第6章

死と彼女7

 自分がどこにいるのかわからない。

 まるで海の上を漂流しているようだ。


 海なんて一度も見たことはないが、黄金色の海なら見たことがある。

 より正しく例えるなら、その波に揺られてどこかに運ばれているようだ。


 礼佳は夢の中でぱちりと目を開けた。

 そこは黄金色の世界で、それ以外は何もなかった。

 彼女は稲の上に大の字になって寝転がっていた。


 だが、稲は倒れていなかった。

 夢の中では体重というものがなかった。


 礼佳は稲の上で起き上がり、1歩踏み出してみた。

 稲はわずかに沈み込んだものの、やはり体重の負荷がかかることはなかった。


 見渡す限り黄金色の海。

 美しいが、誰もいない孤独な世界。

 この世界に私は存在しているのだろうか、という疑問が浮かぶ。


 仮に私がこの世界に存在していたとして、それを認識してくれる人間がいなければ私は存在しないのではなかろうか。

 今、私はどこにも存在していない。

 ここは神の世界と同じだ。

 孤独で退屈な世界だ。


 礼佳は声が枯れるまで叫びたくなった。


「神代さん」


 肺いっぱいに空気を取り込んだところで、誰かが名前を呼んだ。

 声がした方向を見返ると、そこには大切な人が凝然と佇んでいた。


「紫月」


 手を伸ばして足を前に出した途端、礼佳は虚無の世界に落ちた。

 頭から真っ逆さまに、あるいは地面と平行に。


 目が覚めると同時に、礼佳は上半身を垂直に起こした。

 周囲を見回すと、既視感が彼女を安心させた。


 見覚えのある部屋。

 神代礼佳の家だ。


 ああ、人間に戻ったのか。

 神代礼佳に戻ったのか。

 私が失ったものは何もない。

 お母様はあの神社から私のことを見守ってくださっている。

 これでよかったのだ。


 しかし、もう二度と母に会えないのだと思うとやはり悲しかった。

 少しだけ人間になったことを後悔した。


 神の世界と人間の世界を行き来した以上、大切な人との別れは避けられない。


 この悲しみを乗り越えることが礼佳に課せられた代償だった。

 禁忌を破った代償にしては安いものだった。


 礼佳は洗面台の前に立ち、顔を洗った。

 久しぶりに味わう爽快感だった。


 これが私の身体。

 これが私の心。

 これが私の記憶。


 私は神代礼佳だ。


 目が冴えると、腹の虫が鳴った。

 食事をしたい気分だった。


 冷蔵庫の中には、プラスチックの容器に入った稲荷寿司があった。

 賞味期限は切れていたが、これ以外に朝食になりそうなものはなかった。


 ひとまずやかんの水を火にかける。

 冷蔵庫から白菜の漬け物を取り出す。

 水が沸騰すると、急須に茶葉を入れて湯を注ぐ。

 湯飲みにお茶を淹れて、手のひらを合わせる。


「いただきます」


 酢の主張が強くなっているような気もしたが、稲荷寿司の味は変わらなかった。


 1人暮らしをしていると、白菜の漬け物に助けられることがある。

 白米に添えてもいいし、おかずの代わりにもなる。


 お茶でほっと一息吐き、居間に脱ぎ捨てられた制服の皺を手のひらでゆっくり伸ばす。

 シャツを着てプリーツスカートを穿き、ネクタイを締める。

 ネクタイは記憶があってもなくても結べる。

 紫月に教えてもらったのだから。


 箪笥にしまい込んでいた新しい靴下を履き、ブレザーのボタンをきっちり留める。


「よし」


 着替えが終わり、礼佳は鞄を探した。

 鞄は玄関に転がっていたが、中はほとんど空だった。

 彼女は居間に戻り、火曜日の時間割の教科書とノートを鞄に詰め込んだ。

 が、まだいつもの重さには達していなかった。


 そういえば、弁当がない。

 料理を作ろうにも食材がないのでは作れない。


 また紫月が弁当をわけてくれるだろうか。

 いや、紫月ならきっとわけてくれる。

 紫月は優しいからな。

 大切な人に甘えられるのもまた幸せだ。


 ローファーの爪先を鳴らし、プリーツスカートを風にはためかせる。


 外の空気をこんなにも美味しいと感じたことはない。

 生きているのだとこんなにも感じたことはない。


 歩き慣れたいつもの通学路。

 秋の畦道。

 夢で見た黄金色の海とまではいかないが、一面に広がる田畑。

 畦道の傾斜に密集した彼岸花。


 家を出る時間が早かったため、礼佳は遠回りして学校に行くことにした。

 黄色い葉をつけているであろう銀杏の木の下を通っていくつもりだった。


 ところが、礼佳の視線を惹きつけたのは銀杏よりも美しい花だった。


「紫月……」


 礼佳は無意識に大切な人の名前を呟いていた。


 真っ赤な花は畦道の真ん中に落ちていた。

 力なく伸びた雄しべと雌しべは死体のようだった。


 紫月が私のために供えてくれた彼岸花だ。

 私が夜空に飛ばした彼岸花だ。


 礼佳は一目見ただけでそう確信した。

 これは神の力でもなんでもなく、人間の勘の範疇であった。

 彼女は運命を信じているが、これはそういう類いのものだったのかもしれない。


 肺炎にかかって死んだ礼佳が最後に見た彼岸花。

 彼女が最後に思ったのは紫月との約束のことだ。

 彼女は約束を守れなくて後悔していた。


 ――紫月くんと一緒にもみじの木を見上げたかったな。


 そうして礼佳は息を引き取った。

 彼女はもみじの木を見上げながら紫月に自分の気持ちを告白するつもりだった。

 病院のベッドの中で、早く退院できますように、と神に願っていた。


 だが、結局、礼佳の願いが叶うことはなかった。

 彼女は後悔しながら死んでいった。


 私が代わりに――いや、私が紫月との約束を果たそう。

 私たちの後悔を晴らそう。


「紫月、約束を思い出したぞ!」


 邪魔な鞄を放り投げて、礼佳は紫月の後を追いかけた。

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