第4章

死と彼女5

 相変わらず月の眩い深夜。


 神代礼佳が死んで丸1日が経過した。


 死んだというのに、彼女は悲しみに苦しめられていた。

 心というものを得てしまったがために、神に戻ってからも人間の感情や感覚をずるずると錘のように引きずっていた。


 狭小なぼろい本殿で、彼女は彼岸花を指で回転させて弄んでいた。


「はぁ……」


 神に戻ってから溜め息ばかり吐いている。

 これで何度目かもはや数え切れない。


 いつまでも悲しみを引きずるのはよくない。

 私は泣きじゃくって悲しみ抜いた。

 そろそろ悲しみを乗り越えなければならない。


 彼女は本殿を透過し、ふわりと宙高く舞い上がった。

 それから、もみじの木の枝に腰かけた。


 強風が巻き起こると、というよりは、それは神の力によるものだったのだが、彼女は彼岸花を手放した。

 彼岸花は風に乗って村の方に飛んでいった。

 そして、あっという間に空の彼方へと消えてしまった。


 彼女は願った――あの彼岸花が紫月の元に届きますように。


 彼女は思わず噴き出しそうになった。

 神が何かを願うなんてあり得ないことだからだ。


 ああ、あの彼岸花のように私も飛んでいけたらいいのに。

 神は不自由だ。

 私は神社から出ることができない。


 人間は自由だ。

 鳥のように飛ぶことはできないが、どこへでも行くことができるし、やりたいことはなんでもできる。

 楽しみもあるし、悲しみもある。

 楽しみはもちろんだが、今は悲しみすら幸せに思える。


「人間が恋しいか?」


 隣を振り向くと、そこには母が座っていた。


 人間が2人も座っていたら枝が折れてしまうだろう。

が、2人は神だ。

 2人はこの世界には存在していない。

 だから、枝が軋むこともない。


「はい、お母様。私にはまだ人間の感情や感覚が残っています。いずれは消えてしまうものですが、私はこの心を大切にしたいのです。大切な人を思うこの心は忘れたくないのです。お母様には理解できないでしょうね」


「心か。確かに、私には理解できない。教えてくれ、死や別れというものは悲しいのか?」


「はい。自分の一部を失ったかのように心が痛みます。死や別れは心に穴を穿つのです。その穴を埋められるのは死んだ人や別れた人だけなのです」


「心というものはどこにあるのだ?」


「わかりません。ですが、痛みは胸の奥にあるような気がします。神は何も感じないはずなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられるように痛むのです。私が特別なだけでしょうか? それとも、実は神にも心があったということでしょうか?」


 母は肯定するでもなく否定するでもなく首を振り、両手で胸の中心を押さえた。


「私もここがなんだかおかしいのだ。何かが詰まっているような、何かが引っかかっているような、何かに締めつけられているような……とにかく、おかしいのだ。これが悲しみなのだろうか? これが心の痛みなのだろうか?」


 彼女ははっとした。


 悲しみは連鎖する。

 もしかしたら、私の悲しみがお母様にも連鎖したのかもしれない。


 だって、神が心に痛みを感じるはずがない。

 神に心があるのかさえ怪しいところだ。


 だが、お母様は悲しんでいる。

 私はそう感じている。

 きっとお母様も私の悲しみを感じて悲しくなったのだ。


 彼女は初めて母の温かさを感じていた。

 今の母には人間的な温かさがあった。

 人間的な母と子の関係が2人の間にはあった。


「お母様、神にも心があったのかもしれませんね。私にはお母様の悲しみがわかります」


「私にもお前の悲しみがわかる。お前が悲しんでいると、私も悲しくなってくる。私にも心があったというのか。ふふふっ、何故だろうな」


「それが人間だからです。人間の心は通じ合うのです。文字や言葉を使わずとも相手の心が伝わってきます。きっと関係が親密になればなるほど心の繋がりは強くなるのだと思います」


「やはり私たちは1つだったということか。かつて私たちは一心同体だった。私の一部からお前が生まれて、お前が心を手に入れて私にも心が生まれた。私たちは親子だったのだな。人間のような血の繋がりはないが、私たちは人間よりも関係が深い。どんなに離れていても、私たちは1つなのだから。ああ、このことに気付けてよかった。娘よ、私は幸せだ」


「私もです、お母様」


 2人の神――母と子は抱き合った。

 体温こそ感じられなかったが、冷たい心を温め合うことはできた。


「言うまでもないことだが、人間に戻ったら二度と神には戻れない。人間はいつか死ぬ。長く生きれば別れも経験する。大切な人もいつかは死ぬ。その時、お前は耐え難く重い悲しみを背負わなければならない。それでも人間に戻りたいか?」


 母の囁きに、彼女は「はい」とはっきり答えた。

 迷いはなかった。


「ですが、お母様と二度と会えなくなるのは寂しいです……せっかくお母様の温かさを初めて感じることができたのに……」


 母は彼女の手を取って参道に舞い下りた。


「私たちは1つだ。たとえ神と人間に別れたとしても、私たちは繋がっている。私はお前の母だ。そして、お前は私の娘だ。寂しいことなんてない。私はいつもここにいる。いつもここからお前を見守っている」


「お母様……」


「幸せに生きるのだぞ。約束だ」


「はい。お母様のことは決して忘れません。約束です」


 彼女は自らの小指と母の小指を結び合わせた。


 母はこの行為が理解できないといった具合に胡乱げな目で小指を凝視した。


「なんだ、これは?」


「指切りです。人間は大切な約束を交わす時、こうして小指を結ぶのです。指切りをした約束は絶対に守らなければなりません」


「ふふふっ、人間という生き物は面白いな。娘よ、最後に1つ尋ねたい」


「なんでしょう、お母様?」


「お前の名前を教えてくれ。お前が年老いて死んでも名前を覚えていたい」


 神としての私には名前なんてない。

 だが、人間としての私には名前がある。

 紫月に呼ばれる名前がある。


「私の名前は――神代礼佳です」


 母は「神代礼佳」と繰り返し呟いた。

 永遠にこの名前を忘れないようにするために。


 月が翳り、神社の境内が闇に沈む。

 母の姿が見えなくなる。

 雲間の月光が煌き、それは舐めるように参道を這う。


 母はもうそこにはいなかった。


「礼佳、さよなら。少し眠るといい。目が覚めた時、お前は人間に戻っている」


 母の声だけが境内にこだまし、その残響は長引いて森のどよめきと同化した。


 睡魔が礼佳を夢の中へと誘う。

 心地いい浮遊感が彼女をどこかに連れ去ろうとする。


 神は眠らない。

 眠気に襲われたということは、神から人間になりかけているのだろう。

 いよいよ母との別れだ。


「さよなら、お母様」


 礼佳の意識はここで途絶えた。

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