第5章

死と彼女6

 台所の物音で目が覚める。


 紫月の脳裏を過ぎったのは死だった。

 が、昨日よりもそれは幾分か軽くなっていた。


 隣に母の布団はなかった。


 昨夜は母の隣で眠った。

 母がいてくれたおかげか、昨夜は久しぶりに安眠することができた。


 布団を片付けて台所に行くと、テーブルの上には既に朝食が用意されていた。


 茶碗に盛られた白米、湯葉と蓴菜と柚子の吸い物、昨日の夕食で残ったコロッケ、八百屋の新鮮な野菜で作ったサラダ、母の得意な卵焼き。


 母が湯飲みにお茶を注ぎ、紫月は口内に湧いた唾を飲み込んだ。


「おはよう、紫月」


「おはよう。豪華な朝食だね。美味しそうだけど、さすがに全部は食べられそうにないな」


「ちゃんと全部食べなさいよ。お母さんがいない間にすっかり痩せちゃって。迷惑をかけた分、紫月にはしっかり栄養を取って元気になってもらわなくちゃ」


「……うん」


 母の細い腕が、急須の重さで折れてしまうのではないかというくらい弱々しくしなる。


 母は自分のことを棚に上げて紫月の心配をしていた。

 彼からしてみれば、母の優しさが心配だった。


 体調を崩して風邪でも引かれたら大変だ。

 風邪ごときでも人間は死にかねない。

 紫月はそれを言葉通り痛感している。


 箸を並べて食卓が完成し、母は椅子に座った。


「ほら、顔を洗ってきなさい。それから朝食にしましょう」


「わかった」


 紫月は洗面台の前に移動し、鏡に映る虚像を注視した。


 少し瞼が腫れている。

 泣いたつもりはなかったが、眠っている間に涙が流れたのだろう。


 僕も早く元気にならなくちゃ。

 いつまでも神代さんの死を引きずるわけにはいかない。

 きっと神代さんも僕とお母さんが幸せに暮らすことを望んでいる。

 神代さんはそのためにお母さんを助けてくれたんだ。


 水で頬をたたき、脳内の幽霊を蝋燭の火のように吹き消す。


 台所に戻り、紫月と母は「いただきます」と言って合掌した。


 やはり母との食事には違和感に近いものがある。

 1人の食事に慣れてしまったせいだろうか。


 食欲はなかったが、母の料理はするすると喉を通った。

 どんどん箸が進み、いつもより多い朝食はすぐに完食することができた。


 居間のテレビのニュースでは、この村の神社で催された秋祭りのことが報道された。

 ローカルテレビではなく全国のニュースで、だ。

 名前のない神社として取り上げられており、村のことも紹介されていた。

 村の復興にも希望が持てそうだ。


 母が洗濯してくれたシャツを着てスラックスを穿き、ネクタイをきつめに締める。

 靴下を履き、汗臭いブレザーに袖を通す。

 母から弁当を受け取り、鞄に詰め込む。

 鞄を肩にかけ、スニーカーの紐を結ぶ。


「お弁当、礼佳ちゃんの分も多めに入れておいたからね。ほら、礼佳ちゃん、記憶喪失になっちゃったんでしょう? 料理もできないんじゃないかと思って」


「……ありがとう。神代さんもきっと喜ぶよ」


 紫月は思った。


 これが僕の日常になるんだろうな。

 ううん、僕は日常を取り戻したんだ。


 同時に、僕は神代さんとの日常を失った。


 僕は神代さんの死を受け入れないといけない。

 少しでもいい、ゆっくりでもいい。

 神代さんの死を受け入れなきゃいけないのは僕だけじゃない。

 香咲くんも、汐華くんも、饗庭さんも、先生も、お母さんも、村の人たちも。


 皆は神代さんの死を知らない。

 僕が神代さんの死を伝えないといけない。

 そのためにもまずは僕が神代さんの死を受け入れる必要がある。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 母に見送られながら、紫月は3人にこう言おうと決意した――昨日、神代さんが死んだんだ。


 ドアを開けて、新たな日常を歩き出そうとした時だった。


 背後でばたんとドアが閉まる。

 心の中が空白になる。

 思考の奔流に飲まれて溺れる。

 呼吸することを忘れる。

 胸が苦しくなる。


 呼吸を再開する。

 気をつけなければ心臓の鼓動さえも止まってしまいそうになる。


 紫月の瞳に映り込んだのは、手折られた1輪の彼岸花。

 花弁、雄しべ、雌しべの萎れかけた彼岸花。

 ドアの前に転がったそれには何か意味があるような気がした。


 紫月は彼岸花を拾い上げた。

 その瞬間、直感でわかった。

 昨日、礼佳のために神社に供えた彼岸花だ。


「神代さん!」


 死んでしまった大切な人の名前を叫ぶなり、紫月は鞄を投げ出した。

 そして、前のめりになって畦道を疾走した。


 筋肉痛で脚が痛む。

 朝の湿り気を帯びた空気が、容赦なく肌に打ちつけられる。


 紫月が向かっているのは高校ではなかった。

 彼はまっしぐらに神社へと向かっていた。


 神代さんは神社にいる。

 そこで神代さんは待っている。


 礼佳に会いたいという一心で、紫月は急き立てられるように交互に激しく地面を蹴った。


「神代さん、今度こそ約束を果たすから!」


 たとえ神代さんがいなくてもいい。

 僕の声が届いてくれたらそれでいいんだ。


 神代さん、君に告白するよ。

 君に好きだって伝えるよ。


 紫月の手中にあった彼岸花はいつの間にかなくなっていた。

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