第3章
死と彼女4
拝殿の鈴が鳴り、神は本殿と拝殿をすり抜けて賽銭箱の上に尻を載せた。
紫月が来てくれた。
彼は賽銭箱の上に彼岸花を添えた。
「神様、お母さんの病気を治してくれてありがとう。お母さんも感謝していたよ。今、お母さんは夕食を作ってくれてるんだ。まるで夢みたいだよ。でも、今日は神代さんがいなくて寂しかったな。心にぽっかりと穴が開いてしまったみたいだよ。自分の一部を失うってこういうことだったんだ」
「私もだ、紫月。私の心にも大きな穴が開いているよ」
紫月の独り言に、彼女は独り言を返した。
紫月の声は彼女の耳に届いているが、彼女の声は紫月の耳には届かない。
人間の世界と神の世界は違う。
神は人間に干渉することができない。
本来なら2人が出会うことはなかったのだ。
「私も今日は寂しかったよ。私が人間なら、学校に行って、勉強して、弁当を食べて、5人で遊んでいたのだろうな。だが、今日は何人か参拝者が来てくれたぞ。この調子ならもう少しで賽銭箱がいっぱいになりそうだ。昨日の秋祭りでかなり溜まったからな。賽銭箱の中身で拝殿と本殿を改装すると村長も言っていたし、神社が綺麗になったらもっと人間が集まるようになるだろう。私の居心地もよくなるだろうな」
2礼、2拍手。
願いが口に出される。
「もう一度神代さんに会いたい」
彼女はやるせなくなって顔を伏せた。
「私だって紫月に会いたいよ……」
目の前にいるのに。
声が聞こえるのに。
話しかけているのに。
手を伸ばせば届きそうなのに。
それなのに、紫月は遥か遠くにいる。
紫月は1礼し、目尻から雫をこぼすまいと上を向いた。
彼の視線の先にはちょうどもみじの木があった。
彼女は両足をぶらつかせながら紫月の瞳に映る景色を眺めた。
紫月と同じ景色を見つめて、紫月と同じことを感じて、一緒にもみじの木を見上げているはずなのに、私たちはそれぞれ違う場所にいる。
紫月は生きていて、私は死んでいる。
1週間前、そうだったように。
ただ、この1週間が特別だったのだ。
「神代さん……」
「紫月、私はここにいるよ……こんなに近くにいるのに……」
紫月は最後まで彼女に気付かないまま帰ろうとした。
彼女は賽銭箱の上からぴょんと跳んで離れていく後ろ姿を追いかけようとしたが、途中でやめた。
紫月の姿が石段の下へと消えていく。
一緒に帰りたくてもそれはできない。
彼女はこの神社に縛られて身動きが取れない。
それに、村に下りたところで彼女は存在できない。
彼女はこの世界には存在できない。
彼女は孤独な世界にしか存在できない。
本殿に戻ろうとして、ふと賽銭箱の上の彼岸花が目に入った。
ああ、彼岸花よ。
礼佳が死の間際に見た最後の花。
死を受け入れながら、礼佳はこう思った――紫月くんとの約束を守らなくちゃ、あの神社に行かなくちゃ。
礼佳はここで紫月と何かをする約束をしていた。
指切りして大切な約束を交わしたのだ。
どうしても思い出せない。
この約束の記憶は礼佳の身体に置き忘れてきてしまった。
いくら考えても思い出せないものは思い出せない。
思い出せたところでその約束は果たせない。
神として約束を果たすこともできない。
約束というものは、指切りした相手でなければ果たすことができない。
「紫月、また明日」
彼女は彼岸花にキスをして本殿に舞い戻った。
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