将軍が、命令を偽ってわたしたちを呼び戻したということか」

 リリッサが睨んでも、エラスモは涼しい顔をしていた。

「他の将軍たちから見ると」メナスは言葉を選んだ。「私たちはエラスモ様を助けるために任地から勝手に帰還した――生粋のエラスモ派に見えるでしょうね」

「ふうん。つまり、今さら他の王子の側につこうとしても、もう手遅れということか」

 リリッサはゆっくりと言葉にした。

 空気が張り詰める。しかしエラスモは不敵な態度を崩さない。

「エラスモ将軍の身柄をレオンテ様に差し出すのは?」

 リリッサが立ち上がって、話しながらエラスモの背後に回った。リリッサは帯剣していた。エラスモが叫べば外の護衛が駆け込んでくるだろうが、そもそもここはメナス軍団の宿営地のど真ん中だ。状況はメナスの側に有利と言える。

「……エラスモ様は、王になったらこの国をどうするつもりですか?」

「それはもちろん――」エラスモは立ち上がって、演説するように言った。「この国を世界でもっとも豊かな国にする!」

「……それで、その方法はどうするんですか、王様?」

「まだ考え中である!」

「……ま、そんなところでしょうね」

 メナスはしばし沈黙し、思索を巡らせた。

 リリッサは椅子に戻って足を組み、不貞腐れたようにそっぽを向いた。メナスは沈黙を続けて、返事をたっぷり焦らしてエラスモの反応を伺っていた。何もかもエラスモの手のひらの上というのは嫌なものだった。

 エラスモの顔には徐々に不安が浮かび始めた。彼にとってのメナスの価値が吊り上がっていく。しかしあまり焦らして短慮を起こされても困る。

「……いいでしょう。そもそも私たちに選択肢はなさそうですし、ね」

「メナス将軍……!」

 エラスモは立ち上がってメナスの手を握った。大げさなアクションに辟易して、メナスはやんわりとその手を振り払った。リリッサが肩をすくめたが、メナスの決断に異論は挟まなかった。

「それでエラスモ様、これからどうなさるおつもりですか?」

「無論、考え中である!」

 エラスモは胸を張って言う。リリッサがイラついているのが分かった。

 エラスモは取り繕うように続けた。

「しかし両将軍の力があれば、このまま王都に攻め上がることも可能だと思うが?」

「それは無謀でしょう。公式にはまだカッシアノ王は生きていますし、そうであれば私たちは謀反人ということになってしまいます」

 リリッサも頷いて、

「王都を落としたあと、遠征地から帰国する他の軍団をわたしたちだけで防ぎきるのは無理だろうね」

 と同意した。

「あくまで現時点ではカッシアノ王の死は噂であって、それを証明するものがない状態では、王様は生きているという建前で動くべきでしょうね。……というわけで、私たちはこのまま前線に戻ろうと思います。任地を放り出したままというのは、反乱と言われてもしょうがないのでね」

「待て待て待て、俺はどうなる!? 王都に戻ったら殺されてしまう」

「だったらこんなのはどうです? 前線で戦う我々が本国への援軍を要請し、それを受けたエラスモ将軍は軍団を率いて前線へ赴く……という感じで」

「なるほど! 理由をつけてメナス将軍の軍団に合流すればいいのか!」

「建前さえしっかりしていれば、王宮もそう簡単に私たちを追討はできないでしょう」

 前のめりになるレオンテに対して、しかしリリッサは冷めた態度でメナスに質問する。

「今はそれでしのげるとして、その先はどうする?」

「これから先どういう情勢になるのかは分かりませんが、このまま外征を続けて、策源地を確保していくのがいいでしょう。戦うにしても交渉するにしても、先立つものは必要です」

「おお! 征服して力を蓄える! そして機を見て凱旋する! これだ!」

 エラスモはいいとして――。

 メナスの方針に、リリッサもとりあえずは納得したようだった。

「……んで、どちらが引き取ります?」

 メナスとリリッサが見合った。リリッサは、腐った牛乳を口にしたかのような渋い顔をして、嘔吐するように口元を歪めた。

「さっき私に従うと――」

 リリッサは首を傾けてメナスを睨んだ。

「……分かりましたよ。エラスモ将軍、我が軍団にようこそ」

「おお! メナス将軍と一緒であればこれほど心強いことはないな!」

「エラスモ将軍の第二軍団はまだ王都に残っていますよね。軍団はエラスモ将軍の意に従いますか?」

「それはもちろん! みな俺の腹心の部下よ!」

「ではわたしの第九軍団と合流するよう命令を出してください」

「よし、すぐに人を送ろう。なあに、我が軍団はすぐに動くさ」




 将軍三人で事務的な打ち合わせを済ませたあと、エラスモを残して、メナスはリリッサを見送るために天幕を出た。わざわざ見送るような関係でもなかったが、リリッサと二人きりになるタイミングを作る必要があると感じていた。リリッサは悪い気はしないようで、メナスの隣を鼻歌混じりで歩いている。

「勝算はあるのか?」

 リリッサは世間話のように切り出した。リリッサは自分の命にかかわるようなことでもそういう態度で扱う女だ。

「勝算がない方があなたの好みでしょう」

「それは誤解だよ。君はわたしのことを破滅主義者か何かだと思っているだろう」

 リリッサがメナスの脇腹を人差し指で突いた。

「やめてくださいよ」

「ふふふ、くすぐったがりめ」

 周りにはメナスの軍団の兵士たちの目がある。メナスはリリッサの指を掴んでやんわりと拒否した。

「まあ真面目に答えるなら、勝算はあまりないでしょうね」

「だとしたらなぜエラスモ将軍の口車に乗った? 君なら他の手はいくらでも思いつくだろうに」

「まあ、しばらくは様子を見たほうが良さそうな感じなんでね。エキシマスの伝説はご存じですか?」

「いいや。君たちの神々については疎くてね……」

「エキシマスというのは大昔、山の国に住んでいた大工ですよ。ある日、夢で大洪水があるというお告げを聞いて、彼は全財産をはたいて大きな船を作ったんですよ。みんなに馬鹿にされても船を作るのを止めなかった。そしたら実際に大雨が降って大洪水が起きて、国中の人がそれに乗って助かったという――」

「その伝説の教訓は? 『治水工事の手を抜くな』?」

「雨が降ってから船を作っても間に合わない」

「頼もしいね、船長」

 二人はメナス軍団の宿営地の外れまで来た。

「なあ、うちの軍団まで寄って行かないか? もてなしの礼をしたい」

「ありがたい申し出ですが、こちらも撤収の準備やら、ボスリム攻略の作戦やら、色々と立て込んでいるんですよ」

「察しの悪い男だな、昨日の続きがしたいんだよ」

 リリッサがぐっと体を近づけた。触れてもいないのに、彼女の熱をじりじりと感じた。

「……それに、ひょっとすると、こうして会えるのもこれが最後かもしれないだろう?」

「そうはなりませんよ」

「……うちの宿営地はすぐそこだよ」

 リリッサがメナスの腰に手を回した。


 メナスは信じていない。

 この世のあらゆることを信じていない。

 もちろんリリッサのことも、エラスモのことも、私的な関係を結んだ副官のことも信じていない。信じていない、というのは、正確に言えば、あらゆる可能性を捨てない、ということだ。

 普通、人は、あらゆる可能性を捨てずに生きていくことができない。どこかで線を引いて、「あの人がそんなことをするはずがない」と切り捨ててしまう。そうしなければ心がその複雑さに耐えられなくなってしまうからだ。

 メナスはそれをしない。

 すべてのことが裏切り、変心し、出し抜き、偽証し、偽り、背信し、企む可能性を切り捨てない。

 この世には、確かなことなど何もないのだ。

 すべては変わりうる。

 そして、その対象は他人だけではなく、メナス自身も含まれている。


 短時間の熟慮の末、メナスはリリッサに身を委ねることにした。

 美しいリリッサと情熱的に体を重ねている最中も、メナスの中には壁で仕切られた冷静な部分があって、興奮する二人のことを油断なく観察しているのであった。

 結局、メナスの軍団が宿営地を引き払ったのは翌日になってからだった。




 メナスの軍団は再び海路から任地へと赴いた。

 エラスモの予想に反して――そしてメナスやリリッサの予想通り、エラスモ将軍の命令にかかわらず、彼の第二軍団は王都から動かなかった。

 それからしばらく、メナスは機嫌を損ねたエラスモの扱いにも悩まされることになった。



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