第2章
死と彼女3
目が覚める。
何か音が聞こえる。
リズミカルな音だ。
その音は小気味よく鼓膜を振動させる。
紫月は居間の天井を見上げていた。
首の向きを変えて台所に視線を移すと、そこには母の後ろ姿があった。
母は料理をしていた。
音の正体は、包丁がまな板の上で食材を切るたびに生じるものであった。
あれは夢じゃなかったんだ。
お母さんの病気が治ったんだ。
お母さんが帰ってきたんだ。
紫月は重い瞼をこすりながらふらふらと台所に行った。
「お母さん」
「どうしたの、紫月。夕食が出来上がるまでまだちょっとかかるから待っててね」
「うん」
母が料理する姿を見ることは二度とないと思っていた。
夢のような光景だ。
「お母さん」
「何?」
「病気、治ったんだね。だから退院できたんでしょ?」
「そうよ。本当は治らない病気だったのにね。脳の腫瘍が突然消えたの。病院の先生も奇跡だって言って驚いていたわ。きっと神様が助けてくれたのよ。いいえ、紫月が神社を復興して神様にお願いしてくれたからね。神様が紫月の願いを叶えてくれたのよ」
「……うん。本当によかったよ」
奇跡なんかじゃない。
ましてや僕のおかげでもない。
神様が命を賭けて願いを叶えてくれたおかげだ。
紫月は居間に戻ってジャケットを羽織った。
「お母さん、神様にお礼を言ってくるね」
「お母さんの分もお礼を言っておいてね。お母さんもいつかあの神社にお礼参りに行かないといけないね。行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
行ってらっしゃい、行ってきます――この一言のやり取りが幸せに思えた。
1人ではないことが幸せに思えた。
礼佳と一緒にいた時に感じた温かさが帰ってきた。
仮眠を取ったら歩けるほどには元気になった。
それよりも脚が痛かった。
明日は筋肉痛待ったなしだろう。
畦道の脇に群生した彼岸花の中から1本を摘み、紫月は奇妙な景色を見渡した。
両の手のひらを合わせて指先から手首まで開いたような容姿。
不可視の魂を支える2対の5指。
彼岸花はどことなくもみじにも似ている。
この赤い手たちは一体誰の魂を支えているのだろうか。
重い足取りでやっと鳥居の前に辿り着いた。
この神社には大切な神様がいる。
この1週間は不在だったけど、今日はちゃんとここにいる。
紫月は背筋を伸ばして鳥居をくぐった。
その瞬間、空気ががらりと変わった。
言葉では表現できない感覚だった。
荘厳な雰囲気とでもいうのだろうか、神社の中はそういうもので満たされていた。
石段を1段上るごとに空気が冷たくなっていく。
空気が張り詰めていくような、と表現した方がいいかもしれない。
神社の雰囲気に圧倒されるように、疲労した身体が力んでいる。
紫月は手水舎できちんと身を清めていくことにした。
手にしていた彼岸花を水盤の縁に置き、柄杓で水をすくう。
左手、右手の順に清め、口をすすぐ。
もう一度左手を清め、柄杓の柄を洗い流す。
神代さんには穢れがないって言われたけど、大切な神様の御前に立つのに身を清めないわけにはいかない。
紫月は彼岸花を取って参道に踏み出した。
掃除された拝殿と本殿が森厳に映える。
神も居心地がいいことだろう。
鈴を鳴らし、耳を澄ませる。
神の足音を聞き逃さないように。
しかし、聞こえるのは森のざわめきと川のせせらぎ。
神の足音は無色透明で人間には聞き取れないものだった。
紫月は賽銭箱の上に彼岸花を添えた。
「神様、お母さんの病気を治してくれてありがとう。お母さんも感謝していたよ。今、お母さんは夕食を作ってくれてるんだ。まるで夢みたいだよ。でも、今日は神代さんがいなくて寂しかったな。心にぽっかり穴が開いてしまったみたいだよ。自分の一部を失うってこういうことだったんだ」
紫月は胸に手をあてがった。
心が痛い。
砕け散ったハート型のガラスの欠片が、ハート型を取り戻した心に無数に刺さっている。
その傷口から血が滲み、心に激痛をもたらしている。
2礼、2拍手。
赤く腫れた瞼を閉じる。
「もう一度神代さんに会いたい」
紫月は独りごちた。この願いが神の耳に届いていることを信じて。
1礼し、嘆息する。
礼佳はもういない。
好きだった彼女はもう死んだ。
結局、告白できないまま彼女は死んだ。
紫月は両腕で自らの身体を抱きしめた。
叶うはずもない願いだ。
神様がそう言ったんだから間違いない。
だが、紫月は願い続けてきた。
治るはずのない母の病気が治るように願い続けてきた。
そして、その願いは叶った。
後悔しまいと諦めなかったからだ。
紫月は紅涙を絞るもみじの木を仰ぎ見た。
礼佳と一緒に見上げたもみじの木。
空に届きそうなくらい高く、夕日よりも赤いもみじの木。
彼女も見下ろしているだろうか。
それとも、隣で一緒に見上げているだろうか。
次に瞼を閉じた時、もみじの木は見えなくなるだろう。
ほら、見えなくなった。
もうぼんやりとした赤色しか見えない。
「神代さん……」
すぐそばに礼佳がいるような気がした。
「紫月」と返事をしてくれるような気がした。
もう一度神代さんに会いたい。
もう一度神代さんと一緒にこのもみじの木を見上げたい。
その日まで僕は願い続けるよ。
僕にはそれくらいしかできないから。
僕は神様に頼ることしかできないから。
夜の気配が背後から忍び寄ってくる。
そっと足音を立てないようにしながら。
紫月は涙を拭って踵を返した。
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